おおぞらのゆめ終

 親しい人を失う悲しみは、どれほどのものだろうか。

 谷よりも深いその感情に、どう名前をつければいいのだろうか。悲しいなんて言葉では足りない。哀しいなんて言葉では足りない。

 ――だめですね、これじゃあ

 レキシアはタイプライターから紙を引き抜いた。くしゃりと丸めたそれをゴミ箱に投げ捨てるが、何故か中に入らない。それもそのはず、帰宅してからずっと、深夜にかけてまで文字を書き続けていたのだ。溢れた文字の山たちに、レキシアは意味を持たせることができなかった。それを目の当たりにしてしまい、ほうと息を吐く。頭の中はなんだか熱を持ってしまっているような気がしたし、僅かに痺れを帯びた指先は、満足に動いてくれない気がした。これでは作業もはかどらないだろう。

 少し休憩をしようかと、レキシアはボレロを羽織って外に出た。

 既に時計の文字盤は頂点を追い越している時間帯だ。ソラを追いかけたときに見かけた街灯さえ、赤い温もりを放つのをやめていた。もうすっかり、夜も遅い。このままで彼を――彼の家族を救えるような文章を、書けるのだろうか。冷たい空気に、熱のこもった己の吐息が溶けて混ざっていく。夜の軽く、それでいて独特の雰囲気の中で、レキシアの気持ちと不安ばかりが重くなっていった。

 悲しみを表現する方法が、ひどく難しい。ソラの母親の悲しみに、添い遂げられるような文章を書きたかった。レキシアの文章はあくまでも虚構であり、現実にはならない。現実にひどく近い、それでいて非現実。父親の姿を見せてしまっては、その虚しさが増すだけだろう。それは避けるべきだ。

 悲しみに寄り添い、ソラの気持ちを母親に感じ取ってほしい。そうしてソラの母への深い愛情を理解してもらうことができれば、きっと母親の思いも変わるだろうと……そんなことを思っていた。けれど、肝心のその、悲しみの表現が見つからない。何度描きなおしても、親を失った悲しみを的確に、なおかつ伝わるように表現することができないのだ。今まで数多くの文章を書いてきたが、ここまで悩んだこともなかった。分からないのだ。置いていかれた者の感情というのが。失った側の人間の感情というのが。

 ――だって、もともとは自分が、遺してきた側だから。


 悩み始めると止まらない。レキシアは少し散歩でもしようと思い、街の中へと繰り出していった。

 今日の夕方お世話になった大きな図書館。そして、ありとあらゆる魔法具が揃えられた用具店。しばらくレンガの街を歩いていると出くわす、彼が足を止めてまで眺めていた、高級箒を取り扱う店。

 ――明かりがついてる、まだ職人さんがお仕事を?

 そう思いながら――今日ソラの家をこっそり覗き込んだような感覚で――店の中へと目をやった。中にいる初老の男性が、きっとこの箒づくりを担う職人なのだろう。分厚い手袋をはめ、金具を口にくわえながら、ひとつひとつ丁寧に枝を集めていく。素人目に見ても、その作業がただ枝を適当にかき集めているわけでないことは明らかだった。まるで枝で縫物をしているかのように、芸術的にさえ感じる所作で箒を組み上げていく。あまりにも見事な手つきだったからか、少し気が緩んでいたせいか。

 ばちっ。

 音が立ったような気がした。職人が眼鏡をずり下げて、こちらを見ている。

 ――しまった

 逃げればいいだろうか? いや、それではあまりにも不審者の立ち回りだ。

かといって素直に挨拶をすればいいのだろうか? いやしかし

「こんばんは、お嬢さん」

 そう焦っている間に、穏やかな表情の男性が、玄関を開けていた。レキシアは慌ててポケットを探るが……筆談用の筆記用具など持っていない。ほんの軽い散歩のつもりだったのだ。焦りながらも何度も頭を下げる彼女を見て、職人は静かに笑っていた。

「文筆堂の店主さんだね? 知っているよ」

「……」

「無理に言葉を話そうとしなくてもいい。君も私も、職人だからね」

 その言葉を聞くと、ふと、肩が軽くなったような気がする。落ち着いたレキシアが深々と頭を下げると、男性はにこりと笑った。

「お気持ち分かりますよ。私も作業に行き詰まると、そうして街を散歩したくなりますからね」

 不思議と、自分の心の内まで見透かされているような気がして。レキシアは不思議で、少しむず痒い気持ちになりながら。ゆったりと紡がれる彼の言葉に、耳を傾けていた。彼の綴るものは文字でないにせよ、レキシアの心をやわらかく撫でていく、不思議な魅力があった。

「助言になるか分かりませんが……困ったときは、空を見上げるのがよろしい」

 ――空

 レキシアは店主の言葉に、思わず顔を上げた。そして思わず息を飲む。彼女の菫色の虹彩に飛び込んできたのは、夜の帳を宝石のごとく飾り立てる、星の群々だった。身を寄せ合うように所せましと並び、寂しい月を慰めるような星々。

「私の箒を欲しがってくれる人たちは、きっと、ああいった空が好きなのだろうね」

「――!」

 星々。うずたかく伸びる雲。どこまでも広がる光のカーテン。ぽつぽつと散らばる鳥たち。風のそよぐ音。突き抜ける空のように、彼女の中でイメージが膨らんでいく。目を見開く姿を見たからだろう。職人は満足げに笑い、「けっこう、けっこう」と笑ってくれた。レキシアは彼に何度も頭を下げて、自分の店へと走り出した。

 ――ずっと、悲しみを書き記す方法ばかり考えていた。

 夜中の街並みに、彼女のブーツの音が音階のように響く。ちょっとした坂道も気にならないほど。鼻をつつく冷気も気にならないほど。彼女の高揚した気持ちはそんなものを溶かして消してしまう。

 ――でもそうじゃない。必要なのは、本当に私が書かないといけないものは!




 翌日、ソラの小さな手のひらが、女性をぐいぐいと引っ張っていた。一度店を訪れた彼は、店主であるレキシアに『おかあさんもつれてきて』と言われたのだ。文筆堂という名前に心当たりのないらしい母親は、戸惑いながらソラに手を引かれる。この街一番の大きな図書館と、魔法用具店の間に、詰め込まれるようにして佇む店を前にして、母親は沈黙していた。

「どうしてここに来る必要があるの?」

「ぼく、ここで買い物したの。お願いだから、来て!」

「はいはい、分かったわよ」

 からころと、軽やかなベルの音が響く。本がうずたかく積まれている店の奥から、ゆったりとした足取りで女店主が歩いてきた。彼女は手に、小さな封筒をひとつ持っている。シーリングまで丁寧に施されたそれは、手紙のように見えた。ソラは子どもながらに緊張した面持ちで、レキシアの隣に立つ。少し裏返った声で、母親に思いをぶつけた。

「ぼくは、おかあさんに元気になってほしかったんだ」

「私に?」

「うん。だから、レキシアさんにお願いしたの。おかあさんを元気にしてほしいって」

「私は……そんな」

 レキシアは深々と頭を下げて、手紙を差し出した。『どうか、お子さんと一緒に読んでください』と挟まったメモを訝し気に眺めつつ、彼女は手紙の端を破く。ソラと同じ目線の高さになるようにして、手紙を開いた、その瞬間。

 彼女は文筆堂にはいなかった。大人が二人も入れば苦しいほどだった店内は、抜けたような青空へと変わってしまう。そこには本棚も、机も、椅子も、なにもない。ただただ、美しい青空が広がっていた。

「……」

 彼女の目にわずかな悲しみが宿る。愛しい人。愛した人。唯一の人を奪った空。空が憎い。空のことなど、好きになれない。だから、そんな空に未だ強いあこがれを抱く自分の息子のことが……心配でたまらなかった。彼もまた、空に奪われてしまうのではないかと。そんなことを思いながら、母親は突然目の前に広がった景色を思っていた。

「きゃっ」

 ――地上では味わうことのできないような風が吹く。――

「おかあさん、大丈夫だよ」

「ソラ……」

 彼女は気付いた。そこが“空が広がっている空間”どころか、“空のただなか”であるということに。足のすくむ恐怖を一瞬味わったが、隣でソラが笑いながら彼女の手を引くので、安堵の息を零した。

 ――すこし強い風。けれども、柔らかい風。風は空へ上れば上るほど、本物になっていく。純度が上がっていく。頬を突きさすように感じることもあれば、おかあさんみたいに包むこともある。柔らかい空気。温かい場所――

 少し難しい文章と、子どもでも分かるような文体が織りなす、不思議な文章だった。手紙としては、少し不格好ではある。けれども母親にだけでなくソラにも響くその言葉の群れたちは、彼女たちを想像の世界へと連れて行った。

――鳥たちとの会話をしながら空の中を進んでいく。髪の毛にいたずらをしていくときもあるけれど、それが、空との楽しい対話でもあった。空の世界は広大で、優しく、箒一本で体を支えているとは思えないほどに自由なのだ。この世界が愛おしいと感じるほどに特別で、疾風の中を、自分の身体がほぐれて、溶けながらまじりあい、進んでいくような心地は――

 加速が進んでいく。周りの景色は目まぐるしく変わる。箒に乗り、風の流れの力さえ借りて、己の魔力以上のスピードを発揮する、それが、空便配達者なのだ。彼の、彼女の、大切な人の、愛した世界なのだ。


 とん。

 そこはもとの、温かい世界だった。相変わらず本棚の圧迫感が凄まじい。けれども、その向こうに広がる空の青さと自由さをもう一度知ったから、その世界を愛した彼のことを、愛していた、だから。

「おかあさん。ぼく、おとうさんみたいになりたいな」

 書かれているわけではないけれども、手紙の最後のひとかけら。それをソラがぽろりと口にした瞬間、母親は手紙を取り落とし、わあっと声を上げて泣いた。

「怖かったの。でも、分かっていたの」

 ソラは膝をついて両手で顔を覆う母親の隣に立つと、そっとその肩を抱いた。

「分かってたの、でも怖くて、ごめんね、もう、お母さん、思い出したから。ごめんね」

「――おかあさん、大丈夫だよ」

 レキシアは寄り添う親子二人を、彼女が落ち着くまで、いつまでもいつまでも見守っていた。




 レキシアは嬉しそうにしながら植物に水をやっていた。心なしか、生き生きしてみえる。一昨日よりも艶やかに見える葉をそっと撫でながら、レキシアは微笑んだ。美しく映える水滴は、やはり、宝石のかけらのように見える。

 彼女がいつものようにポストに手を入れると、何やら手紙が入っていた。自分が受け取ることは珍しいものだから、驚いてしまう。しかし、差出人の名前を見てやわらかく微笑んだ。「ありがとう」初めて覚えたのだろう文字を使って紡がれた手紙を、レキシアは大切そうに胸に抱いた。

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