ツーペア 前編(悠夏パート・現在⑧)
「寒い」
そんな声が耳に入り、自分が無意識の内にそう呟いていたことに気が付いた。十月も半ばになると、昼間は相変わらず暑かったりもするものの、朝と夜は少し冷え込むようになってきた。一限目がある日なんて、大学まで行く時間帯は肌寒いのに、授業を受けていると徐々に温かくなっていくから服装に困る。
私が住んでいるこの部屋は陽当たりの関係か、それともアパート全体の構造のせいか分からないが、特に朝が冷える。十月でこの冷え込みということは、真冬は相当厳しいんじゃないかと思い不安になる。
電気ケトルに水を入れてからスイッチを押す。カーテンを開けると一気に陽が射し込んできた。その光を頼りに、マグカップとインスタントコーヒーを準備する。今日は一限目がない代わりに、二限目から五限目までしっかり授業が入っている。前期では上手く授業を散りばめることができていたけど、どういう訳か後期は授業が固まってしまった。
後期の授業が始まってから、早くも一か月以上が過ぎてしまった。あと半年もすれば私は二年生に、柊たちは三年生になる。いよいよ自由な時間も限られていくんだと思うと寂しくなる。
それでも最近は、少し前向きな考え方ができるようになってきた。来年、もし柊が忙しくて会える日が減ってしまっても、全く関わりがなくなるわけではないと思いたい。その中で一緒に過ごせる時間を見つけて、それを大切にしていけばいい。そんな風に思えるようになった。少し前の私なら、この事をネガティブに捉えて落ち込んでいたと思う。
まだお湯が沸いたことを知らせる音は鳴っていないが、ケトルの中のお湯は明らかに沸騰していた。それをスタンドから外して、マグカップにお湯を注いでコーヒーを作る。このインスタントコーヒーは柊から教えてもらったもので、マグカップは美玖さんと真希さんから貰ったものだ。
柊も使ってくれているかな。
色違いのカップを使う柊を想像しながら、私もコーヒーをひと口飲んだ。
*********
美玖さんと真希さんが暮らす家に私と柊が遊びに行ったのは、夏休み最終日だった。
熱海旅行について二人に何も言っていなかった私たちは「このまま内緒にしておこうか」などと笑っていたのだけど、ホテルの売店を眺めているうちに申し訳なくなり、結局二人へのお土産を買っていた。夏休みが明けてから渡そうと思っていたところに連絡があったので、そのお土産を持って二人の家へ向かった。
「はいこれ、お土産」
「え?」
そのはずが、私たちの予想に反して、先に『お土産』を渡してきたのは美玖さんと真希さんだった。その箱には大きな文字で『八ツ橋』と書いてある。
「なに?京都に行ったの?」
その箱を受け取りつつ、柊が首を傾げていた。
「二週間前に。美玖が彼氏と別れて落ち込んでたから、その憂さ晴らしに」
「ああ......」
あの雨の日以来、美玖さんがずっと彼氏とギクシャクしたままだということは知っていたけど、結局別れてしまったようだった。
「別れるつもりではあったんだけど、いざ本当に別れたらやっぱりショックでさ。そしたら真希が急に『京都行こう』って」
「な、なんで京都?」
「美玖が前に京都に行きたいって言ってたのを覚えてたんだよ」
「それで、急いで新幹線のチケットを買ってね」
美玖さんはニコニコしながら、スマホで撮った京都の写真を「ほら」と私に見せてきた。
「なんか、美玖が京都に行きたかったなんて意外だね」
「別に京都自体に興味があった訳じゃないんだけどさ。ほら、去年三人で大阪に行ったときに言わなかった?私、中学も高校も修学旅行に行けなかったから」
「ああ、言ってたね」
「え、どういうこと?」
思わず聞き返してしまった。そんな人はあまり聞いたことがなかったから。
「中学の時は、自転車で車とぶつかって両脚骨折。高校の時は出発前日にインフルエンザ。最悪でしょ?どっちも京都だったんだよ。それで、いつかは行ってみたいなって。いや、意地でも行ってやるって思ってた」
なかなかに壮絶な過去の出来事を、美玖さんは変わらぬ笑顔で話していた。
「それは......大変だったね」
「でしょ?だから念願の京都だったんだよ」
「それで、どうだったの?」
「結構よかったよ」
「そっか。私も高校は修学旅行がなかったから......あれ?何これ」
話しながらお土産の箱を開けていた柊が手を止めた。
「これ、八ツ橋?」
箱の中には、茶色い長方形のものが並んで入っていた。よく見ると、瓦のように丸みがあった。
「そうだよ。これが八ツ橋。三角形で、あんこが入ってて柔らかいやつは生八ツ橋」
「へえ......あ、だからか」
真希さんの説明を聞いた柊は、何かを思い出したようだった。
「そうだよ。だから『あんこ好き?』って送ったの。そうしたら、そこまで好きじゃないって言うから」
それを聞いて、私もピンときた。
「あっ、だから美玖さんも」
「そう。これすごく硬いからさ。歯が弱かったら生八ツ橋の方がいいかなと思って」
「なんで最初にそれが気になるの」
「二人の質問は統一してよ」
柊が呆れながら、八ツ橋をひとつ手に取って齧った。パキッという音と共に、「硬っ」という声が聞こえた。
「実は、私たちもお土産があるんだけど」
美玖さんの昔話に気を取られていた私は、すっかり自分たちのお土産のことを忘れていた。八ツ橋をひとつ食べきった柊が言ったその言葉で思い出し、二人にお土産のクッキーを渡した。
「え?どこのお土産?」
「熱海」
「なんで熱海?」
確かに、女子大生が二人で熱海に旅行というのはあまり聞かない気がする。真希さんの純粋な疑問に私が説明して答えた。
「海が見える場所に行きたいって、柊が」
「その中でもなんで熱海を選んだの?」
「熱海に良いホテルを見つけたって......柊が」
「あんた、そんなに熱海に行きたかったの?」
そう言って笑う真希さんに、柊も苦笑いしながら「まあ、なんとなく?」と答えた。本当は私が由香里さんと二人きりで海まで行ったことに柊が嫉妬して、海が見える場所に行こうと言い出したんだけど。その経緯を忘れていたのか、それとも恥ずかしくて隠していたのか。とにかく柊は本当の理由を言うことはなかった。
「誘ってくれればよかったのに」
美玖さんが大袈裟に残念がっていた。
「そんなこと言ったら、二人だって京都に誘ってくれたらよかったじゃん」
「それは......急だったんだもん」
本当は私が二人きりで行きたいとお願いしたんだけど、柊はそのことも隠してくれた。忘れていた......とは思いたくない。ただ、残念そうにしている美玖さんを見ていたら、確かにいつか四人で旅行に行けたら楽しいだろうなとも思った。
「それに、旅行は私から悠夏への誕生日プレゼントだったから」
今度は柊がわざとらしく胸を張った。そんな柊を私もフォローする。
「そう。ホテルもレストランも、全部柊が予約してくれたんだよ」
私の言葉で、柊は更に大きく胸を張った。柊の横に『えっへん!』という文字が見えた気がした。そこまで威張らなくても......と思いながらも、あの旅行が柊にとっても大切なものだったんだなと感じて嬉しくなった。
「ああ、そうだ」
そう言った真希さんは立ち上がり、自分の部屋から何やら箱を持って来た。
「これ、私と美玖からの誕生日プレゼント」
またしても、予想外の贈り物だった。
「えっ」
「せっかくなら京都で買おうと思って。八月三十一でしょ?」
「うん......なんで知ってたの?」
「前に柊が言ったのを覚えてた」
「真希、記憶力いいんだよぉ」
何故か美玖さんが誇らしげだった。
「ええ、びっくりした。ありがとう」
「いいえ。開けてみて」
言われた通りに箱を開けると、そこには二人のマグカップが入っていた。ピンクと青の、どちらも和風でオシャレなデザインのものだ。
「清水焼っていう、京都の工芸品なんだって。お椀とか湯呑みとかもあったんだけど、マグカップなら普段から使えるかなと思って」
真希さんは、箱の中に入っていた説明書きをパラパラとめくりながら教えてくれた。
「ありがとう。大事にするね」
「それ、ペアカップなんだよ」
美玖さんが身を乗り出してきて、青い方のカップを手に取った。
「ペアカップ?」
「そう。こっちは彼氏にあげてね」
手に持ったカップをくるくると回しながらニヤニヤしていた。
「彼氏なんていないから」
「じゃあ、いつかできた時のために」
ほら、と差し出された青いカップを受け取り、両手がカップで塞がってしまった。そんな状態で私は、青のカップを見ながら考えた。
ペアカップ......
別に、必ず彼氏に渡さなきゃいけない訳じゃないよね?
柊の方を見ると、先ほどまで胸を張っていたとは思えないほど縮こまり、膝を抱えて座っていた。
「ねえ、柊」
名前を呼んでも、返事がない。
「柊?おーい」
肩に触れると、ようやく柊がこちらを向いてくれた。
「あ、ごめん。何?」
「どうしたの?」
「なんでもない。ちょっと考え事」
「......そっか」
どうしたんだろうと思いながら、私は頭の中に浮かんでいた提案を口にした。
「これ、柊にあげる」
青い方のカップを差し出すと、柊は私の顔とカップを交互に見ながら驚いていた。
「え?いいの?」
「うん。柊、コーヒー好きだし」
「本当?ありがとう!」
柊は満面の笑みを浮かべて、両手で包むようにそのカップを持つその姿を見て、私は自分の大きな進歩を実感していた。
今までの私なら色々なことを考えて、悩みに悩んでいたと思う。そしてカップを渡すという決断をしても、実際に行動に移すには更に時間がかかっていたはずだ。
美玖さんと真希さんが言っているように、この二つのマグカップは恋人同士で使うのが一般的なのだろう。それも、男女の恋人同士で。カップの色がピンクと青に分かれていることからも、それは明白だ。そんなカップの一つを柊に渡した。この行動で想いを伝えたかった訳ではないけれど、心の何処かで何かが変わればいいなと思っていた。
私からの、大切な人へのプレゼント。
プレゼント......?
「あっ、ごめん。これ柊にあげてもいい?」
柊が喜んでくれていることに満足して忘れかけていたが、そもそも二つのカップは美玖さんと真希さんから私への誕生日プレゼントなのだ。その内の一つを二人の目の前で柊に渡すという行為は流石に失礼かもしれないと思い、慌てて二人に確認した。
「まあ、誰かにあげてほしいと思ってペアカップを買ったし。それは悠夏の物だから別に良いんだけど......」
そう言った美玖さんは、真希さんの顔を見た。それが合図だったかのように、今度は真希さんが真剣に言い放った。
「柊にあげちゃうって、勿体なくない?」
すかさず柊が反応した。
「どういう意味?」
「いや、良いんだけどね?でも折角のペアカップだし......」
「それを私にくれるくらい、悠夏は私を大事に思ってくれてるってことだよ。ね?」
「う、うん。そうだよ」
私たちは二人で、真希さんに強い視線を送った。柊の思わぬヒートアップに困惑したのか、真希さんが苦笑いしながら「まあまあ」と落ち着かせる仕草を見せた。その横で美玖さんは私たちに「仲良しだねぇ」などと言いながら、私たちのお土産のクッキーを頬張っていた。いつの間に開けたんだろう。
そんなことを言う美玖さんだけど、私からすれば二人も十分すぎる程に仲が良いと思う。まず一緒に住むという時点で、相当な絆がなければ難しいだろうし。それに、私は知っている。引っ越しを手伝ったときに見つけた、二人のお揃いの食器の存在を。お椀から箸、グラスまで綺麗に一組ずつ揃っていた。「二人だってお揃いの食器を使ってるでしょ?」と言いかけたけど、柊が更にヒートアップしてしまいそうだったのでやめた。
「二人の誕生日っていつ?」
「えっとね、私は十月二十日。真希が五月十四日」
「十五日だよ」
真希さんが美玖さんの肩を叩いた。美玖さんは「ごめんごめん」と言いながら、相変わらず呑気に笑っていた。
まもなく誕生日を迎える美玖さんには、お返しにペアルックのパジャマでもプレゼントしてあげようかなと思った。
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