あの私はもういない 前編(悠夏パート・過去⑤)

 高校の修学旅行で「女の子を好きになった」という悩みを打ち明けてからも、朱里あかりはそれまでと何も変わらずに接してくれていた。もちろん悩みが消えたわけではなかったけど、朱里に一度悩みを打ち明けただけでも気持ちはかなり楽になっていた。


 違う高校でソフトボール部に所属していた湊美みなみは、先輩が引退してから部長に選ばれたらしく、最後の大会に向けての猛練習で忙しいようだった。そのことを聞かされていたから無駄に連絡をするのも気が引けて、次第に湊美とのやり取りは減っていった。


 三年生になると朱里とはクラスが別になり、さらに受験勉強などが重なったことで、放課後に無邪気に遊ぶ暇もなくなってしまった。それでも、お昼休みには私のクラスまで来て一緒に昼食を食べてくれた。同じクラスにもなんとなく話が合う人ができて、目指す進路が何も決まっていないこと以外は順調なスタートを切ることができたと思っていた。


 異変に気がついたのは、新学期が始まってから二週間ほどが過ぎた頃だった。教室に入るといつも「おはよう」と言ってくれていた女子三人組が、私の方をちらりと見ただけで何も言ってくれなかった。少し違和感を覚えつつも私から「おはよう」と声をかけると、いつもよりもぎこちない雰囲気で「おはよう」と返してくれた。どうしたんだろう。三人の様子が気になりながらも、私は自分の席に着いた。


 その異変は朝だけでは終わらなかった。彼女たちとは教室を移動するときも一緒に喋っていたのに、その日は三人だけでさっさと教室から出て行ってしまい、私は一人取り残されてしまった。もしかして私、何か怒らせることでもしちゃったかな。そんなことを思いながらも、三人に直接訊くことはできなかった。朱里と二人でご飯を食べているときも、その三人から見られているような気がした。私が三人の方を見ると、さっと目を逸らされる。

 

 次の日から、その違和感は徐々に教室全体に広がっていった。私に向けられる視線が増えている気がした。


 明らかに何かがおかしかった。


 そして、ある日の放課後。決定的な出来事が起こった。


 その日は、朝から雨が降り続けていた。進路希望調査のアンケートに「未定」と書いたことで、放課後に担任の先生から軽くお叱りを受けた帰り。学校の出口でひとり靴を履き替えていると、シューズロッカーを隔てた向こう側から知らない男子の会話が聞こえてきた。同じ三年生だったとは思うけど、声に聞き覚えはなかった。気にせずにそのまま帰ろうとした瞬間。


「隣のクラスのまゆずみ悠夏っていう女子、知ってるか?」

「ああ、一年のとき同じクラスだった」


思わず足を止めた。まさか私の名前が出るとは思わなかったからだ。


「黛の噂、聞いたか?」

「噂?いや、聞いてない。なんだよ」

「あのさ......あいつ、レズビアンらしいぜ」

「え、マジ?」


二人の笑い声が響く。



目の前が真っ白になった。



*********



 雨の降る夜。私は駅前で傘を差しながら立っていた。時間になると、目の前の予備校の中から生徒が大勢出てきて、次から次へと傘を広げていく。その中から目的の人を見つけ出した私は、雨に濡れるのも厭わずに走った。


「朱里」

「え?悠夏?何してるの、こんな所で」

「ちょっと来て」


傘を持つ朱里の左腕を引っ張りながら、予備校の入口から離れた。


「ちょ、ちょっと待ってよ。傘、危ないから」


朱里はなんとか傘をまっすぐさそうと苦戦しているようだったけど、私はお構いなしに朱里を引っ張った。


「待ってよ!」


背後から聞こえた朱里の大きな声に、私はようやく足を止めた。朱里から手を離して、ゆっくり振り向いた。少し走ったから、息が荒くなっていた。朱里は驚きながら、全く状況を理解できていないという顔をしていた。でもそれは、今になって振り返ってみて分かることだ。その時の私は、朱里がどう思っているかなんて全く考えていなかった。


「どうしたの?おかしいよ」

「......話した?」

「話したって、なにを?」

「私のこと」

「え?」

「私が、女の子のを好きになったこと。他の誰かに話した?」


朱里が一瞬、言葉に詰まったように感じた。その後すぐに「話さないよ」と笑った。でもその時の私は、たったそれだけでは納得できなかった。


「私は、朱里にしか話してないって言ったよね?」

「う、うん。だから私も誰にも話してないよ」


優しい声で言う朱里。その優しい声が、私の心をさらに不安定にさせた。強くなっていく雨音に釣られるように、私の声も大きくなっていく。


「さっき......学校で聞こえてきたの。知らない男子の話が。私のことを話してた」

「......悠夏の話?」

「私がレズビアンなんだって」


「......え?」

「私がレズビアンだって話してた。『あいつの噂、聞いたか?』って笑ってたよ。おかしいと思ってたんだ。教室で、やたらみんなに見られてるし。仲良かった子たちが急によそよそしくなるし。私、そんなこと誰にも話してないのに。そんな噂が広がってるんだよ」


朱里は下を向いたまま、何も言わなかった。


「一回だけ。修学旅行で朱里に相談した時だけだよ。女の子を好きになっちゃったって話したのは朱里だけ。それなのに、『黛悠夏はレズビアンだ』っていう噂が広がってるんだよ」


朱里は微動だにしていなかった。


「もう一回訊くよ。私の秘密を、他の誰かに話した?」


もう一度最初の質問をぶつけると、朱里は小さく震える息を吐きだした。


「......ごめん」

「ごめんって、なに?」

「......話しちゃった。悠夏の秘密」


自分の体から力が抜けていくのがわかった。傘を持っていた右手が勝手に下がってしまっても、雨が降っていることなんて全く意識から外れていた。


朱里が私の秘密を他の人に話した。噂が広がった原因はそれしか考えられなかったから予備校まで来た。それでも、いざ本人の口から聞かされると愕然としてしまった。


「......ごめんね」

「ごめん、じゃないよ!どうして話したの?誰にも話さないでって言ったのに!」

「助けてあげたかったの!」


朱里が顔を上げると同時に、それまで聞いたことがなかったほどの大きな声を上げた。


「修学旅行の夜に、悩みを打ち明ける悠夏が辛そうだったから。少しでも力になりたかったの。しばらくしてから、海斗と秀太に訊かれたの。『どうして悠夏は学食に来なくなったんだ』って。二人も悠夏のこと心配してるなら、みんなで悠夏を支えてあげられるかもしれないって。だから......二人に話した。確かにびっくりしてたけど、それから何も言われなかったから、私と同じでそれは二人にとっても何も問題がないことなんだと思った。私と同じで、そんなことで悠夏を見る目が変わったりしないんだって安心してた......まさか二人が他の人に話すなんて思わなかった」


「他の誰にも知られたくなかったことなの!」


そう声を上げた拍子に、自分の目から涙が溢れ出すのを感じた。


「ただ私は朱里に相談したかった。それだけなの!他の人の協力なんていらない。支えてもらいたいなんて思ってない。朱里が『なんでも相談して』って言ってくれたから相談した。それも、すごく勇気が必要だったんだよ。でも朱里になら話してもいいって思ったから。約束したでしょ?誰にも話さないって。朱里も分かったって言ったのに!」


「そうだけど......」


「自分でも、初めて好きになった人がたまたま女の子だっただけなのか、それとも女の子しか好きになれないのか分からない。だけど、もし女の子しか好きになれなかったとしても、そんな自分を少しずつ受け入れていけたらいいなって。朱里に相談してそう思えたんだよ。それなのに朱里に裏切られて......」


「裏切ったつもりはなかったの。それは分かってほしい。悠夏のためを思ってしたことなの......」

「離して!」


私の手を握ろうとした朱里の手を振り払ったその勢いで、もう片方の手で握っていた朱里の傘が落ちてしまった。


「......親友だと思ってたのに」

「親友だよ。私は、ずっと悠夏の親友」


朱里の声が震えているのがわかった。だけど、そんなことでは私の心が揺れ動くことはなかった。私の目の前で泣いているその人はもはや、それまでの朱里と別人のようにすら感じた。


「約束を守らない自分勝手な人は、親友なんかじゃない」


私はその人に背を向け、雨音だけが聞こえる中を歩いて帰った。



*********



 次の日、私は熱を出して学校を休んだ。そのせいか、朱里と別れてからどうやって家まで帰ったのか覚えていない。玄関に私の傘が無かったことから考えると、きっとどこかに傘を置いたまま帰ってきたのだろう。風邪を引くのも当然だ。体調は二日程度で回復したが、それからも学校に行く気にはなれなかった。コンビニのバイトも休み続け、このままではクビになるだろうと思って自ら辞めた。


 小学生の頃から私は学校という場所を楽しんでいたから、長く学校を休むということが初めてだった。そんな私を両親は心配していたようだけど、深く事情を探ろうとはしてこなかった。それでも次第に母が「出席日数とか大丈夫なの?」と言ってくるようになったこともあり、私は三週間ぶりに制服を着て家を出た。


 いつも乗っていた電車の時間に合わせて駅へ向かった。改札を通ってホームまで降りると、ものすごい数の人が同じ方向を向いて並んでいる光景が目に入った。それまでは当たり前の光景だったはずなのに、三週間ぶりに駅に来た私の目には異様に映った。私はその中に飛び込む気にはなれず、再び通学定期を改札にかざして外へ出た。


 しばらく近くのコンビニで時間を潰してからもう一度駅に向かうと、ホームに溢れていた人たちは見事に姿を消していて、一気に騒々しさが消え失せていた。あれだけの人数が一気に乗り込んだ状態で走っている電車を想像して、少し気分が悪くなったのを覚えている。


 久しぶりの学校へ到着すると、既に一時間目の授業も終わりに近づいている頃だった。不快な緊張を静めるために深呼吸をしてから教室のドアを開けると、クラスメイトと先生の視線が一気に私に注がれた。すぐに引き返したくなるほど圧倒されてしまったが、踏み留まって先生の所まで向かった。


「名前は?」

「黛です」

「どうしたんだ?」

「......電車に乗り遅れました」

「わかった」


先生は出席簿にボールペンで何かを書くと、「座って」とだけ呟いた。言われた通りに自分の席に向かおうとしたときに気がついた。前まで私が座っていた席に、知らない男子が座っている。一瞬理解ができなかったが、どうやら私が休んでいる間に席替えが行われたようだった。


「先生」

「どうした」

「私の席は......どこですか」

「名前、なんだっけ?」

「......黛です」


名字をすぐに覚えてもらえないこと自体には慣れていたが、クラスメイトからの痛い視線から早く逃れたかった私は、自分の名前に不快感を混ぜて答えた。先生はそんなことは全く気にせずに、教卓の上に置かれた座席表をじっと眺めた。

 

「ああ、あそこだ」


先生がチョークで指した方を見ると、窓際の一番後ろに空席があった。きっと私がしばらく学校に来ないと思って、教室の端に私の座席を配置したのだろう。私は先生に小さくお礼を言って、その席に座った。


 何事もなかったように授業が再開されたところで、ようやくその授業が数学だということに気がついた。黒板に書いてある内容は三週間も休んだ私には全く理解できず、奇妙な記号が羅列されているようにしか見えない。一応教科書とノートを机に広げてみたものの、先生の話を聞く気にはなれなかった。クラスメイトは揃って黒板の方を向いてはいたが、どうしても自分に注目が集まっている気がしてならなかった。実際、例の女子三人組は何度か私の方を振り向いてきた。


 教室という場所に息苦しさを感じたのは初めてだった。やっぱり来なきゃよかったかな。後悔しながら、私は窓の外に目をやった。自分の席を窓際にしてくれていたのは助かった。窓の外に視線を移すとクラスメイトも黒板も目に入らなくなり、多少は気が紛れた。


 結局、その日は最後の授業まで同じように過ごした。一度だけ先生に注意されたが、私は構わず窓の外を見続けた。同じ方向へ流れ続ける雲を眺めるだけで一日が終わった。当然、昼休みに昼食を持った朱里がやってくることもなかった。


 教室の隅の席でたった一人、窓の外に視線を向けている自分の姿が、その窓に反射して視界に飛び込んできた。その姿に中学時代の香月さんの姿が重なり、窓の外で広がる青空と相反するように私の感情は淀んでいった。


 一年生の頃から分け隔てなく誰にでも明るく接していたことが仇となったのか、私の噂はかなり広がっていたようだった。廊下を歩く度に誰かが私を見ながらコソコソと話をするのを感じた。その雰囲気から逃れるために、次第に廊下を歩くときは下を向きながら歩くようになった。

 

 それからの私の高校生活は、ほとんど同じような毎日の繰り返しだった。教室で誰かと話すことはなく、常に一人で過ごした。朱里とは話さないどころか、見かけることすらなかった。きっと、私が下を向きながら歩いていたからだろう。朱里も私を避けていたのだと思う。私の中に残る朱里の記憶は、雨の中で泣いている姿から更新されないままだ。

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