恋、願う①
時計をちらりと見やり、レキシアは驚いた顔をする。もう、こんな時間だ。
手に持っていた本に栞を挟み、テーブルの隅に置く。またあとで続きを読もうと思いながら、窓の外を見た。茶色いレンガは茜色の光を受けて、褐色に染まっている。一日の終わりを示す色に肩を落とす。今日は誰も来なかった。レキシアは何よりも、代筆の仕事を愛している。誰かの気持ちに寄り添って、誰かの心を文字にすることを。成し遂げられなかった日に、寂しさを覚えることは必然と言えた。
閉店作業のために、カーテンを閉めたり、玄関先に出ている看板を入れたりする。一息ついて紅茶でも飲もうかと思っていたとき、扉を軽く叩く音が聞こえた。いかにも「遠慮気味」といった調子のそれに鍵を開け、わずかに開く。ほの赤い街並みを背景に、うす紫色の髪をした女性が立ち尽くしていた。彼女は深々と頭を下げる。光を受けた髪がつるりと光った。
「あ、あの、閉店でしょうか?
どうしても仕事が夕方まであるものですから……申し訳ありません」
レキシアはは口角を持ち上げ、彼女の心を安らげる。そのまま扉を大きく開いて彼女を招き入れると、二人分の紅茶を煎れるためにキッチンへ向かった。
愛用のカップと、久しぶりに陽の目を見た来客用のカップ。立ち昇る湯気が二人の間にある空気まで温めるようだった。
「すみません、私の分まで」
『かまいませんよ』
心のへこみを埋めてくれるような来客なのだ、嬉しいに決まっている。ちょうどお茶のお話もできることが嬉しく、タイプライターを叩く指は一層軽やかに動く。
『初めまして。店主のレキシアです。ご依頼ですか?』
「はい。とある人にお手紙を書きたいのですが……私では力不足でして。ぜひともレキシアさんのお力を貸してください」
『任せてください。ここはそういうお店です』
「ありがとうございます!」
ほっとしたように胸を撫で下ろし、目を細めながら言う彼女を見ると、レキシアの胸も弾んだ。
「私はシリィといいます。とある家で住み込みのメイドとして働いています。
いつもお世話になっているご主人様に感謝の気持ちを伝えたくて」
『とても素敵ですね』
シリィと名乗った女性は、鞄の中から手帳を取った。挟んであった写真を抜き取ると、レキシアに見せるためにテーブルの上に置く。ぼんやりとした色彩の、霞んだ写真だった。彼女が何度も見ているのだろう。端は既に折れや曲がりで歪んでいた。それと同時にずっと丁寧に取り扱ってきたことが分かる、美しさも保っていた。
『失礼します』
「写真はこれしかないんです。あまり、写るのが好きな方ではないので」
シリィは少し難しそうな顔をしながら、レキシアの所作を眺めていた。そんなことを言われては、レキシアも緊張してしまう。万が一にも汚さないよう、そっと手に取った。
写っている男性は生真面目そうな顔をして佇んでいる。少し難しい性格も感じ取れるのだが、きっと丁寧な人物なのだろうことも予想できた。
レキシアはわずかな違和感を覚えつつも、その写真を彼女に返す。シリィはやはり丁寧な仕草でそれを手帳に戻した。
『どんなお手紙をお望みですか?』
「どんな……というのは、ないんです。本当に。彼に感謝の気持ちさえ伝われば」
シリィはそう言いながら、少し寂しそうに目を伏せた。彼女は聡明そうな瞳を持ち、言葉遣いも所作も丁寧だ。メイドとして一流だろう。文字の筆記ができないようには思えないし、口下手とも思えない。彼に感謝の気持ちが伝えられないとは、どういうことだろう。
『もしかして、この方、気難しかったりしますか?』
「確かにそういうところはありますが……」
レキシアの問いかけに、シリィはしばらく考え込むような素振りを見せた。やがて意を決したように、薄っすらと目に涙を浮かべながら口を開く。彼女の静かな、それでいて鬼気迫る様子に、レキシアの背筋も伸びる。
「実は手紙を書くのは、初めてではないんです。私自身何度か送ってみたのですが、あまり彼に響かなくなってしまったみたいで……」
生真面目そうな男性に、何かあったのだろうか。少し心配になりながら、彼女の言葉の続きを待つ。
「それが……とても寂しくて。とても、辛くて。何とかできないかと思っていたときに、このお店の噂を聞きました。文筆堂の店主の文章には、不思議な力が宿っていると。
お願いします! もう、困り切ってしまって……」
今にも泣きだしてしまいそうな彼女の肩を擦りながら、置かれたままになっていた紅茶を少し近づける。小さくお礼を言いながら口に運ぶうちに、少し落ち着いてきたらしい。
「美味しい。ほっとしますね……」
『良かったです。お気に入りの茶葉なんです』
主人のことを、大切に思うメイド。メイドのことを大切にしてくれる主人。手紙が響かなくなってしまったという、あまり聞かない悩み事。失礼なことを言えば、手紙に飽きてしまったが、シリィがそれに気づいていないという可能性もある。たしかに零ではないが、彼女が涙目になって取り乱してしまうほどの理由には感じない。レキシアは逡巡の後、彼女に頼み事をすることにした。
『一度、そのご主人にお会いすることはできますか?』
「構いませんが……」
『難しいですか?』
「いいえ、お会いして頂く分には……ただ、話をするのは、少し厳しいかもしれません」
レキシアから目線を逸らすシリィに引っかかるものを覚えたが、今言及することはやめた。
「詳しいことは、明日、ご主人様とお話をしたあとに……」
レキシアがもらった地図の通りに屋敷を訪ねると、シリィが街路に立って待ってくれていた。昨日見た私服ではなく、メイドらしい制服を着用している。丁寧な雰囲気をより一層高めるそのロングスカートをひるがえし、シリィは屋敷へと招き入れた。レキシアが思っていたよりも、屋敷はこじんまりとしていた。少し大きい民家、という印象だ。高級な造りではないが、どこか温かみを感じる佇まいをしていた。
『メイドはシリィさんお一人なのですか?』
「はい。屋敷もこの広さですし、他のメイドを雇うことはありませんでした」
玄関から真っすぐ伸びる廊下の突き当りに、シリィの主はいるのだという。
「せっかくですので、紅茶を準備させてください」
キッチンで彼女が作業をしている間、レキシアは静かに待っていた。お湯が沸き上がる音に、ポットに注ぐときに立ち上がる湯気。茶葉のほんのりとした香りは、レキシアをわくわくとさせる。
「お見せできるようなものでは」と気恥ずかしそうに言うシリィに首を振った。自分が昨日出した紅茶が恥ずかしく思えるくらい、彼女の作業は見事なものだった。これが一流の煎れる紅茶かと思いつつ、トレイに乗せられる茶器を眺めた。
「ご主人様が、飲んでくださるといいのですが」
「……」
「では参りましょう。お待たせしてしまい、申し訳ありません」
茶器を乗せたトレイを押しながら、長い廊下を進む。飾られている絵画や骨とう品は屋敷の主のセンスを感じさせ、その間に生けられている花々はシリィのセンスを感じさせた。
「失礼致します。ご主人様。お客様です」
恭しくシリィが声を掛けた先にあったのは、大きなベッドだった。窓の近くにある白いベッドに、一人の老人が横になっている。ベッド脇には薬や、魔法で動く医療機器が所せましと置かれていた。レキシアはあまりにも予想外の環境に、出入り口で立ち尽くしていた。
白い髪をした老人が目を細め、シリィを見る。手早くベッドの上に簡易的なテーブルを用意する彼女に、彼は歳からくる震えのようなものを見せながら、声を掛ける。
「君は誰だ?」
レキシアはここにきて、やっと違和感の正体に気付く。シリィに彼の写真を見せられた時に思ったのだ。「古すぎる」と。
「ご主人様は、人が最後にかかるという病気に、かかっているのです」
レキシアの記憶の奥。自分の祖父にあたる人物が罹患していたことを思い出した。話も通じなければ、しきりに忘れごとをしていたように思う。どんな世界でも、人である以上、その病気から離れることはできないらしい。
「もう、私のことも忘れてしまわれたみたいなんです。そのせいかどんなお手紙を渡しても、どんなお言葉をかけても、響かなくなってしまって」
彼が一口だけ飲んだ紅茶の片づけをしながら、シリィは言った。
「私、一体どうすればいいんでしょう」
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