あの私はもういない 後編(悠夏パート・過去⑤)
もう一人の親友と最後に会ったのもこの頃だった。
ある日、学校から帰ると家の前に立つ人影が見えた。少しずつ近づいていくと、徐々に服装と顔がはっきり見えてきた。そして、それが誰なのか分かった瞬間、私の足が止まった。できれば会いたくなかったが、目が合ってしまった手前、そのまま無視することもできなかった。
「久しぶり」
先に口を開いたのは
「......久しぶり」
直接会話を交わしたのは半年ぶりだった。
「元気だった?」
「まあ......身体はね」
「そっか」
ひとつの話題が終わるごとに、しばらく沈黙が流れた。
「私、悠夏を怒らせるようなことしたかな?どれだけ連絡しても、返事くれないから......」
地面を見つめながら湊美が言った。背負っているリュックのハーネス部分を両手でぎゅっと握るその姿からは、不安が溢れ出していた。
湊美が部活を引退した頃から、スマホに何件もメッセージが届いていることに気づいていたけど、返信する気になれずに放置した。何度か電話もあったが、すべて無視してしまっていた。小学生の頃からの親友だった湊美の前では常に明るく過ごしていたから、その頃の自分のように振る舞える自信がなかったからだ。
「そんなことないよ。心配しないで」
「でも......」
「不安にさせてごめん。湊美は何も悪くない。これは私の問題だから」
「......どうしちゃったの?」
「上手く言えないけど、今はそういう気分になれないの」
湊美とは、小学生の頃から一緒にいた。別々の高校に入って会う機会が減っていたとはいえ、お互いの様子で何を考えているのかはなんとなく分かった。きっと湊美も、私が何か悩みを抱えていることを感じ取ったのだと思う。
「何かあったら、私に相談してくれていいんだよ?親友なんだから」
いつか朱里から聞いた言葉と同じだった。
湊美の気持ちは嬉しかった。でもその時の私は、彼女の親切心を受け取ることができなかった。
この悩みは私の友情を壊してしまうということを知っていたから。
「ごめん。無理なの」
「どうして?」
「......言いたくない」
言いたくないし、言えない。もう考えたくなかった。
「......嫌だよ」
そう小さく呟いた湊美は、ぐっと私に近づいた。
「嫌だよ。そんな悠夏は見たくないよ。私は楽しそうで、明るい笑顔の悠夏が好きなの。今までずっと一緒にいて、こんなに暗い顔の悠夏は見たことないもん。なんでも話してくれていいんだよ?もし私に直してほしいところがあるなら、私も気をつけるから。ね?」
その言葉は湊美の本心だったと思う。真剣な眼差しを見れば十分それが伝わってきた。
湊美に直してほしいところなんてない。
湊美の言葉がすべて本心だということは、私が一番よく分かっていた。
それでも。
自分は湊美の期待に応えられないことも分かっていた。
「心配してくれてありがとう。でも、どうしても無理なの」
期待していた答えではなかったんだろう。私の言葉を聞いた湊美は俯いてしまった。
「もう前の私には戻れないかもしれない」
私がそう言うと、湊美は一瞬だけ私の目を見た。そして私に背を向け、走って行ってしまった。
最後に見えた湊美の顔。
あんなに悲しそうな湊美を見たのは初めてだった。
湊美の親切心を受け取らなかった罪悪感を覚えながらも、これでよかったんだと自分に言い聞かせた。
家の中に入り、母の「おかえり」という声を背中に受けながら自分の部屋に向かった。薄暗い部屋に入り、電気を点けた瞬間。耐えがたいほどの虚無感に襲われた。
朝に家を出たときと何も変わらない自分の部屋。もう何年も模様替えをしていない自分の部屋。あまりにも見慣れていたはずの光景を見た瞬間、突然自分が全てを失い、空っぽになったような感覚に陥った。
どうしてこんなことになったんだろう。
どこで狂ったんだろう。
何を間違えたんだろう。
湊美の親切を受け取らなかったことが間違い?
朱里の謝罪を受け入れなかったことが間違い?
朱里に相談したことが間違い?
香月さんを好きになったことが間違い?
香月さんに話しかけたことが間違い?
考えを巡らせるほど、混乱して分からなくなっていった。
朱里が約束を守ってくれなかったことが淋しくて。
湊美にあんな顔をさせてしまった自分が情けなくて。
親友と過ごす時間が楽しかった頃に戻れないことが悔しくて。
気がつくと、眼から涙が溢れていた。
何度も涙を拭う中で、その涙の隙間からある物が目に入った。
机の上に並んだ、小学校と中学校の卒業アルバム。
私はそれを手に取り、ゴミ箱に捨てた。
過去を無かったことにはできないけど、少しでもその痕跡を目の前から消したかった。
この辛さを味わうくらいなら、過去を忘れて新しい自分になろうと決意した瞬間だった。
*********
残りの高校生活は、ほとんど惰性で過ごしたようなものだった。卒業できる程度の出席日数は確保し、あとは気が向かない朝は学校をサボった。途中から授業に出て途中で帰ったこともあった。あれだけ楽しみにしていた学校行事も全て休んだ。
家にいる間は特に何もすることがなかった。本も読まず、漫画にもアニメにも興味がなかった私は、友達を失ったことで初めて自分に趣味というものが無いことに気づいた。
抜け殻のようになった私が唯一、必死に取り組んだのが勉強だった。
学校をサボってなんとなく立ち寄った書店で急に思い立ち、片っ端から教材を買い込んで自主学習を始めた。一切真面目に勉強をしたことがなかった過去の自分を、少しでも今の私で上書きしたいと思った。
それまでは難しいと思っていた高校の授業も、次第に理解できるようになっていった。テストでは見たこともなかったような高得点を取ることもできたが、特に喜びはなかった。喜びも悲しみも感じない、つまらない人間になってしまっていた。
夏休みの三者面談では、テストの成績が良くなったことについては褒められたものの、学校をサボりがちな所についての注意の方が多かった。先生の話を適当に聞き流す私の横で、母はひたすら「すみません」と繰り返していた。
謝らなくてもいいのに。
悪いのは私だから。
そう思っていたけど、言葉にすることはなかった。
そして、私の進路についての話題も挙がった。その時の私は、過去を思い出したくなければ、先に待つ未来のことも考えたくない、過去と未来の狭間で逃げ道を失っているような状態だった。とりあえず調査書には『大学進学』と書いていたが、具体的にどこの大学を受けるということは何も決めていなかった。なんとなく、最も現実的な選択肢な気がしただけ。そんな私に先生は「いい加減、決めないとまずいぞ。もう遅いくらいだ」と呆れながら言った。それを聞いた母がまた「すみません」と呟く。そんな母を気遣ってか、先生は母に話を振った。
「お母さんは、何か希望があったりしますか?どこの大学に行って欲しいとか、どんな職業に就いてほしいとか」
「いえ、特には......引きこもりになったりしなければ、どうなってくれてもいいんです」
先生は「そうですか......」と言って、しばらく黙ってしまった。何か言いたそうに見えたが、言葉を飲み込んだのだろう。確かに母の言葉は冷たいような、いい加減な言い方に聞こえたかもしれないが、その時の私にとっては居心地がよかった。期待されていない分、プレッシャーもなかった。
先生は手元に置かれた資料をまとめながらこう言った。
「大学進学を目指すのは分かりました。あとは、なるべく早く志望校を決めるように。何も、県内に絞らなくてもいい。大事な選択だから、視野を広げて。適当に選ばないように」
三者面談を終えて学校を出た。車で来ていた母と別れ、一人で駅まで歩いた。その道中、先生の一言について考えていた。
「何も、県内に絞らなくてもいい」
それまで考えたこともなかったが、地元を離れて大学に通うというのは、自分にとって最良の選択肢である気がしていた。生まれたときからずっと暮らしてきた家を出れば、何かが変わるのではないかと思った。
そうすれば、新しいスタートを切れると思った。
家に帰った私は、両親に相談した。詳しい理由も言わずに「ここを離れたい」とだけ繰り返す私に、両親はすっかり困り果てていた。そして両親に追い打ちをかけたのは、私が「自分だけで勉強する」と言い張ったことだ。大学受験をする人のほとんどは、予備校や塾に通っているだろう。夏休みに入ってから受験勉強を始めるというだけで十分に遅れを取っているにも関わらず、私はどこにも通わずに一人で勉強したいと思っていた。理由は単純で、新しい環境に飛び込むのが面倒だっただけだ。高校に行くことさえ億劫に感じている中で、新たに予備校に通う気にはならなかった。
「現実的じゃないぞ」
「無謀すぎる」
「今から入れる予備校を探せばいいじゃない」
「お前の今後が懸かってるんだ」
両親は様々な言葉を私の名前に並べて説得を試みていた。それでも私は頑なに自分の考えを曲げなかった。その日のうちには結論は出ず、何日もかけて話し合いをした。その結果、両親は半ば呆れるような形で私の考えを認めてくれた。確実に納得はしていなかったと思うが、どれだけ説得をしても無駄だと判断したのだろう。
それから私は必死に勉強をした。ここから出たい。その一心で。
*********
新しい春がやってきた。
私は、東京の大学を三校受験した。両親と高校の先生から「地元の大学も受けておけ」と強く言われ、仕方なく地元の大学も二校受験した。地元から出たい一心で受験勉強に励んでいた私だったが、皮肉なことに地元の大学にだけ受かってしまった。両親は喜び、先生からは「半年の自主勉強だけで大学に受かるのは凄い」と褒められたりもしたが、私の気分は全く晴れなかった。
再び私は両親との交渉に臨んだ。「東京に行って浪人生活を送りたい」と主張したのだが、両親は前回の交渉よりも更に渋い顔をしていた。結局、私は「地元に残って予備校に通う」という両親からの条件を飲み、浪人生活を送ることを許された。
私はなるべく知り合いと顔を合わせないよう、家から遠い場所にある予備校に通いながら猛勉強した。この期間については、どんな出来事があったのかほとんど覚えていない。それだけ、ひたすら勉強だけに集中していた。その結果、無事に東京の大学に合格することができたのだった。
その結果に両親はようやく安堵したような表情を浮かべてくれて、母は涙を浮かべていた。
私はそれまで、何かに一生懸命になることがなかった。周囲の人間が部活や恋愛に夢中になっていく中で、成長できなかった私は取り残されていた。そんな私を見てきた母は、娘が努力を積み重ねて東京の大学に合格したことに安心したのだと思う。そんな母を見て私も久しぶりに「嬉しい」という感情を抱きつつも、努力を重ねた理由が「とにかく地元を出たい」という不純な動機だということに申し訳なさも覚えた。それでも、この一年間の経験は、きっと私のこれからの人生に役立つはずだ。そう自分に信じ込ませ、私は地元から離れたのだった。
念願のひとり暮らしを始めた私の中に、目標を達成したことによる達成感が徐々に薄れていくと同時に、これから新たに四年間の大学生活を送るということに対する絶望感が芽生えだしていた。とにかく、四年で大学を卒業できればいい。そんな漠然とした思いだけを抱いて、新たな生活をスタートさせた。
これまでの私とは違う。
もう友達なんて作らず、一人だけで生きていくんだ。
そんな決意がようやく固まりかけていた私の目の前に、柊が現れたのだった。
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