英雄譚の味心地

 覚えているのは、白い天井のことばかりだった。

 生まれてからほとんどの時間を、その空間で過ごしていた。清潔感がある空間だったけれども、同時に、寂しさも内包した空間だった。その中でずっと横たわり、点滴を受ける毎日。

 片手には大好きな本。四角く切り取られた世界しか見ることのできない彼女にとって、それが貴重な世界を知る間口だった。本の中でなら冒険だってできる。本の中でなら学校にだっていける。本の中でなら、彼女は自由だった。

 彼女の生命の火は、ゆっくりと、ゆっくりと弱まっていく。ろうそくのろうが溶けだすような。空気の只中にある氷が融解していくような。少しずつ、失っていく。少しずつ、無くなっていく。

 ゆっくりと、ゆっくりと。

 家族に、友達に見守られながら、彼女は瞼を閉じたのだった。


 『あなたは、生まれ変わりたいですか?』




 ――夢?


 レキシアは少し重い上半身を起こして、身体の中のわるいものを全部吐き出すかのように、深い深い息を吐いた。少し悲しい思い出は、もはや夢の中に沈んで溶けだしていくくらいのもので。


 ――店を開けないと


 寂しさももう必要ない。哀しさも、不自由さも、彼女にはもう付きまとうことがない。けれどもなぜだろう。あの寂しさを内包した空間が、時々ひどく、懐かしく思える。もうあの暮らしにはどうしたって戻れないし、あの暮らしは辛いことばかりだったのに。不思議なことって、多いものだ。




 レキシアがぱたぱたとはたきで本棚を掃除していると、からん、ころん。いつもの鈴の音が響いた。狭い室内には、小さな音でも十分すぎるくらい響くのだ。一体今日はどんな依頼人だろうか。レキシアが穏やかな表情を湛えながら振り返る――聞こえてきたのは、その水面のような表情をはちゃめちゃに波立たせるような、大声だった。

「こんにちはー!」

「……」

 右の鼓膜を貫いて、左の鼓膜まで突き抜けていくような、飛ぶ槍のような声だった。こんなとんでもない声を持つ依頼人はいったい……大声の残響でくらくらする頭を動かして、玄関の方を見た。

 思わず沈黙する。いや、確かにレキシアは元より沈黙している女ではあるが……それ故に表情だけは豊かな女である。表情で多少語らなければ、接客として不合格だからだ。そんな彼女の表情がぴしりと固まっている。

「はじめまして! ライアンといいます! 依頼があってきました!」

 筋骨隆々、明朗快活。そのしなやかな肉体を包むのは鋼鉄でできた鎧。剣を携えている姿はまさに、冒険者。この世界にも冒険や魔物討伐を生業とする人物たちは存在しているが、ここまでかっちりと身を固めている人物は中々お目に掛かれない。というか、若干古臭い。今の流行りは軽装の冒険者である。とはいえ、若いとはいえここまでの装備なのだ。さぞや名のある冒険者なのだろう。そうに違いない。

 レキシアはそう思い直し、彼に座るよう促した。いつものようにタイプライターを持ってきて、彼と会話を始める。

『どのようなご用件でしょうか』

「仲間たちの間で噂になっています! ここの文章を読むと、内容を実体験できると!」

『そうですね。基本的に文章を代筆するのが仕事ですが』

「そこで、どうしても頼みがあるのです!」

『はい』

 彼は大きく息を吸い、深々と頭を下げる――というか、机の上で項垂れるような姿勢になった。

「俺にドラゴンを倒させてください」

「……」

 ――はい?

 あまりにも予想外な一言に、レキシアは首を傾げる他なかった。


 話を聞くに。

 ――レキシアの予想を大きく裏切って――彼はいわゆる下級魔物すら満足に倒すことのできない、ランクとしてはかなり下の冒険者なのだという。私財を投げ打って鎧や剣を買い揃えたはいいものの、誰か師匠のような人がいるわけでもなく、こんな状態の剣士を雇ってくれるメンバーたちもおらず。

『何をして過ごされていたんです?』

「毎日薬草畑の手入れをしていました!」

 とのこと。レキシアはがくりと肩を落としながら、彼の話を聞く。

「俺は昔から冒険に憧れていたんです! 毎日冒険者たちの出した手記を読んで過ごしていましたし、大きくなったら絶対俺も冒険者になるって決めていました!」

憧れ。冒険。

確かに、子どもたちの心を掴んで離さないような、魅力的な仕事である。最初は半分、彼のことをただの変わった人だと思っていたレキシアだったが、少しずつその認識は形を変えていった。憧れを持つ人を馬鹿にはできない。その夢をずっと追い、最終的にかなえて見せたのだから、見事という他ないだろう。気付けば彼の話をうんうんと頷きながら聞いていた。

「俺もいつかドラゴンを倒して、名前を馳せて――そんなことを夢見ていたんですが、もうそんな年でもなくて……俺、今冒険者をやめようと思ってるんです!

 だからせめて、最後に……こんなこと他の人に知られたら笑われるでしょうけど、空想の中でもいいから、英雄になってみたいんです!」

 夢を追いかけ、追いかけ続けた、その果てに、彼はここに辿り着いたのだ。そう思えばこそ、彼女は真剣にならざるを得なかった。彼の思いは本物だからだ。

『私の文章はあくまでも虚構です。きっと、虚しさも残ります。

 それでも大丈夫ですか』

「大丈夫です! 俺にとっては、現実の方が、虚しいくらいですから」




 ――火炎が地面を這う蛇のように動く。

 ドラゴンの吐き出した炎の縄を、巧みな足取りで躱していった。それでも頬を熱が掠めていき、ちりちりと毛の先を焦がす。鋼鉄でできた重い鎧は熱を孕み、彼の脚を鈍らせた。

 しかし、ここで諦めるわけにはいかない。ここで臆するわけにはいかない。自分はこのドラゴンを倒すために、ここにいるのだから。

 両者は既に傷だらけで、ドラゴンも目をぎらつかせながら男を睨みつける。その瞳にあるのは生への執着ではなかった。彼も生きることを忘れていた。それ以上に、この男を倒さなければならないと、そんな使命感に爛々と燃えているのだった。

 いずれにせよ、次が最後の一撃になるだろう。彼は重い剣を構えなおすと大きく踏み込み、脳天に向かって振り上げた――




「ありがとうございました! その、すごく気合を入れていただいて!」

 レキシアはそっと頭を下げることしかできなかった。彼女の目の前にはその数数十枚。かなりの分厚さを持つ紙束が折り重なっている。仕事ではどうしても手紙を書くことが多く、久しぶりの物語に随分張り切ってしまった。ライアンに喜んでもらえたのならば何よりだが、幾分筆が乗って趣味が入ってしまった。やりすぎたことに反省しつつ、レキシアはライアンと話を進める。

『喜んでいただけてよかったです』

「はい。憧れの英雄になれて、俺も嬉しかったです」

 彼の冒険者としての最後の物語が、自分の紡いだものになってしまうだなんて、少し寂しい気もした。できることなら、彼には上手くいこうがいくまいが、最後にもう一度冒険に出て、それを最後の物語としてほしい。空想ではなく、虚構ではなく、現実を描く能力があるのだから、それで終止符を打ってほしい。

「でも、そうしたらなんだかもう一度だけ、冒険に出てみたくなりました!

 こうなれたのもレキシアさんのお陰です、ありがとうございます」

 彼のその言葉に、彼女は目を輝かせた。自分の願う展開になり、ほっと息を吐く。これなら彼も一切の後悔なく、きっと冒険者を引退できるだろう――次の言葉が聞こえるまでは、少なくともそう思っていた。

「それに、なんだかさっきの戦いでイメージがつかめた気がします!」

「……」

 レキシアは一瞬、にこにこと笑う彼が何を言っているのかさっぱりわからなかった。慌てて首をぶんぶん振りながら彼の肩を叩く。どうしても話を聞いてほしい。訂正しなければならない。

『私の戦闘は空想です! 戦いは素人ですし、全然正確じゃないですから! 鵜呑みにしないでください!』

「いえ、なんていうか、ちょっといける気がするんですよね!

 俺、次の冒険、少し頑張ってみます!」

 がしゃがしゃと音を立てて、彼は足早に文筆堂を出て行ってしまう。ゆっくり閉まっていく扉を茫然と見つめながら、レキシアはため息を吐くことしかできなかった。


 一週間後。彼からランク昇格の報告の手紙が来るまで、レキシアは落ち着きなく過ごす羽目になったのであった。

 ――なんというか、現実って、分からないなあ

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