心の扉 中編(柊パート・現在⑨)
「わざわざ、ありがとうね」
二人分のコーヒーを淹れていると、後ろからおばあちゃんの声が聞こえてきた。
「明日東京に帰るんでしょ?」
「うん。その前に会いたくて」
コーヒーが入った二つのカップを持って立ち上がる。このキッチンは、脚が不自由なおばあちゃんのために低く設計されている。これも、おじいちゃんが一緒に仕事をしていた人を通じて設計してもらったものだ。
「はい、どうぞ」
おばあちゃんの前にカップを置いて、私も向かいの椅子に座る。
「大学、休んで大丈夫だったの?」
「うん。忌引だから、成績には影響ないと思う」
五十年以上を共に過ごしてきたおじいちゃんが亡くなったばかりだというのに、おばあちゃんは私の心配ばかりをしてくれる。私が小さい頃から変わらない。
小学生の頃も、母が私のことを「友達が全然いないのよ」などと言うと、決まっておばあちゃんは「いいじゃない。柊が楽しいなら、友達なんていなくても」と笑顔で言ってくれた。私には、そんな優しさがとても心地よかった。
「柊が会いに来てくれて、おじいちゃんも喜んでると思うよ」
「そうかな」
振り返ると、開いた襖の向こうの部屋で、写真の中のおじいちゃんが微笑んでいる。確かに、喜んでくれているように見えるな。
「おじいちゃんね、早く退院して東京に遊びに行きたがってたのよ。柊が働いてるカフェに行きたいんだって」
「そうなんだ......」
「私も、楽しみにしてたんだけどねぇ」
おばあちゃんの笑顔の中から、寂しさが垣間見えた。
「今日は、ひとつ聞きたいことがあって来たの」
「聞きたいこと?」
「おじいちゃんの仕事のこと」
「仕事?どうしたの、急に」
「おじいちゃんの仕事に興味があって。話を聞きたいと思ってたところだったの。もうおじいちゃんに直接聞くことはできないから、おばあちゃんに聞こうと思って。二人が出会ったのも、おじいちゃんの仕事がきっかけなんだよね?」
そうだよ、と言ったおばあちゃんの視線が、私の背後に向かった気がした。きっと、おじいちゃんの遺影を見たのだろう。そして車椅子を動かしてその部屋まで行き、ある棚の引き出しを開けた。こちらへ戻って来たおばあちゃんは、何枚かの写真を持っていた。
「遺影の写真を選ぶために整理してたらね、ちょうど出てきたの」
私の前に並べられたその写真は、どれも白黒で写し出されていた。
「この少し後から、カラー写真が普及していくんだけどね」
セーラー服を着て車椅子に座る女の子と、その横に笑顔で立つ男性。
「私は十六歳だったと思う。おじいちゃんは、二十四歳くらいかな」
おばあちゃんが笑みを浮かべる。だけど写真の中の女の子はじっとこちらを見つめていて、決して笑顔ではない。いつも笑顔のおばあちゃんの面影はない。隣の男の人はスーツ姿で、とても爽やかな雰囲気だ。私から見ても、素直にかっこいいと思う。おばあちゃんとは対照的に、その笑顔は確実におじいちゃんのものだと分かる。
「高校生の頃から、おじいちゃんと知り合ってたの?」
「そうだよ。私が通う支援学校に、おじいちゃんが来てくれたの」
恥ずかしそうにしているおばあちゃんに、「私たちが初めて会った時のこと、聞きたい?」と訊かれた。私が頷くと、おばあちゃんは写真の中のおじいちゃんに指で触れながら、優しく話し始めた。
*********
十五歳の時に、私は事故に遭ったの。高校に入ったばかりだった。学校からの帰りに、歩道を歩いていた私に突然車が突っ込んできて。命は助かったけれど、この通り脚が動かなくなっちゃった。せっかく高校で仲の良い友達ができたのに、私は支援学校に転入することになってね。その時の私はすごく落ち込んで、何も楽しいことは考えられなかった。友達とたくさん遊びたかったし、男の子とデートもしたかった。大学を出たらすぐに結婚して、子供を産んで。そんな未来が全て奪われたように感じていたの。だから、支援学校ではほとんど誰とも口を利けなかった。
学校には、そんな私みたいな人の悩みを聞く人が何人か来ていて、その人たちと面談をする時間があったりしたんだけど、私はその時間が苦手だったの。『辛いことはない?』とか『大変なことはある?』って訊かれるのが嫌でね。そんな時に、新しく一人の男の人が学校に来てくれたの。
その人は他の人たちとは少し違ってね。初めてその人が私の面談を担当することになった日。私が目の前まで来てるのに「こんにちは」って言うだけで、ずっと一人で本を読んでるの。他の人は、私から話を聞こうとして質問をたくさんしてくるのに、その人は黙ったまま。
そのまま時間が経って、遂に我慢できなくなった私が「何も話さなくていいんですか?」って訊いちゃったの。そうしたら、パッと顔を上げてこっちを見て「話したいの?」って言ったのよ。やけに楽しそうに笑いながら。「だって、あなたの仕事でしょう?」って言ったら、本を閉じてニッコリ笑って「じゃあ、話そうか」って。今思えば、おじいちゃんの作戦だったのね。私はまんまと罠に掛かったみたい。
その日に話した事と言えば、好きな食べ物の話とか、好きな授業の話くらい。それも、ほとんどあの人が一方的に自分のことを話すのを私がじっと聞いてるだけ。私の脚の事とか、悩みなんて一切訊かれなかったの。そのまま面談の時間は終わっちゃって。あれだけ面談を嫌がっていた私の方が「あの人、大丈夫なのかな」なんて心配するくらい。
それからも毎週面談があったんだけど、あの人は相変わらず自分の話しかしないし。でも、だんだん私も話を聞くのが楽しみになってきて。少しずつ私も自分から話すようになって、二か月くらい過ぎた頃にはすっかり心を開いてたかな。それからは、何か辛いことがあったり、悩みができたら相談するようにもなったの。その度に、あの人は優しく励ましてくれて。今まで誰にも話してこなかった分だけ、一気に気持ちが楽になった。
高校を卒業して大学に入ってからも、おじいちゃんは話を聞いてくれたの。大学は普通の大学だったから、車椅子での移動が大変でね。わざわざ大学まで来て、学校の偉い人に「段差を無くしてほしい」って直訴してくれたりして。当然、私一人のために大学がすぐ動いてくれるはずはないのに、家族でもない私のためにそこまで動いてくれるのが嬉しくて。大変だった移動も、そのうち友達ができて手伝ってくれるようになったし。大学で友達ができたのも、おじいちゃんが私の心を開いてくれたおかげだから。
それから少しずつ、話を聞いてもらうだけじゃなくて、どこかに出かけたりすることが増えたの。自分の車で迎えに来て、私を持ち上げて車に乗せてくれて。映画を観に行ったり、水族館に行ったり。支援学校に通っていた頃よりも、頻繁に会ってた気がする。その時はあまり意識してなかったけど、今になって思えば、あれはデートだったのね。結婚してから聞いたら、おじいちゃんもそのつもりで私を誘っていたみたい。
それで、私が二十歳になった頃。丁度、今の柊と同じくらいね。大学を卒業した後のことが不安になって、おじいちゃんに相談したの。大学を卒業しても、しっかり働けるか分からない。車椅子生活の私を雇ってくれる所なんて無いかもしれない。どうすればいい?って訊いたの。そうしたら、あの人。「僕と一緒に住めばいい」って言ったのよ。
「僕と一緒に暮らせばいい。そうすれば、いつでも話を聞いてあげられる。僕がお金を稼いでいるんだから、生活にも困らない。それに、君が僕の帰りを待っていてくれる毎日は、きっと楽しいと思うんだ」って。
何を言ってるんだろうって思った。でも、一緒に暮らす想像をしてみたら、全然嫌じゃなくて。むしろ、確かに楽しいだろうなって思っちゃって。それで気がついたの。私は、この人と結婚したいんだって。この人のことが好きだったんだって。
*********
「大学を卒業してすぐに結婚して、二年後にあなたのお母さんが生まれたのよ」
そう言っておばあちゃんは、また一枚の写真を見せてくれた。車椅子に座る若い頃のおばあちゃんと、その腕の中ですやすやと眠る赤ちゃん。きっと、これを撮影したのがおじいちゃんなのだろう。こんなに可愛らしい赤ちゃんから私が生まれたのかと思うと、妙な気持ちになる。じっとその写真を見つめていると、おばあちゃんが「柊にそっくりね」と笑った。
「そうかな?どちらかと言うと、お父さんに似てるって言われるんだけど」
「今はそうかもしれないけど、赤ちゃんの頃はそっくりだったのよ。中指をしゃぶりながら寝る癖も同じだったし。柊の方が指しゃぶりから卒業するのは遅かったけどね」
へえ、と言いながら左手の中指を見る。私は左手の中指をしゃぶる癖がなかなか治らず、幼稚園に入る頃まで指しゃぶりが続いていた。その影響があるのかは分からないけど、今でも左手の中指は肌荒れしやすい。顔も性格も父に似ていると言われ続け、自分でもそう思っていたから、母も同じ癖を持っていたのは驚いた。帰ったら、このことを母に教えてあげよう。
「ごめんね。おじいちゃんの仕事の話が聞きたかったんだよね」
おばあちゃんに言われて、自分でもそのことを忘れていたことに気がついた。2人の馴れ初めを聞いて、すっかり満足してしまっていた。
「そう。実は、おじいちゃんと同じ仕事に興味があるんだ。カウンセラーってどういう仕事なのかなと思って。その頃のおばあちゃんにとって、おじいちゃんはどんな存在だったのか気になって」
そう言うと、おばあちゃんは少し考えた後に話し始めた。
「もちろん、おじいちゃんは旦那さんだし、大好きな人なんだけど。そうなる前の、落ち込んでいたあの頃の気持ちを思い出して考えてみても、おじいちゃんと出会って本当に良かったと思う。もしあの時、おじいちゃんと出会わなかったら、ずっと落ち込んだままだったと思うから。おじいちゃんと出会って心の扉を開くことができて、学校にいた他のカウンセラーの人にも気を許せるようになったし。辛いことがあったときに、話を聞いてくれる人がいるのは、本当に心強かった。もし柊がそんな人になりたいと思っているなら、私は嬉しいよ。きっと柊にも、あの時の私みたいに落ち込んでいる人を助けることはできると思う」
おじいちゃんから話を聞くことはできなかったけど、カウンセラーという存在に助けられた経験があるおばあちゃんの話を聞くことができたのは良かった。その存在に助けられる人がたくさんいるんだ。これで、ようやく自分が目指すものが決まった気がする。
「ありがとう。私、頑張ってみようかな」
「応援してるよ。きっと、おじいちゃんも」
そう言われて、おじいちゃんの写真の方に振り返る。
さっきよりも嬉しそうに見えたのは気のせいだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます