揺れる 後編(悠夏パート・現在⑨)

「悠夏と柊って、付き合ってるの?」


真希さんに訊かれた瞬間、私の目の前にキラキラとした細かい粒が広がった。


 一瞬状況が飲み込めなかったけど、すぐにそれが私が口に含んでいたミネラルウォーターだということを理解した。止めたくても止まらない咳が、私の喉のあたりに痛みを生んでいた。


「あ、ごめんごめん」


そう言いながら真希さんは、洗ったばかりの布巾でテーブルの上に疎らに広がった水を吹いてくれていた。


「すごい。人って、本当に飲み物を吹きだしたりするんだね。漫画みたい」


そんな事を言って呑気に笑いながらも、大丈夫?と私の状態を心配してくれた。咳も治まっていた私を、真希さんの言葉に頷いた途端に恥ずかしさが襲って来た。


これじゃあ、まるで真希さんの質問が図星だったみたいじゃないか。


 そんなことを思っていると徐々に引き始めていた顔の火照りが一気にぶり返してきて、思わず両手で顔を覆って大きく息を吐いた。手の平にぶつかった自分の吐息が広がって、顔全体に生暖かさが広がっていった。


「ごめん。タイミングが悪かったね。でも話の流れ的に、訊くなら今しかないかなと思って」


その妙に楽しそうな口振りから考えるに、やはり真希さんは誤解しているようだった。否定しようと思って両手を顔から離しても、なかなか上手く言葉が出なかった。つい数分前までは、お酒が作用してスラスラと喋れていたのに。口を開いたり閉じたりを繰り返すだけの私を余所に、真希さんは自分の中だけで勝手に納得し始めていた。


「私は何とも思ってないから安心して。同性カップルなんて、今時そこまで珍しいことじゃないし」

「ち、違うから!」


ようやく放たれた声は、それまで溜め込まれていた分だけ大きさを増していて、自分にも分かるほど尖った声だった。。流石の真希さんも驚いたのか、イスに座ったままの体がビクンと跳ねた。


「え?違うの?」

「そ、そうだよ!そんなわけ......ないじゃん」

「そっか......なんか、ごめん」


その会話を最後に、しばらく静寂が流れた。二人とも、そこからどのように会話を繋げていけば良いのか分からなかったのだと思う。


 どれくらいの時間が経ったのか。向かい合ったまま二人ともテーブルの上で冷えたピザを見つめているだけの状況に耐えかねたのか、真希さんが突然「それにしてはさぁ」と切り出した。


「付き合ってないにしては、仲良すぎじゃない?」

「い、いや......真希さんたちだって仲良いでしょ?さっきだって、美玖さんと付き合えるって言ってたし」

「そうだけど。でも、なんか悠夏と柊が二人で話してるときの空気間は、友達のそれとはちょっと違うんだよねぇ」

「......どういうこと?」

「なんか......甘ったるい感じ?」


その意味が理解できず、目の前の真希さんの顔をただ眺めることしかできなかった。そんな間抜けな私の表情を見て、私の頭脳が機能していないことを察した真希さんが、より細かく私たちについて説明し始めた。


「なんか......お互いの事が大好き!っていう空気が滲み出してる感じ?この前、二人が家に来たときだってさ、ずっと私たちの前でイチャイチャして」

「い、イチャイチャって......」

「二人で旅行に行った話を楽しそうに喋ってたり、私たちが悠夏にプレゼントしたペアカップの片方を、すぐ柊にあげちゃったり。その雰囲気がもう、完全にだったから」

「そんなことないって......」

「特に柊なんか、悠夏のことが大好きなのが丸出しだったし」


その言葉に対して、私の口から「うぇ?」という間抜けな声が漏れてしまった。それを無視して、真希さんは私を追い込み続ける。


「柊が悠夏を見るときの眼が熱っぽいというかさ。これは好きな人に送る視線だなっていう感じで。あんな眼を向けられたことなんて、知り合ってから一回もないもん。私たちと三人でいるときの柊は、割と私たちよりも一歩引いてるというか、はしゃいでる私たちを落ち着いて見てるようなポジションだったんだけど。悠夏と並んでるときの柊は表情をころころ変えてさ。しかも、その表情のどれもが私たちには見せない表情なんだよ。それこそ、ペアカップを悠夏にあげた日だってさ。私と美玖が『彼氏にあげてね』って言ったらすぐに静かになってたでしょ?直前まで、自分が旅行を計画したって自慢してたのに、急に膝を抱えて黙り込んで。分かりやすいなって思ってたんだけど」


 次々と目の前に並べられる言葉たちに対して、私の心臓は徐々に妙な鼓動を打ち始めていた。


『特に柊なんか、悠夏のことが大好きなのが丸出しだったし』


 真希さんの言葉が頭の中でぐるぐる巡っていた。



 柊が......私のことを......?



 そんな考えが頭に浮かんでしまった事に対して焦りを覚えて、それをかき消すために「そんなわけないでしょ!」と叫んだ。それでも真希さんは首を傾げながら「そうかなぁ」なんて呟いていた。


「そ、そうだよ。私たちは友達だし、女同士だし......あり得ないよ。柊も私のことが好きなんて」


努めて平静を装い、動揺を悟られないように軽く笑ってみせながら言葉を繋げた。「もう、真希さん。何おかしなこと言ってるの?」くらいの軽い雰囲気になるように。でも真希さんは何も反応してくれず、ただ真っすぐな視線を私に向けるままだった。その状況に耐えられなかった私は、自分の口から飛び出した水を拭いた布巾を手に取り、それを洗うためにキッチンへ向かった。


 布巾を洗っていると真希さんが入って来て、何も言わずに冷蔵庫からハイボールのロング缶を取り出して戻って行った。どれくらい飲むつもりなんだろうと思いながら、洗い終わった布巾を持ってテーブルまで戻った。


 真希さんはハイボールをあおりながら、テレビを点けてリモコンでザッピングしていた。お笑い番組にチャンネルを固定した真希さんは特に笑うわけでもなく、じっと若手芸人のコントを見つめていた。


 これで柊に関する話題も終わったかな。


 そう安心しかけていた私に、強烈な一言が飛んできた。


「悠夏は柊が好きなんだね」


 その瞬間、背筋が凍ったような感覚と共に、聞こえていたはずのテレビの音が一気に遠のいていくような錯覚に陥った。驚いて真希さんの方を見ても、その視線は変わらずテレビ画面に向いていて、自分の言葉が私を驚かせていることなんて知る由もないようだった。


「ど、どうしたの?急に」


なんとか絞り出した声を真希さんの横顔にぶつけた。すると、テレビ番組では一切揺るがなかったその表情が再び笑顔に変わった。


「急かなぁ。むしろ自然な流れだと思うけど」

「な、なんで私が......」

「さっき悠夏が、『柊私のことが好きなんて、あり得ない』って言ってたから。じゃあ、悠夏は柊のことが好きなのかなって思ったの。ほらね?自然でしょ?」

「いや......」


否定しなきゃ。


そう思っているのに、何をどう言えば良いのかが全く分からなくなってしまった。大混乱に陥った私は「えっと......」「それは......」と繰り返すだけで、その先に言葉を紡ぐことができなくなっていた。


「そうなんでしょ?」


その優しい笑顔がたまらなく恐ろしかった。まるで今から尋問が始まるような緊張感に体が強張り、必死に首を横に振ることしかできなかった。しかし真希さんは、そんな僅かなアピールだけでは当然ながら引き下がってくれなかった。


「だから悠夏は私に『美玖が男だったら』とか訊いたんだね。なるほど。やっと意味が分かった」

「ちが......」

「ねえ、悠夏」


私の声にならない声と挙動を見た真希さんは、「柊が好き」ということを私が必死に否定しようとしていること自体は汲み取ってくれたようだった。ハイボール缶を握っていた真希さんの右手が、テーブルに力なく置かれていた私の左手の上にそっと重ねられた。真希さんの右手に残る冷たさが手の甲を伝って全身に廻り、体が一瞬震えた。


「さっきも言ったけど、私は別に同性で付き合ってる人に対して何も偏見とかは無いから安心して。隠さなくてもいいんだよ?」


真希さんは、私が連想していたような尋問とは程遠い、優しい声色で語り掛けてくれた。それを聞いた途端、不思議と強張っていた体から力が抜けていくのを感じた。焦りによって発生していた私の体の熱が、その冷たい手から吸い取られていくかのように。


 それを感じたのか、真希さんは私の左手からそっと手を離して「まあ、隠せてないけどね」と意地悪く笑った。


「じゃあ、改めて訊くけど。柊が好きなの?」

「......うん」


自分でも驚くほど、素直にあっさりと本心を明かしてしまった。


ここまで動揺を見せておきながら、まだ否定を続けるのは無駄だと脳が判断したのか。もしくは、抜けきっていないお酒が影響したのか。


高校生の頃に起きた出来事以降、この悩みを誰かに相談するのは避けようと決めていた。そんな決意がその瞬間、遂に崩壊してしまった。


「いつから好きだったの?」

「......高校生のときかな」


「そっか」と優しく呟いた真希さんは、またハイボールに手を伸ばした。確かに真希さんにはこの秘密を明かしてしまったけど、ひとつお願いしておかなければいけないことがあった。


「......柊には言わないで」

「もちろん言わないけど。でも......」

「でも?」

「自分では言わないの?」

「な、なんで?」


そう訊き返した私に真希さんは笑顔を浮かべて、「だって、好きなんでしょ?」と言った。


「だ、だけど......女同士だから」

「まあ、そうだよね」


そう言った真希さんは、いつの間にか空になっていたペットボトルを握り潰しながら、「でも......」と続けた。


「でも、ずっと告白しないまま一緒にいるのって辛くない?」

「辛い......のかな」

「自分で叶わない恋だって決めつけたまま、ずっと近くにいるんだよ。それでいいの?」

「だって......それなら、柊といつまでも一緒にいることができるから」


自分の気持ちを明かさないまま、いつまでも柊と一緒にいる。それは私が最も望んでいることだった。その望みを聞いた真希さんは「なるほど」と呟いて、イスの背もたれに預けていた体重を、今度はテーブルの上に重ねた両腕に移した。そしてまた、ゆっくり口を開いた。


「少し勝手なことを言ってもいい?」

「うん」

「たぶん、柊が悠夏を拒絶することは無いと思うよ。もし悠夏の気持ちを柊が受け取らなかったとしても、それで悠夏のことを避けたりすることは絶対に無いと思う」


 確かに、もし私が気持ちを伝えても柊が私から離れることはないだろうということには、私自身も薄々気づいていた。「何があっても、悠夏を見捨てたりしないから」という言葉に、嘘があるとは思えなかったから。いや、嘘だと思いたくないだけかもしれない。仮にそうだとしても、柊の言葉は信じたい。


「......私も、そう思うことがあるんだよ」


 一度素直になってしまった私には、正直な想いを言葉にすることに何も抵抗はなくなっていた。


「柊は、何があっても私のそばにいてくれるんだろうなって。それなら、気持ちを全部そのまま伝えてしまえばいいって考える事もある。でも、それって卑怯なんじゃないかなって思うの」

「卑怯?」

「うん。なんだか、柊の優しさに付け込んで、それを利用しているみたいで......」


私の言葉を聞いた真希さんは、フッと笑ってから口を開いた。


「確かに、柊は優しいのかもしれないけど。それ以上に悠夏が優しすぎると思う」

「私が?」

「そう。『相手の優しさを利用しているみたいだ』なんて考えたこともないよ。人の優しさに甘えるのは、卑怯な事じゃないと思うよ。柊が自分の優しさを利用されたからって怒ったりするかな?もちろん、それが柊を傷つけたりするような本当に悪いことなら話は別だけど。自分の想いを伝えることって、そんなに悪いことなのかな?」

「......分からない。それが分からないから、怖いの」


 私が恋心を抱いたのは柊が初めて。だから、この気持ちを本人に伝えるという行為が相手にどれほどの影響を及ぼしてしまうのかが分からない。もし柊がその後も一緒にいてくれるとしても、果たして今と同じような気持ちで接してくれるのか。それが分からないから怖いんだ。


「私は、悪いことじゃないと思うよ」


真希さんがポツリと呟いた。


「むしろ、正直な気持ちを伝えてくれた方が嬉しいんじゃないかな。私が勘違いしちゃったくらい、柊は悠夏のことが大好きだと思う。それが恋心ではないとしても、好きなことには変わりないと思うな。大好きな悠夏から想いを伝えられたら、たとえ自分の気持ちとは違ったとしても、柊は真剣に向き合ってくれるんじゃないかな」


 真希さんが私のために真剣に話してくれているのを聞いている内に、確実に自分の中にあるその想いが揺らいているのがわかった。



 隠さなきゃいけないと思っていた想い。


 柊に打ち明けることは絶対にないと思っていた気持ち。


 でも真希さんの言う通りに、柊が私の気持ちと向き合ってくれるのなら。


 私はこの気持ちを、柊に伝えたいのかもしれない。


 その先に待っている未来がどんなものであっても。



 初めて、この気持ちに対して前向きになれた瞬間だった。


「......ごめんね。お節介だったよね」


 一人で思いを巡らせながら黙り込んでしまった私に、真希さんが小さな声でそう言った。どうやら、私が黙り込んでしまったのは、自分がいろいろ話し過ぎたせいで機嫌を損ねてしまったと思ったようだった。


「そんなことないよ。恥ずかしいけど......なんか、少し楽になったかも」

「本当?それなら良かったよ。私、人の恋愛話に首を突っ込むのが好きなんだ。それで昔から、いろんな友達にウザがられてたんだけど」

「......それは直した方がいいかもしれないね」

「だからさ、もし悠夏さえ良ければなんだけど......また相談してくれない?柊に余計なことは言わないから」


「相談させて」とか「相談に乗ってあげるから」は聞いたことがあるけど、「相談してくれない?」という言い回しを聞いたのは初めてだった。


 いつも美玖さんと一緒にいるから分からないけど、真希さんもなかなか不思議な人だな。そんなことを思いながら、「美玖さんにも言わないなら、相談してあげてもいいよ」と返答すると、真希さんは「やったー!」なんて無邪気にはしゃぎながら、ハイボールの缶を一気に傾けた。ほとんど逆さまに缶をひっくり返すような状態になった後でその缶がテーブルに置かれると、カランという軽い音が響いた。


「も、もう飲んじゃったの?」

「うん。なんか、嬉しくなっちゃって」


そう言って真希さんは、空き缶を持ち上げて「乾杯!」と言ってから立ち上がり、キッチンの方へ歩いて行った。


 やっぱり変な人だ。


 本当に、こんな人に気持ちを明かしてしまって良かったのだろうか。


 ほんの少しだけ不安になりながらテレビに視線を移すと、いつの間にかお笑い番組が終わっていて、真面目なニュース番組が始まっていた。それをぼんやり眺めているうちに疲労感が襲って来て、私はいつの間にかテーブルに突っ伏して眠ってしまっていた。



*********



「柊が悠夏を見るときの眼が熱っぽいというかさ。これは好きな人に送る視線だなっていう感じ」


柊との電話を終えてから、昨日真希さんから言われたその言葉が、再び私の脳内で存在感を強くし始めていた。


 私が美玖さんと真希さんの家に泊まったことを知った柊は、途端に声のトーンを落とした。


 そして矢継ぎ早に「私の家にも来てほしい」と訴えてきて、私がOKしたらすぐに電話を切られてしまった。


 思い返してみれば、いつもそうだ。


 私が由香里さんと海に行ったときも。


 藍ちゃんと仲良くなりたいと言ったときも。


 私が一緒に温泉に入りたくないと言ったときも。


 あんな声で拗ねていた。


 そんな柊の言動と真希さんから言われた言葉が結びついてしまい、胸がドキドキし始めてしまう。


 期待してはいけないとは分かっているのに。


 今までに感じた鼓動とは比べ物にならないほど胸が高鳴り始めている。心臓が体の中でバスケットボールのように弾んでいる感覚。このまま放置しておいて、私の体に何か支障が出ないのか心配になってくるほどだ。


 二か月後、柊の誕生日に。


 私は柊と二人で過ごす。


 そのとき私は......

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