04

 リレイアはペンダントを拾い上げる。小さなそれは、月明かりに照らされきらりと光を反射していて、まるで一粒の宝石のようにも見えた。

 綺麗、と思わず彼女は呟いた。


 小さな十字架を握り締めて、リレイアは声をかけた。



「ねえ、貴方」



 少年は、氷のように冷たい瞳をしていた。

 間近で見ると彼のあまりの迫力に足がすくみそうになる。



​────「ペンダントの礼だ。殺す前に、本当にお前がヒトを喰わない悪魔か確かめてやる」



 そう言って彼は血に塗れた腕を差し出しきた。突然の自傷行為をする光景に、ぐらりと足元が揺れるのが分かった。


 リレイアは自分のことをまだよく知らない。

 だが、自分で他の悪魔とは違うことは分かる。


 だから人間なんて食べないのも知っていたし、そもそも身体だった。他の悪魔とは、きっとつくりが違う。


 そんな特別な彼女が、狩り師である彼に差し出すのは悪魔という生物の情報。

 記憶を取り戻す手段を探しつつ、自分で分かる範囲の知識と、思い出して取り戻した知識を天桐零八に渡すのだ。

 そして、もし自分が人間に手を出そうとしたら彼に殺してもらうこと。

 それを踏まえたうえで彼女たちは契約を結んだ。


 リレイアは記憶を取り戻すために。

 零八は悪魔をもっと知るために。


 互いに利用し合うのに丁度良い関係を繋いだ。


 そうして彼と契った瞬間から、リレイアは自分のなかで何かが大きく変わっていった気がしたのだった。




***




 零八が風呂から出てリビングに戻ると、彼女はソファに横になって眠っていた。

 タオルでガシガシと頭を乱暴に拭いながら、零八は溜息を吐く。



​────父親が悪魔だと知ったのは、父親が殺されてからだった。

 悪魔の存在は、テレビで殺人事件として度々放送されているのを見て知った。だが、それは自分には関係の無い話だと思っていた。

 温厚な父は、零八によく「大丈夫、父さんがお前を守るから」、と笑いかける、そんな悪魔だった。


 だから、彼は知らなかった。

 夜な夜な出掛けては、遠い街で人間を食っていたことを。


 平穏はある日を境い目に一瞬で崩れ去った。


 家に押し掛ける、たくさんの武装した人間。その手には銃や刃物が握られている。



『零八。お前は父さんと母さんの大事な子だ。悪魔である私と、人間の母さんの血を引いた、稀代の混血の子』


『・・・・・・何を、言って・・・・・・』


『父さんも母さんも、人殺しだ。ああ、たくさんヒトを喰ったとも。けれど、これだけは覚えていて欲しい。私も母さんも、お前をすごく、愛していたんだよ』



 父の手が、零八の頬を優しげに撫でる。

 愛おしいものに触れるような手つきで、そして、穏やかな表情で。


 父が笑みを一層深く浮かべると、その姿は徐々に変わっていく。

 肌に黒い紋様が現れ、手脚は血のような赤黒い色に変わる。そして、染まった手の指先から、長く鋭い爪が生える。


 人間の見た目ではなくなった父は、まさに「悪魔」と形容するに相応しい姿になった。



『・・・・・・外は包囲されている。逃げることは不可能だ。前に屋根裏部屋は行ったことがあるだろう? お前はそこでじっとしていろ。大丈夫、父さんがお前を守るから』



 何を、言っているのか分からない。

 目の前の状況が受け入れられない。


 これから何が起きる? 戦争?

 誰と、誰が?


 ​────父と、あの人間達だ。


 何故? 何故自分の父が、狙われる?


 ​─────父が、悪魔だからだ。


 ひゅ、と零八の喉が鳴る。

 よくテレビで流れるニュースのように、父はヒトを殺して、食べていたというのか?

 幼い零八は目の前の状況を受け入れられず、その場で呆然と立ち尽くしていた。

 心臓が悲鳴をあげている。胃は捻られているような感覚がして、今にも中身をぶちまけてしまいそうだった。


 脚の力が抜け、ふらりとたたらを踏んだ途端、乱暴に扉を開ける音が二階まで響き渡る。

 零八ははっとする。父は早口で叫んだ。



『行け! 零八! 早く!』



 零八は走る。

 今にも抜けそうな力を振り絞って、足を無理矢理前に進める。一歩、また一歩と足を踏み出す度に強い吐き気に襲われるが、彼は屋根裏部屋を目指してただひたすらに走る。


 どうしてこうなった。

 嫌だ。死にたくない。死んで欲しくない。

 どうして自分が。

 父が悪魔?

 受け入れたくない。悪魔は悪いヤツだって誰かが言っていた。

 その、血を、自分が引いているって?


 ドクン、と心臓が大きな音を立てる。

 零八は屋根裏部屋飛び込んでは、ずるずるとその場にへたりこんだ。

 口元を抑えて、吐き気を我慢する。



『零八。今日の夜も少し、父さんは出掛けてくる。明け方には帰ってくるから、良い子にして待っているんだよ』


『ごめんね、零八。お前は人前で運動をしちゃいけないんだよ。理由? 零八が大人になったら、教えるよ』


『零八。お前、腹は空いてないか? いや、違う。えーっと・・・・・・その、何か違うものが食べたいとか思ったことはないか? ほら、なんというか、食べ物じゃない肉が食べたいとか・・・・・・。 ない? そうか、ないか! 良かった。ああ、本当に良かった・・・・・・!』



 走馬灯のように、零八の頭に父との記憶が流れ込む。

 父は最後まで、自分が悪魔であることを隠そうとしたのだ。


 人間の脅威である悪魔。忌むべき排除対象。

 そんな生き物から少しでも切り離せるように、自分の子供がこの世界で生きやすいように、彼は零八を守ろうとしたのだ。

 それは、何ものにも変えられない、たった一つの「父親の愛」だった。


 零八は涙を流す。

 人間が悪魔に食べられたニュースを見て、心を痛めたこともあった。

 それを見て父は、「悪魔が、最初から人間として産まれられればな」、と自分に言ったのを零八は思い出した。

 彼は、どんな気持ちでそれを言っていたのだろうか。


 胸をぎゅっと掴まれる。

 部屋の外から銃声と怒鳴り声が響いている。零八の小さな身体は、絶え間無く小刻みに震えていた。

 恐怖で気が狂いそうになっても、零八は父親の言いつけどおりに屋根裏部屋でただじっと銃声が止むのを待った。


​─────そして、零八はこれからもずっと、その選択を死ぬほど後悔することになる。


 ようやく音が静まったとき、部屋から出て初めて目に飛び込んだ景色は、数え切れない死体の山と、そこに転がる父、天桐四牢あまぎりしろうの姿だった。




***




 そこで、零八は夢から覚めた。

 じっとりと背中に汗が滲む不快感に顔を顰め、起き上がっては頭を乱暴に掻き乱す。


 彼は自分の部屋のベットに倒れ込んではすぐに眠ってしまったのだ。

 ぐるりと辺りを見渡すと、何も変わらないいつもの部屋がそこにはある。

 埃の被る本棚。散らかる衣類。変わらない景色。

 だから、昨晩のことも全て夢だったのかと思うが​────



「おはよう。起きたのね」



 勢いよく扉を開けて入ってきたのは、人間を食べないという異端の悪魔、リレイア・スティファノスだ。

 彼女は腰に手をあてて、零八の顔を覗き込む。



「朝一番に人の顔見て溜息とか、失礼しちゃうわ」


「・・・・・・お前は朝から元気だな」


「ええ。誰かさんが毛布をかけてくれたおかげで朝までグッスリだったわ。でも、ベッドに運んでくれたら百点満点ね」


「あそこで寝落ちしたのはお前だろうが・・・・・・」


「そうだけどー。乙女心が分からない子ね」



 リレイアは頬を膨らませながら人差し指を零八に突きつける。



「ていうか、部屋が多いのになんでどこも散らかってるの? 全部物置部屋みたいになってるじゃない」


「全部物置部屋と同じだからだ。どうせ俺は一つの部屋しか使ってない」


「な・・・・・・!」



 リレイアは絶句する。零八は彼女の想像する以上に全てに対して無頓着だった。


 信じられない、という表情のまま固まる彼女に、更に零八はこう放つ。



「あとは全部お前が好きに使え。俺の部屋に近寄るなよ」


「ほんっと貴方って、宝の持ち腐れって言葉を絵に書いたような人間ね・・・・・・!」



 リレイアは額に手を当ててそう返した。



​ ─────今日は天気の良い日になるらしい。

 カーテンの隙間から覗く朝日は、零八の部屋に柔らかく射し込んでいた。窓の外からは心地よい小鳥の囀りが聞こえてくる。


 リレイアの格好は、昨日と変わらない純白のドレスだ。裾だけが、零八が自分で切った腕の止血に使ったために破けている。


 これは新しい服を用意する必要があるな、と彼は考える。それにドレス姿で街を歩かれるのも目立つし、DAFや他の狩り師に目をつけられるかもしれないからだ。

 当然天桐家のタンスに女物の服は無く、店で買ってくるしかない。


 零八は眉間に皺を寄せながら、身支度をするのだった。

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