きっかけ(柊パート・現在⑧)

「ただいま」


玄関を開けて呟いた。当然、返事が聞こえてくることはない。もし聞こえてきたとしたら、それはそれは一大事だ。明かりを点けて荷物を置き、クーラーとテレビの電源を入れる。ローテーブルの前に座った途端、一気に疲れが襲ってきた。旅行でずっと悠夏と一緒にいる間は楽しくて、自分の体が疲れていることに気付かなったようだ。お腹も空いている気がする。


 帰りに買った駅弁を食べながらテレビのニュースを見ていると、都内の学校の夏休みが明けたという話題が特集されていた。駅に密集する制服姿の中高生の映像などが流れている。自分もあと二週間ほどであの中に戻るのかと思うとゾッとする。


 そして映像は、学生たちへのインタビューに切り替わった。駅前でマイクを向けられた学生が短く質問に答えている。


「夏休みが終わりましたが、心境はどうですか?」

「残念ですよー」


「宿題はどうでした?」

「ラスト三日間、大急ぎで終わらせました」


「学校は楽しみですか?」

「全然。面倒くさいです」


夏休みが終わってしまったことを惜しむようなコメントを残すその中学生の表情が、私にはなんだか嬉しそうに見えた。そんなことを言いながら、きっと学校が好きなんだろうな。


中学生の頃の私がマイクを向けられたら、どんなことを言うだろうか。



学校がつまらないと正直に言うか。


それとも、適当に「楽しみです」とでも言うか。


あるいは、インタビュアーを無視して立ち去るか。


......三番目だろうな。


高校生の頃の私なら明るく答えると思う。実際のところ、高校に行くのは好きだったし。



どっちが本当の私なんだろう。



周囲を遮断していた私が、高校で奈月と出会ったことで変わったのか。


本当は周囲に溶け込みたかった私を、奈月が引っ張り出してくれたのか。



まあ、どっちでもいいか。


どっちも本当の私だと思う。


とにかく、高校入学が大きな転機だったのは間違いない。


それは、悠夏も同じだったみたいだ。



*********



 悠夏の過去に何か重大な出来事があり、それが彼女を変化させたということはなんとなく分かっていた。ただ、私からその事について尋ねるつもりはなく、悠夏が自ら語ろうとするとも思っていなかった。しかし、悠夏はホテルで唐突に自分の高校時代のことを話し始めた。予想外の出来事に戸惑いながらも、私は悠夏の話を黙ったまま聞いた。



悠夏が高校でできた親友を信頼して、誰にも言えなかった悩みを相談したこと。


その悩みは二人だけの秘密にしようと約束したこと。


それなのに、親友は他の人に悠夏の秘密を話したこと。


秘密が噂として広まってしまい、それが原因で親友と仲違いをしたこと。


落ち込んだ状態から立ち直れず、昔からの親友との関係も終わらせてしまったこと。


その結果、もう友達は作らないと決めたこと。



苦しい記憶を振り返る悠夏は、時折その表情を歪めていた。それでも、ゆっくりと言葉を選びながら話してくれた。



「今こうやって柊が一緒にいてくれる。美玖さんと真希さん、由香里さんもいる。すごく恵まれていて、もう昔のことは忘れられるかもって思ってた。それでも、ときどき不安になるの。また前と同じことになっちゃうんじゃないかって。柊との関係が終わっちゃうんじゃないかって考えたら、すごく怖くて。そんな事を思う度に、なんとか自分の中に抑え込んでた。だけど今日、柊と一緒に朝から楽しく過ごしていたら、また怖くなってきて。我慢しようと思ったんだけど......」


悠夏は不安そうに私の目を見た。その目はいつもより大きくて、潤んでいるように見えた。



「私とずっと一緒にいてくれる?」



その不安そうな声が私の耳に届くと同時に、悠夏の目の中で揺れる光から一粒の雫がこぼれ落ちた。



その瞬間。



衝動的に私は、悠夏を抱きしめていた。



その体に触れて分かったが、悠夏は小さく震えていた。



本当に、不安だったんだな。


「大丈夫だよ。私はずっと悠夏のそばにいるよ」


悠夏からは声は聞こえなかった。その代わりに、不安定に震える吐息が聞こえた。


「私も、ずっと悠夏といたいから」



ずっと一緒にいて欲しいのは、私だって同じだよ。



悠夏は私の腕の中で体を動かして、私の背中に手を回した。浴衣の後ろをぎゅっと掴まれるのを感じた。


向かい合うような形になると、私の体の大きさのせいか、私の方が抱きしめられているような感覚になった。何故か私の心が安らいでいた。



「だから、我慢できないことがあったら私に言ってくれていいからね。悩みを相談してくれれば、私も一緒に悩んであげるから。逆に、言いたくないことは言わなくてもいいし。その悠夏の『秘密』が何なのかも聞かない。とにかく、無理しないでほしいの。不安にならないでほしいの。私は何があっても絶対に悠夏を見捨てたりしないから。安心して」


悠夏の体の震えが、より大きくなった。私の肩に顔を埋めるようにして泣き出してしまった。私は悠夏の背中をそっと擦った。


「頑張って話してくれたね」

「......うん」


涙をすすり上げる悠夏が、ようやく声を出してくれた。


それから私たちは、しばらくそのまま抱き合ったままだった。



*********



 一人で冷静に思い返していると、自分の行動が恥ずかしくなってくる。いくらなんでも、抱きしめるのはやりすぎだ。


 目の前で不安そうに縮こまる悠夏を見ていたら、あれこれ考える前に体が動いていた。自分でもよく分からないが、悠夏を守ってあげたくなった。誰かにこんな感情を抱いたのは初めてだ。



 自分の人生を振り返ると、私はこれまで常に誰かに守られ、引っ張られながら生きてきた。



高校で出会った奈月は、自分の殻に閉じこもっていた私を外の世界へ連れ出してくれた。友達と一緒に過ごすことの楽しさを教えてくれて、私の相談にも乗ってくれた。初めてのアルバイトに誘ってくれたのも奈月だ。


将平から告白されて、初めて彼氏ができた。短い間だったが、そのおかげで無理に恋愛をする必要はないということを学んだ。そんな私の気持ちを察して、別れを切り出してくれたのも将平の方からだった。


漠然と大学進学を考えていた私に、東京行きを提案してくれたのは担任の先生。それを認めてくれて、私を東京へ送り出してくれたのは両親。


出会ったその日にカフェでのバイトに誘ってくれた由香里さんのおかげで、急いでバイトを探すこともなく、すぐに働き始めることができた。上京したばかりの私は、東京育ちの由香里さんから色々なことを教わった。


大学のオリエンテーション初日。大学に馴染めるか不安だった私に声をかけてくれた美玖と真希。二人のおかげですぐに大学は楽しい場所に変わった。



 私の人生の転機はすべて、誰かにきっかけを与えられている。もしも中学生の頃までのように他者を拒絶したままだったら、全く違う人生を歩んでいたと思う。


 そんな私が悠夏と再会したときには、自ら声をかけた。自ら食事に誘い、自ら連絡先の交換を提案した。美玖と真希に悠夏を紹介して、四人で過ごすようになった。その結果、友達は作らないと決めていた悠夏が、私たちを「友達」だと思ってくれている。


それは私が悠夏に、きっかけを与えてきたからなのかもしれない。


私の行動が、悠夏の気持ちが変化するきっかけになったのかもしれない。


もし私が悠夏の「きっかけ」を作ることができるのなら。


これからも悠夏の「きっかけ」を作り続けたい。


私がみんなに貰ったように、悠夏に「きっかけ」をあげたい。


 中学生の頃の悠夏に戻って欲しいなんて全く思わないけど、できるだけ過去から引きずる悩みや不安は消してほしい。悠夏が殻に閉じこもるなら、私がその殻を破ってあげたい。


私をこんな気持ちにさせたのは、悠夏が初めて。これは悠夏だけに抱いた感情だ。


やっぱり私にとって悠夏は、特別な友達なんだ。



*********



 旅行帰り特有の疲労感に打ち勝つことができず、ぼんやりとテレビを眺めながら過ごしていたら、いつの間にか夜になっていた。何時間もテレビを観ていたはずなのに、どんな番組をやっていたかはあまり覚えていない。


 開けっ放しだったカーテンを閉めて、何も考えずにベッドの上に倒れ込んだ。時計を見ると、まだ夜九時を過ぎたばかりだ。普段ベッドに入っている時間にはまだ遠い。夕食も食べていないし、お風呂にも入っていない。それでも何もやる気が起きないので、もうこのまま眠ることにしよう。起きてからシャワーを浴びれば問題ない。


 一応ベッドから降りて、Tシャツとスウェットパンツに着替える。昨日の夜はホテルの浴衣でそのまま寝てしまった。浴衣は寝心地も悪く、起きたときには思いきりはだけけていた。下着も着けずに浴衣を着ていたから、それはそれは大胆なことになっていた。かといえば、決して色気がある訳でもなく。まあ、それは私のボディが貧相なことも関係しているとは思うが。とにかく浴衣という物は雰囲気を楽しむための物で、決して実用性がある訳ではない。隣のベッドで眠る悠夏の浴衣姿は綺麗なままだったから、私の寝相が悪いという可能性も捨てられないが。


 そういえば、悠夏はホテルに温泉があることを知らなかったと言っていた。私は温泉があって浴衣も用意されていることを知っていたから何も着替えは持って行かなかったが、悠夏はきちんと寝るための服も持ってきていたのだろうか。悠夏は普段、どんな格好で寝ているのだろうか。私と同じようなラフな格好か、それとも女の子らしい可愛いパジャマか。


もしくは......下着だけとか?


いや、悠夏に限ってそれはないだろう。


美玖じゃあるまいし。


 去年の旅行で、私と真希がいるにも関わらず、ホテルの部屋で下着姿で過ごしていた美玖の姿を思い出して笑ってしまう。今になって思い返してみれば、驚いている私の横で真希は意外に冷静だった。もしかしたら、あの旅行の前にも二人でどこかに泊まったことがあったのかもしれないな。やっぱり、あの二人も特別仲が良い。


 部屋を暗くしてから、もう一度ベッドに入った。スマホを開いて、旅行中に撮った写真をチェックする。二人で写っているものはほとんど無く、ほぼ全てが悠夏だけが写っているもの。まるでデートの写真みたいだ。悠夏に彼氏がいたら、その男のスマホの写真アプリはこんな感じなのだろうか。その写真たちを悠夏に送ってあげようと思い立ち、メッセージアプリを開いた。


 送信する写真を選んでいると、その中の一枚に目が留まった。悠夏の寝顔の写真だ。私が起きてから、悠夏が目覚める前にこっそり撮影したもの。そのときも思ったが、本当に綺麗な顔で眠っている。自分の寝顔を見たことはないが、おそらく悠夏に見せられる代物ではないだろうな。先に目覚めてよかった。


 こっそり撮影したという罪悪感から削除するべきか迷ったが、いつか悠夏から彼氏を紹介される時が来たら、その彼氏と張り合うための材料として記録しておくことにした。私の方があなたよりも先に悠夏の寝顔を見ていますよ、と。


......バカだな、私。


寝顔の写真以外を送信した私は、更に増幅した疲労感と少しの自己嫌悪に陥りながら瞼を閉じた。

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