恋、願う②

 秘密というのはときに甘やかだが、月日が経てば苦味も増える。


『シリィさんは』

 筆談のせいで、店で話すより少し遅くなる。シリィは煎れ直した紅茶をレキシアの前に置いた。自分で煎れるよりも遥かに薫り高い。

『あの人に、自分を思い出してほしいんですか?』

 単刀直入なレキシアの質問に、シリィは小さく首を振った。

「そうではありません。ただ、私にも分かります――ご主人様が、もう、長くないこと」

「……」

 繋がれる医療機器に、薬の山。記憶の衰えていく症状。穏やかな表情。年齢以上に、彼の雰囲気そのものが、彼の死期が近いことを示しているように思えた。

「今、ご主人様は代り映えのない日々を過ごしていると思うんです。毎日、とても退屈そうにされていますから……せめて、少しでも残された人生を過ごしてほしい。ベッドの上でも、この世を楽しんでほしいんです」

 シリィの主への思いは本物だ。レキシアは顎に指をかけ、深く考えるような仕草を見せる。レキシアの文章は、読んだ者に内容を追体験させる力がある。それを使って、彼の日々を少しでも刺激できないだろうか。シリィは思い出さなくてもよい、と言ってはいるものの、見ているレキシアには寂しく映る。

『シリィさん、ここにお勤めになってどれくらいでしょうか』

「えっ? えっと……いつからでしたっけ、あまりしっかりと覚えていません。

 どうしてそんなことを?」

『もしお勤めが長ければ、なにか思い出についてご存知かと思いまして……その追体験をきっかけにして、シリィさんの言葉が彼に届けばと思ったのですが』

「なるほど……ありがとうございます」

 レキシアは自分が手掛けてきた仕事のことを思い出す。利用してくれる客は老若男女問わない。その中でも高齢の男女が、思い出として語っていたことといえば。

『例えば、結婚とか』

「結婚……ですか」

 シリィはその言葉を見て暗い顔をした。やはり知らないのだろうか。今あの男性は独り身のようだったが、もし彼女が妻のことを知っていれば、何か糸口になるだろう。やはり彼女は「分かりません」しか言わなかった。

 行き詰ってしまった二人は静かに紅茶を啜りながら思いを馳せる。老い先短い男性に、少しでも人生が素晴らしいものだったと思ってほしい。シリィもどうにかして彼の記憶を揺さぶりたいのだろう。ベッドの上でうつろな目をする男性は――もう、死んでしまっているのと、ほとんど変わらない。生きる喜びを願う彼女は必死に考え、紅茶を見つめた。

「そう、いえば」

 思い出したように声を出す。

「もうずっと前になるのですが――ご主人様には思い出の紅茶があるみたいなんです。新婚時代にお飲みになられたという、紅茶が」

 二人の間を満たす、柔らかい香り。まさかこんなところから、ヒントが転がってくるとは。レキシアが筆記するよりも早く、彼女は言葉を繋いだ。

「その茶葉を再現して、飲んでいただくことができれば……もしかしたら、思い出していただけるかもしれません」

『どこかに文献はあるんですか?』

「文献……は、ないですが」




 もう使われなくなって随分経つのであろう書斎に通されたレキシアは、思わず目を輝かせた。未だシリィが手入れをしていることもあるだろうが、塵ひとつ落ちていない美しい部屋だ。その上部屋の壁一面を埋めるように本が並んでいるのだから、本好きの彼女にとってはたまらない空間だろう。その一角にある棚には背表紙になにも書かれていない本が並んでいた。艶々とした黒い革表紙が、高級感を感じさせる。

「文献はありませんが。日記ならあります。もし香りや味のヒントがあれば……そこからレシピを再現して、フレーバーを作ることができるかもしれません!」

 嬉しそうにしているシリィに向けて、レキシアは『手伝います』というメモを見せた。シリィは申し訳なさそうな顔をして首を振る。

「ご主人様がされていたお仕事の記録もありますので、念のため私が調べます。お気遣いありがとうございます。レキシアさん、よろしければ本をお読みになってお待ちください」

 思わず沈黙した彼女に、シリィは笑いかけた。

「だって、この部屋に入った瞬間、すごく嬉しそうな顔をされていたので」

 完敗だ。レキシアは来客用のソファに腰掛けながら、本を読み待つことにした。シリィが真っ先に真ん中よりやや左よりの本棚から日記を取っていく姿を、レキシアはなんとなく眺めていた。何冊か手に取るうちに記述を見つけたのだろうか。傍らに置いたメモにてきぱきと書き加えていく。

「……」

 レキシアが手に取った本の半分ほども読まないうちに、彼女の作業は終わったようだ。晴れた顔をしてメモを見つめている。紅茶のフレーバーに詳しいのだろう。「きっとこの香りはあの茶葉が……」と呟きながらそわそわとしている。レキシアはその姿をしばらく見つめて、『メモを少し貸してください』と。受け取ったメモを元に少し書き物をして、レキシアは不思議そうな顔をしているシリィに、何かを渡す。それを読み始めた瞬間、シリィの景色は一瞬にして変わった。


 ――穏やかな時間だった。窓から差し込んでくる景色は柔らかく、塵一つ落ちていない邸宅の床を、四角く照らしている。その中で、シリィは紅茶を煎れていた。彼の好きなものを組み合わせたとっておきの茶葉だ。

 薄茶色をした水色から、ほんのりと甘い匂いが立ち昇る。彼の好きな、ベリーのような甘い香り。けれども基本の茶葉のお陰で飲み味はすっきりとしている。薬缶が蒸気を噴き出す音は、ときめきの音だった。新しい紅茶との出会い。喜んでもらえるかという緊張。ティーカップを温めながら、シリィはあの人の姿に思いを馳せた――


 ぽたり。


 シリィの頬を、透明な液体が滑り落ちた。不意打ちで見せられた景色の美しさに、何故か涙が零れてしまう。

「あ……」

 渋い顔をしたレキシアが、メモを渡す。

『何か、隠していることがありませんか』

「……」

 極力自然に見せてはいるが、どうしても拭いきれない違和感がある。

 先ほど日記を手に取ったとき、どうしてあんな中途半端な位置から探したのだろうか。本当に彼の新婚時代を知らないのであれば、本棚の端から日記を探すのではないか。それに、彼女がメモを取る姿は、探っているという感じではなく――どちらかといえば、思い出しているように見えた。

 年齢差が信頼の差に通じるわけではないが、それにしても、シリィの献身は『最近ここに来たメイド』としてのそれを、大きく超えているように思う。彼女はもしかしたら、彼の結婚についてさえ、本当はしっているのではないか。レキシアは祈るような思いで、シリィを見つめていた。

「……鋭い方ですね」

 ため息を吐きながら、シリィは言う。彼女は泣いていた。

『奥さんのことを、知っているのですか?』

「知っている……そうですね、知っているといえば、知っています」

 シリィは涙を拭いながら、スカートを直す。自負と責務を感じさせる、凛とした表情を浮かべると、彼女は静かに言い放った。

「私が、彼の妻です」

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