12

 ×月×日


 日中世界を取り巻く雑音が消える夜は好きだ。

 余計な情報が削り落とされ、無駄な雑音が消えるからこそ幾何か頭の回転もましになるし、空想に浸るリソースも確保できる。

 「こんな事をわざわざ尋ねる行為に何の意味があるんだ?」

 そんな束の静寂の中、端末を操作する自分の横で不意に如月が声を発した。

 その言葉の意味が理解できなかった僕は、直ぐ脇で画面に食いついていた如月を振り返る。

 「私が気づいたのだから、お前だってなんとなくは判ってるであろう」

 そう言い、如月は細く長い指で画面の一部を指し示す。

 「ああ……これね」

 如月が血の様に赤い瞳で見つめるウィンドウは、ネットサービスに於けるユーザー登録画面であり、その指が指し示す先には『性別:男・女』の質問事項が表示されていた。

 如月の疑問と同じく、この不可解な質問には毎度僕も理解に苦しんでいるのは事実ではあった、だが、こんな事いちいち不満たれても何もメリットは無いと思う。

 だからこそ、あえてそんな事に突っ込まず当たり前に質問に答えてはいた。

 だけど、如月にとっては少々納得がいかない内容だった様だ。

 「たかだかコンピュータを通してで無けりゃ使えぬサービスに、何故性別などが必要なのか? なぁ答えてくれよ、このサービスにはよっぽどの膂力が必要なのか? それとも股間に付いてる物の有無が重要なのか?」

 「こりゃまぁ酷い言われ方だ」

 「だってそうであろう、此奴らが必要なのは金を払う保証と客の連絡先では無いのか?

 何故いちいちこんな下らない事を聞く、そもそも男か女かなどといちいち聞いたところで何の意味も成さないであろうが」

 それは道理だ、というか、自分自身が前々から不可解に思っていた事でもあるが、わざわざその疑問を投げる宛ても無く、一人胸の奥にしまっていた思いだった。

 多分、自分と同じ知識を持つ如月もまたそんな思いに感化されたのかもしれない。

 「何より、私はこの質問が二者択一なのが気に食わないな、せめて無回答、あるいはその他を選ばせないのは馬鹿の極みと言って他ならないな。

 わざわざこんな下らない事で自分をカテゴライズし、無意識に値踏みし差別する、自己意識なんぞ自分で決める物であって、第三者にこうも偉そうに尋ねられるのは腹立たしくてならない」

 いつもどこか達観した如月のが腹を立てる姿を初めて見た。

 中性的で、本当に性別すら持たない如月にとって、この手の話はよほど気に食わなかったのは明らかだが、如月が腹を立てるということは、少なくとも僕自身も腹を立てている証拠なのだ。

 そう思うと、自分の代わりに声を荒げてくれる白い影の罵声がうれしかった。

 「男の子は黒のランドセル、女はスカート、男は大黒柱、女は子育て、異性愛に恋愛の強要、本当に莫迦な連中だ。

 下らないバイアスに乗っかることでしか自我を保てない莫迦どもが、だから私は人間が嫌いなんだ」

 「そんな下らない物に縛られない如月を、少なくとも自分は羨ましく思うよ」

 女々しいだの男勝りだの、本当にどちらかしか選ばせないこの世界は本当に糞だと思う、汚い言葉だけど、それ位の言い回しが妥当だ。

 「正直、この点に関してはお前に感謝してるつもりだ」

 「それはそれは恐悦至極恐れ入るよ」

 「阿呆、それは私の台詞だ」

 ひとしきり愚痴を吐いた如月は、喚き疲れたのか椅子代わりに使っていたワゴンから飛び降りると、ベッドへ倒れ込み「阿呆が……」とブツブツと呟き始めた。

 なにかの呪文みたく呟かれる悪態と共に、最近じゃなじみとなった赤い染みがベッドに広がり、如月の顔半分を赤く染めていく。

 唐突な出血は本人としてはなんともない出来事らしいが、端から見れば撲殺死体にしか見えないその光景を横目に、僕はほんの少しだけ鼻を鳴らすと作業を再開する。

 気がついたときから世界は気持ち悪い、だけどその気持ち悪さを理解してくれる人間なんて何処にも居なかった。

 魚が陸で溺れていても、陸地を歩く犬にはその気持ちが理解できない。

 ずっとそんな物だと思っていた。

 だけど、初めて同じ気持ち悪さを理解してくれる存在しない友人に対し、自分はほんの少しだけ救われた気がした。

 それでも……この世界の気持ち悪さが消えた訳では無いのだ。

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