「すっかり暑くなりましたね」

縁側で氷水をちびちびと飲みながら彼女は言う。

「ついこの前までぽかぽかで気持ち良かったのに。お日様は加減を知らないのかしら」

不服そうに頬を膨らませる彼女に、まぁ我慢してあげましょう、1ヶ月も顔が出せなくてお日様も寂しかったんですよと言うと、彼女はいつもの様にくすくすと笑って

「わかりました。我慢してあげましょう」

と言った。


「今日は昆虫採集はしないのですか」

夏に入ってから、彼女は庭の草木に集まる昆虫に夢中になっていた。猫の額ほどしかない庭の何処にそんな昆虫がいるのかと不思議になるほど、彼女は虫取りが得意であった。

縁側の隅から巨大な甲虫を引きずり出してきた時には、流石に肝が冷えたが。

私の問に、彼女は

「えぇ、その…」

と、何やら顔を赤らめて下を向いていたが、急に「あっ」と声を上げると、パッと顔を上げて垣根の方を見やった。

「どうかしましたか」

尋ねるが、彼女は何も言わずただじぃっと垣根の奥を見つめるばかりである。一体何をそんなに真剣に見つめているのか、と視線の先を辿ると、

「あっ」

垣根の向こうに人影が見えた。いや、人であるかどうかは少し怪しいが、兎に角何やらごそごそと動く物陰が見えた。

私の声に驚いたのか、物陰は一瞬がさりと垣根の葉を揺らしたかと思うと、そのままがさがさと葉の擦れる音とともに向こうの方へ遠ざかって行ってしまった。

「近所の方だろうか」

そう呟いた私に、彼女がすかさず「隣町の方です」と声をあげた。

「わたしより少し年上の男の方で、この辺りにはよくお散歩に来られるのだそうです。こちらのお屋敷のこともよくご存知で、以前私の知らない植物や昆虫のことも教えて下さったのです。見た目は少し怖い方ですが、優しくて博識で、それで…」

そこで彼女ははっと我に返り、「ええと、あの、それだけです」とそれまでの勢いは何処へやら、急にまた顔を赤らめて声はもごもごと尻すぼみになっていった。

そんな彼女の様子に、私はははぁと内心声をあげた。年端もいかない少女の恋に勘づかない程野暮な人生は送っていない。

彼女は彼がここを通りがかるのを待っていたに違いない。待望の想い人が訪れた今、すぐにでもここから駆け出して青年のことを追いかけたいのだろうが、そんなことをしては私に彼への想いがバレてしまうのではないかと感じて二の足を踏んでいるのだろう。

であれば、お邪魔虫は早々に退場するが吉である。

「ああそうだ、隣町と言えば、大事な仕事用具を隣町まで仕入れに行く用があったんです」

「えっ」

「いやあ参った。今すぐ買いに行かなければ。どれ、私はこれから大急ぎで家を出ますが、貴女はどうされますか」

ややわざとらし過ぎたかとも思ったが、恋する乙女にはそんなことを気にする余裕も無かったようである。きょとんと私を見上げていたのも束の間、

「で、では私も失礼いたします、お水、ご馳走様でした」

と矢継ぎ早に言うと、彼女は氷水の入ったグラスを脇に置いて脱兎の如く庭から通りへと駆け出していった。

先程青年が向かった方角へと彼女の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、私は自らの人生にも彼女のような時代があったことを思い出して口元を緩めた。が、勉強も運動も中の下の冴えない学生時代はお世辞にも思い出して気分が良くなるものでは無かったため、深追いはせずに記憶の扉はまたそっと閉じておくこととした。

隣町に買い物に行くという話は勿論出任せである。がらんとした縁側に一人残された私は、彼女の置いていったグラスを下げながらそろそろ氷を買い足さねばならないな、などと考えつつ台所へと向かった。


翌日、私は食糧品と共に氷を仕入れた。が、遂にその氷で彼女の為に氷水を作ることは二度となかった。

彼女が次に私の家を訪れたのは、蝉の声が止み、日差しが弱まり、庭に落ち葉溜りが増え始めた頃のことであった。

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