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××××-×-× 01.21.11.32
存在とは認識する者によって姿を変え、認識する人の数だけ姿がある。
それはとある物語の締め括りとして唱えられた言葉だ。
原理としては、シュレディンガーがかつて提唱した考えにも一部符合したと言えるだろうな。
箱の中の猫の生死などそれを認識する者の意見によって変化し、時としてそれは生きながらにして死に続けるという酷く矛盾した考えにすら肯定を返す理論故に、私はなかなか気に入っておる。
本人の意思など関係なく、観測者によって認知される別の自己。
観測者によって作り上げられた認識、カメラで写された過去の映像の様に、一方方向からの認識だけで自己完結した別の姿、それは写す側の人間の数だけ変化し認知の数だけ別の姿を常に取る。
ではそれ程までに増えゆく認識の中、人は何を持って己を劃定するのか。
答えは簡単で曖昧な物だ。
『我思う故に我あり』
随分とあやふやで頭が悪そうな言葉だと思わないか?
だが、黙考すればするほど、その言の葉には混迷した意見を束ねるだけの絶対性と柔軟さを兼ね備えた物だと思えてくるのがいい嗤いの種だ。
写真に写された虚映を見つめ、それを自身だと認識できる力。
他人では無く自己であると認識できる鋲の様な物が、人を人たらしめているのだと思うのだ。
仮に他人がどれだけ自己を否定しようと、どれだけ否認しようとも、自身の持つ認識だけは絶対に削ぐことはできぬ。
自分で自分を肯定できぬ私にとって、それは随分と異なるい話だよ。
人は常しえ自分を認め、自分を認識している。
それを止める物が短期なら睡眠、永劫となれば死であろう。
人は夢の続きを見るために眠る、などといった言葉をとある虚構で知ったが、私に言わせてもらえば少しの間自己を忘れたい、そんな思いから人は眠ると思うのだがね。
まぁ、さりとて私の様な存在にとってその欲求は理解に苦しむ話ではあるが、少なくとも他人の認識の中でしか生きれぬ私とは違う悩みもあるのやもしれぬ。
「おまえは何も考えるな、おまえの頭の騒がしさとやらは、私が代わりに引き継いでやる阿呆」
ベッドの上で目を閉じたまま、二刻の後7回目の寝返りを打つその姿に、私は静かに投げかける。
なにせ、こいつが眠らないのであれば、私もまた眠ることが許されないのだからな。
少しばかり甘やかしても罰は下るまい、何せ私はその為に存在する如月であろう。
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