人の気も知らずに 後編(悠夏パート・現在⑥)
どれくらいの時間が経っただろうか。柊が部屋を出て行ってから、私は一度もベッドの上から降りていない。ひとり残された部屋で、あの日のことが頭に浮かんでいた。
中学校の夏休みが明けた放課後。柊が教室から飛び出して行ってから、私は何もできなかった。今の私と同じように。結局、次に柊と会話をしたのは高校に入ってからだった。
柊との関係を崩したくない。後悔したくない。だから、私の想いは胸の奥にしまったままにする。そのことを意識しすぎたせいで、柊を怒らせてしまったかもしれない。あの日だって、私はただ柊と友達になりたかっただけだった。その気持ちを真っすぐ言葉にできなかったせいで、柊は私から離れていってしまった。
結局、私は同じことを繰り返してしまう。
高校の頃の出来事を経て、友達なんていらないと思っていた私に寄り添ってくれた柊。その柊までも私は簡単に手放してしまうのか。
ただ、あの日と違うことがひとつある。
柊はきっと、この部屋に戻って来てくれる。
その時に、私はどうする?
部屋の入口のドアが開く音が聞こえた。浴衣姿になった柊が無言で部屋の中へ入ってくる。私の方を向くこともなく、荷物を整理し始めている。
やっぱり、怒ってるかな......
ここで、柊が声をかけてくれるのを待っていてはダメだ。
それでは、あの頃と同じだ。
これ以上、同じことは繰り返せない。
変わらなくちゃ。
「......柊」
ようやくベッドから降りて、背中越しに名前を呼んだ。
「......なに?」
柊は手を止めて、こちらを向いてくれた。部屋を出て行く前よりも、メイクが薄くなっている。薄いメイクでも十分に柊は綺麗だけど、その顔があの頃の柊を更に思い出させた。
「......さっきは、ごめんなさい」
「さっきって?」
「一緒にお風呂に入ろうって言ってくれたのに......」
「うん」
「なのに、私が嫌だって言っちゃったから」
「うん。言ってた」
柊の表情は変わらない。それでも、逃げては始まらない。しっかり柊の目を見て話し続ける。
「それは、柊と一緒に入るのが嫌なんじゃなくて。その......」
「なに?」
「ただ恥ずかしかっただけなの。本当に、ただそれだけなの。温泉があるって知らなくて、一緒に入ろうって言われてびっくりしちゃった」
「......そっか」
「それで、つい大きい声で嫌だって言っちゃった......私が旅行に誘って、せっかく柊がこのホテルを見つけてくれたのに。嫌な思いさせちゃったかなと思って。ごめんなさい」
柊は少し視線を下に向けた後、こう言った。
「いや、私の方こそ。ごめん」
大きなソファーの端に腰掛けて、自分の隣をポンポンと叩く柊。
「おいで」
「......うん」
今度は勘違いじゃないよね。少しだけ距離を開けて、柊の隣に座った。それを確認した柊の表情は、少しだけ緩んだように見えた。そして、少し俯いて話し始めた。
「まさか嫌だって言われると思わなくて、私もびっくりしちゃった。ただ恥ずかしがってるだけだろうなって分かってたんだけど、想像以上に大きい声で嫌だって言われて、少しショックだったんだ。怒ってはいないよ。その......ただ、ちょっと拗ねてただけ。それで、つい冷たい態度を......ごめんね」
「い、いや」
「私ね、一人でお風呂に入りながら考えてたんだ。あの日と同じだなって。私が怒鳴って、教室から出て行ったあの日」
柊も私と同じことを考えていたことが分かり、嬉しいような恥ずかしいような不思議な気持ちになる。
「今日は悠夏が大きい声を出した方だったけど」
「そ、そうだね」
私が気まずそうに反応したのを見て、柊はフッと笑った。
「私、高校で初めて友達ができたでしょ?その時に考えてたことを思い出した。あの日、私は心のどこかで悠夏に期待してたんだなって。柊と......いや、香月さんか。『香月さんと友達になりたい』って言ってくれるんじゃないかって。私に話しかけてくれる悠夏に対して、友達になりたいっていう気持ちがあったんだと思う。だから、あの教室で訊いたんだよ。『どうして私に話しかけてくるの?』って」
「うん......」
「でも、『香月さんが寂しそうに見えた』って言われたから。思ってた答えと違って、つい大きな声を出しちゃったんだ」
「そうだったんだ......」
「バカだよね。勝手に期待して、勝手に怒って」
「そ、そんなことないよ」
「そんなことある。その後、電車で悠夏と話せるようになったのは嬉しかったんだけど、やっぱりあの日の後悔が残ってたんだよ。あの時、もし教室を飛び出していなかったら、あの時から悠夏と友達になれてたのかなとか。お風呂に入りながらそんなことを思い出してた。今の私たちなら、たったこれくらいのことで悠夏と仲違いするとは思わないけど。でも、もう後悔はしたくないから。だから部屋に帰ったらすぐに謝ろうと思ったんだけど、なんか言い出せなくて。そうしたら......」
柊は少し唇を内側に巻き込んで、下を向いた。そして、私の左手に右手を重ねた。一瞬びっくりしたけど、もう手を引っ込めることはしない。
「悠夏の方から話しかけてくれたね」
顔を上げて、にっこりと笑った。その顔を見て、少しほっとする。
「あ、やっと笑った」
「......うん」
「ありがとうね。嬉しかった」
そう言うと、柊はふうっと息を吐いてから立ち上がった。
「よし、この話は終わり!ご飯の時間だよ」
「そ、そうだね」
私も釣られて立ち上がる。
「私、ここに戻ってくる途中でホテルの人に聞いてきたんだ。レストランは浴衣で来ちゃいけないんだって。だから、また着替えなきゃ。メイクもしないと。だから、少し待ってて」
「うん。わかった」
よし、と言ってその場で浴衣を脱ごうとする柊から逃げるようにソファーから離れ、とりあえず洗面台の鏡に自分の顔を映して身だしなみを確認した。
危ない、髪の毛がボサボサだった。
......眼も少し赤いかな。
*********
「ただいま......あれ?」
部屋に入ると、電気が消えていた。暗闇から、柊の声が聞こえてきた。
「おかえり。どうだった?夜の海を見ながら浸かる温泉は」
「気持ちよかったけど。なんで暗いの?」
「花火がよく見えるように」
「ああ、なるほど」
レストランでの夕食を終えた私は、花火が始まるまでの時間を使って温泉に入った。幸い、大浴場には私以外に誰もおらず、ゆっくり温泉を楽しむことができた。明るい陽の下で見る海とは違って、夜の海には辺りの建物の明かりがうっすらと反射して揺れていた。それはずっと見ていられるくらい綺麗だったけど、花火の時間が迫っていることに気づいて急いで戻って来た。
「ほら見て。人がいっぱいいるよ」
目が暗さに慣れてくると、柊が窓のそばのイスに座って手招きしている影が見えた。私も近づいて下を覗くと、砂浜に多くの人が集まっていた。
「ほんとだ。きっと先週とかはもっと多かったんだろうね」
「かもね。この人たちの上から見るのって、なんか優越感がある」
「そう?」
「なんかコンサートとかでも、関係者席は二階席とか三階席にあるイメージない?」
「まあ、わからなくはないけど」
「この特等席は私からの誕生日プレゼントだよ。ほら、座って」
私がイスに座ると同時に、ドンという音が外から聞こえた。そして白い花火がパッと広がった。
「始まった」
「そうだね」
その白い花火を皮切りに、次から次へと花火が打ち上がっていく。ひとつの大きな花火や、たくさんの小さい花火。休むことなく、音と光が繰り返されていく。少し窓の方に近づいて下を見ると、海面にその花火が反射しているのが分かる。まるで鏡の世界が広がっているかのように、下に向かって開いた花火の残骸が、海面に向かってゆっくり上がっていく。
隣では、花火を見つめる柊の顔がカラフルに照らされている。私がその綺麗な横顔をどれだけ見つめていても、当の本人は花火に夢中で気づいていないみたいだ。じっと柊を見つめながら私は、今日の午後に見た夢のことを思い出していた。
あの夢の中で私たちは......おそらく恋人同士だった。
自分が柊に対して抱く気持ちは当然理解していたし、最近になって、その気持ちを忘れなくてもいいと思えるようにもなった。もう会うことはないと思っていた好きな人が、私と一緒にいてくれる。一緒に遊んで、一緒にご飯を食べて、私の誕生日に一緒に旅行までしてくれる。こんなに幸せなことはないと思っているから。これ以上、柊に求めるものはない。
それなのに今日、あんな夢を見てしまった。初めて、柊との関係の先をイメージしてしまった。これは一体、どういうことなんだろう。
私は、「その先」に行きたいのかな。
「その先」では、柊も私を想ってくれているのだろうか。「その先」が実現したら、今以上の幸せが待っているのだろうか。
でも、私が柊を「その先」に連れて行こうとして柊に拒まれたら。
もう友達には戻れないだろうな。
柊が私と一緒に「その先」まで来てくれたとしても。
やっぱり友達には戻れないだろうな。
私が柊に「その先」を求めるのは、リスクが大きすぎる。
私の一番の願いは、柊といつまでも一緒にいることだ。その願いを叶えるためには、「その先」を意識してはいけないんだ。
「綺麗だったね......どうしたの?」
柊のことを考えていたら、いつの間にか花火は終わりを迎えていた。いきなりこちらを向いた柊と、暗い部屋の中で視線がぶつかった気がした。柊も、自分に視線が向いていることに気づいたようだ。
「いや、なんでもない......綺麗だった」
「よかった。明かりつけようか」
柊が部屋の照明のスイッチを入れると、部屋が一気に明るくなった。ほんの少し前まで綺麗な花火が見えていた窓には、浴衣を着た私たちが映っている。客観的に自分たちを見て気恥ずかしくなった私は、カーテンを閉めてからベッドに向かった。私がベッドの上に座ったのを見て、柊も隣のベッドにゆっくり上がった。そして私の方を振り返り「ひとつ訊いていい?」と言ってきた。
「うん。なに?」
「今日の夕方、どんな夢を見てたの?」
ドキッとした。ついさっき、花火を無視しながらずっと考えていたから。まるで私が考えていることが見透かされているかのようだ。
「な、なんで?」
「悠夏を起こそうと思って名前を呼んだら、唸りながら『柊、ちょっと待って』って言ってたから」
「......わたしが?」
「そう。わたしが。ねえ、どんな夢だったの?」
まさか、夢の中で言った言葉が寝言になっていたとは......名前を呼んでしまったみたいだから、柊の夢を見ていたということは既にバレている。どうやってごまかそうか。
「えっと......柊が遠くに行っちゃう夢......みたいな」
「遠くに行っちゃう?」
うん。意味わからないよね。
「遠くに行っちゃうというか、私から離れていっちゃうというか」
「わたしが?」
「......わたしが」
「ふーん」
「なんか、こう......もう友達に戻れないんじゃないかっていう感じで」
これは、ある意味本当。
「私たちが?」
「うん。だから......起きたあと、柊を怒らせちゃったのが怖くて。不安だった」
これも、本当といえば本当。
「そっか。大丈夫だよ。私は離れないから」
「......ありがとう。私も離れたくない」
「大丈夫。わかってるから」
柔らかくて優しい声で、柊はそう言ってくれた。そう思ってくれているのは嬉しい。でも私は、自分の口から出た「私も離れたくない」という言葉に引っ掛かった。
柊から「離れたくない」のは確かだ。
でも、柊が言ってくれたように「離れない」とは言えなかった。
それに気がついた途端、頭の中に忘れようとしていた記憶が蘇ってきた。
私の記憶から消したくても消えない過去。
きっとこの過去が原因。
柊に対する想いとは別のものだけど、あの頃の私も友達に対してはっきり「離れたくない」と思っていたし、「離れない」と思っていた。
だけど私は、友達から離れた。自らその道を選んだ。
そうだ。それが怖かったから、もう友達なんていらないと思っていたんだ。
「どうしたの?」
私の異変に気づいたのか、柊が心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「いや......うん。大丈夫」
「本当?」
柊は自分のベッドを降り、私の隣まで来てくれた。
「疲れちゃった?」
「疲れた......のかな。そうかも」
大丈夫だよ、と笑いたいけど。
気持ちがついてこない。
大丈夫だよ。
大丈夫だから......
「大丈夫......じゃないかもしれない」
気づいたときには、そう口走っていた。
「え?」
「ごめん。面倒くさいよね、私。でも......大丈夫じゃないかも」
言葉にしてようやくわかった。
今の私は全然大丈夫じゃない。
この過去を閉じ込めているままでは、いつまでも大丈夫じゃない。
このことは誰にも話さないつもりだったけど。
柊になら、話せるかもしれない。
じゃあ、どうする?
「柊......」
「どうしたの?」
「前に言ったよね?東京に来たとき、もう友達なんていらないと思ってたって」
「......うん」
「そう思うようになった理由......聞いてくれる?」
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