03
悪魔である彼女は、零八が純粋の人間ではないことに気が付いていた。
そう、彼は。
「半分が、お前と同じだからだ」
玄関へと続くレンガの小道で、リレイアは足を止めたまま、零八の言葉に愕然としていた。
有り得ない、と、信じられないものを見るような目で彼を見た。
天桐零八は、悪魔と、人間の混血だった。
「悪魔の父親と、人間の母親。普通なら子は作れない。作れても、栄養が足りなくて腹の中で死ぬ。悪魔の食料は人間だからな。・・・・・・この意味は、分かるな?」
彼はリレイアに背を向けたまま、彼女に問うた。
全てを理解したリレイアは、口元を抑えている。
「母親は俺を産んですぐに自殺した。ヒトの肉を喰った罪に耐えられなかったんだ。それから父親は一人で俺の面倒を見て、この家で二人で暮らしていたが、八年前に父親が悪魔狩りの国家組織、DAFに殺された」
淡々とした口調で零八は言う。その声音に温度は感じられない。
リレイアは零八に駆け寄って、綺麗な顔を歪めながら彼に手を伸ばしたが、躊躇うようにすぐに引っ込めた。彼女は自分の手をぎゅっと握りながら、泣きそうな表情を浮かべる。
「貴方は、どんな思いで、今までを・・・・・・」
そう呟いた途端、零八は振り向いて、リレイアを思い切り睨み付けた。その瞳には苛立ちが滲んでいた。
彼女はびくりと肩を震わせたあと、微かな声で、
「・・・・・・ごめんなさい」
と謝った。
出会ったばかりの女に、しかも悪魔に憐れまれるのは彼にとって屈辱だったからだ。
零八は冷たいドアノブを捻る。大きな扉が、重たい音を立てて開く。
そうして見えた広い玄関ホール、その先の廊下の壁に、赤褐色の染みがびっしりと飛び散っていた。あまりの光景にリレイアは息を飲む。
「父親を殺しに来た人間を、俺が返り討ちにしたときに汚れた壁だ」
高級品の白の壁紙に、八年も経った血液は、もう落ちる様子が無い。ベッタリとこびりついて、拭いても拭いても消えないまま、今もそこにある。
まるで、その部分だけ時間が静止しているかのように。
零八の指先が壁をなぞると、いくつもの悲鳴と銃声が、彼の耳の奥で木霊する。
あの日彼が殺した人数は一人や二人ではない。二十や三十、下手すると五十近くいた人間を、しかも完全に武装した人間を、零八は次々と返り討ちにしていった。当時は刀は持っていなかった。彼はナイフ一本で悉くを蹂躙した。
血に塗れたこの廊下で、彼は呆然と佇んだ。死屍累々の世界のなか、彼の表情は転がる死体と似たような顔をしていた。
零八はあの瞬間に、自分が通常の人間よりも遥かに強いことを知ったのだ。
そんな忌まわしい記憶は、壁の血のように、彼の心に一生消えない傷を作っていった。思い出すだけで吐きたくなる。
リレイアは玄関に突っ立ったまま、零八の背中を見つめていた。
そんな彼女に、零八は言う。
「これで気が変わったなら、もう一度機会をやる。逃げ出したいなら逃げろ」
リレイアは微かに瞳を揺らしたあと、ゆるゆると首を振った。
そして「お邪魔します」、と呟いて、彼の元へと歩いていく。
「さっきも言ったでしょう。私は私の目的があるの」
海色の瞳と、金色の瞳が向き合っている。
「貴方のことなんて、これっぽっちも怖くない」
「・・・・・・・・・・・・」
「ここ、気に入ったわ。広くて、お掃除のしがいがあるもの」
人差し指を零八につきつけて、リレイアは得意げに笑ってみせた。
零八は大きな溜息を吐いたあと、目配せで自分についてくるように促した。
彼はリビングへと続く長い廊下を歩く。
屋敷は内装も豪華で、目が飛び出るほどに高価なシャンデリアや絵画が飾られてある。どれも零八の父親の趣味だった。
しかし息子である彼はそういったものに一切興味がなく、一人でこの家に住んでからは屋敷に新しい装飾品が飾られることはなくなった。
見た目に一切こだわらず、庭も部屋も掃除もしてこなかった。おかげでどちらも荒れ放題である。
「・・・・・・悪魔と人間の混血。レイヤは特別な存在なのね」
「特別なんて言葉で飾るなよ。俺は忌み子だ」
「そう呼ぶには勿体無いわ。貴方は人を救っているのだもの」
「・・・・・・助けているつもりは一切ない。悪魔を殺す行為に、たまたま人の命が救われるという副産物があるだけだ」
「貴方、本当にひねくれてるわね」
そんな会話をしながら、リビングの扉を開ける。
毛脚の長いカーペット、木製のテーブルと椅子。どれも一級品のものだ。当然空間もだだっ広く、高い天井からは大きなシャンデリアがぶら下がっている。
ムーディーな雰囲気が漂うリビングは、見るものを圧倒させるデザインだった。
「本当にすごいところね・・・・・・こんなに豪華なのに、どうして貴方は無頓着でいられるのよ」
「どうでもいいからだ」
ぶっきらぼうにそう答えて、零八は雑な手つきで鞘をソファの上に放り投げた。
埃の被った部屋の装飾品も雑に投げられた刀も、彼からの扱いに泣いているに違いない。
リレイアはぐるりと部屋を見て回る。
「人間と悪魔の混血って、どう違うの?」
大きな窓の傍で、リレイアは零八に問う。
射し込む月の光がスポットライトのように、美しい少女を照らしていた。
「常人よりも遥かに身体能力が高い。食べ物は人間と同じ。血が特殊で、悪魔からは美味そうに見える。あとは・・・・・・」
そこで、零八は止める。
怪訝そうに、リレイアは首を傾げた。
「あとは、何?」
「・・・・・・何でもない」
零八はそう言って、冷蔵庫の中に冷えたペットボトルの水を喉に流し込んだ。
喋るのに疲れた、という顔をしている。
彼は額をシャツの裾で拭うと、舌打ちをして扉の方へ歩いていく。
「どこ行くの?」
「風呂だ。お前はここでじっとしてろ。余計なことするな」
「む。嫌な言い方するわね、分かってるわよ」
最後まで彼女の言葉を聞くことなく、零八は浴場へと向かった。
***
「はあ。本当にツンケンした人間ね」
一人でそう呟くリレイアの顔はむくれていた。
溜息を吐いて、窓際に置いてある花瓶を人差し指で撫でる。群青色をした花瓶は見とれそうになるほどに綺麗で独特なデザインが施してある。
折角なのだから花を飾ればいいものの、零八はそういった行為を一切する気配がない。
二度目の溜息を吐いて、リレイアはソファに腰掛ける。あまりにもふかふかで彼女は驚いた。
感触を味わうように何度か小さく尻をバウンドさせたあと、ふっと力を抜いて天を仰いだ。
三日間。リレイアが持っている記憶はその数日だけだ。
三日前の夜、彼女は気が付けば路地裏に突っ立っていた。この瞬間に産まれたかのように、リレイアの記憶はそこからしか始まることはなかった。
自分は何をしていたのだろう。
どこにいたのだろう。
誰と関わっていたのだろう。
思い出そうとしても、脳内に靄が流れくるようで思い出せなかった。
ただ分かっていることは、自分はリレイア・スティファノスという「悪魔」であること。
その事実こそが、自分を自分たらしめる証明だった。
記憶を取り戻す手がかりを探しに、リレイアは街中を歩き回った。
黒い服を着た、武装した人間からは息を潜めて隠れきって、他の悪魔に遭わないように、細心の注意を払って歩いていた。
このままではいけない。
記憶を取り戻して、完全なリレイア・ステファノスにならなければ。
己の本能がそう叫んでいた。
そんな日の三日目の今日、とうとう一人の少年と彼女は出会う。
名は
闇の中をふらふらとさ迷っている途中、リレイアは屋根の上で素早く動く二つの影を見つけた。片方は逃げ回り、もう片方が追い込む様子を目にして、彼女ははっと息を飲んだ。そして次の瞬間にはもう既に、ごろりと片方の首が宙に舞っていた。
月の光が明るいおかげで、その正体はハッキリと目に映る。
一振の刀を持った、輝く銀色の髪が印象的な少年だった。
「何、あれ・・・・・・」
人間とはかけ離れた動き。人間離れした、というか、彼は本当にただの人間ではなかった。
唖然としたままのリレイアはふと、視線の先にきらりと光るものを見つけた。
何だろう、と思い近付いてみると、小さな十字架のペンダントが落ちていた。
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