人の気も知らずに 前編(悠夏パート・現在⑥)
フロントでチェックインの手続きを済ませ、エレベーターに乗り込んだ。柊が受け取った部屋のカードキーを確認すると、どうやら私たちが泊まる部屋は最上階にあるようだった。これは予約した張本人の柊も知らなかったらしく、エレベーター内にある案内を見て私以上に驚いていた。
エレベーターから降り、独特の静けさが漂う廊下を歩いて行く。その雰囲気に呑まれて、二人とも慎重な足取りになってしまう。カードキーと同じ番号が書かれた部屋の前に立った柊が、キーを差し込んでから扉を開けた。ゆっくり中へ入っていく柊に続いて部屋に足を踏み入れると、そこには予想以上の光景が広がっていた。
ウッド調のデザインで清潔感のある部屋。二人で寝転んでも余裕がありそうなほど大きなソファーに、大画面のテレビ。部屋の中に置かれた二台の洗面台が、オシャレなライトに照らされている。中央に構える二台のベッドからは、大きな窓越しに海が見渡せるようになっていた。
「すごいね......」
「そうだね......」
ひと言ずつ感想を口にしただけで、二人そろって立ち尽くしたまま部屋全体を眺めていた。しばらく経ってから、入り口のドアすら閉めていなかったことに気づいたほどだ。
なんとか落ち着きを取り戻した私たちはソファーの近くに荷物を置いて、窓辺まで近づいた。下の浜辺から見たときよりも、さらに遠くまで海が続いているのが分かる。もちろん海とはそういうもので、どこまでも続いているのは当然なのだが、この部屋から見渡せる光景から、その事実に改めて圧倒される。
「花火、よく見えそうだね」
大きな窓を指でコツコツと叩きながら、柊が言った。
「うん。特等席だね」
そう言ってから、私も柊の真似をして窓を指で突いてみる。
「花火って何時からだろう。夜ごはんの時間と重なってないかな」
「花火は八時半からだったかな。夜ご飯は六時半からだから、たぶん大丈夫だと思うよ」
「そっか。それまで何しようか」
「コンビニとか行く?悠夏は二十歳になったんだし、お酒でも買ってくる?」
「い、いいよ。なんか私だけお酒飲むのは申し訳ない。酔っぱらった自分がどうなるのかも分からないし」
「なーんだ。酔っぱらった悠夏、見たかったな」
そう言った柊はしばらく考えた後、「とりあえず横になりますか」と言ってから、ベッドに向かって勢いよく飛び込んだ。それから仰向けになり、微かに声が混ざった深い息を天井に向けて吐き出した。朝からずっと歩き回り、疲れが溜まっているんだろうな。
「悠夏もおいでよ」
そう言って柊は自分が寝ているベッドをポンポンと叩いた。
いや、それはさすがに......
確かに柊の横には私が並んで横になれるくらいのスペースは空いているけれど。
近すぎませんかね......
「い、いいよ」
「悠夏も疲れてるでしょ?ひと休みしなよ」
ベッドの上から柊が手招きしてくる。
......柊がそう言うなら。
「......じゃあ」
柊が寝ているベッドまで近づき、そっと柊の隣で仰向けになった。
今までで一番、柊と近づいている。
柊の呼吸を間近に感じる。
「ねえ、悠夏」
柊が私を呼ぶ声が、左耳に直接飛び込んできた。
ゆっくり顔を左に向けると、こちらを向いていた柊とばっちり目があってしまった。
私の方が少し背が高いから、同じ位置で目が合うことはあまりない。
それに加えて、この距離。
恥ずかしくなって目を逸らそうとするけど、柊の瞳に吸い込まれるように視線は釘付けになってしまう。
私の胸の奥で、柊への想いが跳ね上がるのを感じた。
私が柊のことを好きになったのは、その人間性に惹かれた部分も大きいけれど。
でもやっぱり......かわいいな。
「おーい、悠夏」
ぼんやりとしたままの私を心配したのか、柊は私の頬を触りながら名前を呼んだ。
不意に触れられて、思わず体がこわばってしまった。
「んっ、ちょっと」
「大丈夫?」
「だ、大丈夫。なに?」
「あのさ......」
「なんで私の隣なの?」
......え?
「ベッド2台あるんだからさ。わざわざ二人で一緒に寝なくても」
「......あっ」
自分の顔がどんどん熱くなっていくのを感じる。
悠夏もおいでよ、と言われて。
おまけに手招きされたから。
勘違いしてしまった。
「いや、えっと......冗談だよ。冗談」
苦し紛れの言い訳をその場に残し、急いで隣のベッドに転がり込んだ。恥ずかしさのあまり、柊の方を向くことができない。柊に背中を向けて、ベッドの端で横向きに寝転ぶ。
「変なの。一緒に寝たいなら別にいいけど?」
「......いや、いい」
私の言い訳はやはり通用しなかったようで、クスクスと柊の笑い声が聞こえてきた。
私の体中に恥ずかしさが充満していく中で、ふと思う。
私が勘違いしたのは、柊にも原因があるんじゃないかな?
最近、柊の方から距離を詰めてくることが多い。初めて手を繋いだときも、柊の方から手を握られた。それからも手を繋ぐときは、先に柊の方が私の手を取ることが多い。私から手を繋ぎたいと言ったのは、今日を合わせてほんの数回だけ。それも、精一杯の勇気を振り絞って。
そんな私と違って柊は、簡単に手を握ってくる。それはきっと「手を繋ぐ」という行為の重要性が、私と柊で決定的に違っているからだと思う。
あくまで柊にとっては友情の証。でも私には、好きな人と触れ合うという特別な時間。
そんな時間をいつも柊の方から与えてくれる。普段からそうだから、つい同じベッドに誘われたと勘違いしてしまった。
人の気も知らずに、柊が特別をくれるから。
まあ、私が想いを打ち明けていないのだから知らなくて当然だけど。かと言って、「柊のことが好きだから、簡単に手を繋がないで」なんて言えるはずもない。
私が想いを柊に打ち明けることはない。
「特別な友達」でいてくれるだけで、十分幸せだから。
この関係が崩れるようなことはしたくないから。
由香里さんに言われたように、後悔はしたくないから。
改めて自分の気持ちを確認した私は、顔の火照りを落ち着かせるために目を閉じて、ゆっくり深呼吸をした。
*********
どこまでも広がっている海を前に、いつの間にか私は柊と手を繋いでいる。周りを見ても、私たち以外には誰もいない。私の左頬にぶつかった風が、柊の方へすり抜けていく。ただそれだけの場所で、私と柊は手を繋いでいる。
「私たち、これからどうしようか?」
緩やかな波を打つ海を見つめたまま、柊が呟いた。
「えっと......散歩とか?」
「散歩?」
「うん。砂浜の上を。でも、お昼前にも歩いたね。もう少し遠くまで行ってみる?」
私のその提案を聞いた柊は、こちらを見てニッコリと笑った。私より少し低い位置から向けられるその笑顔に、今度は私が海の方へ視線を逸らしてしまう。
「そうじゃなくてさ。私たちのこれからだよ」
「......どういうこと?」
すると柊は「ほら」と言いながら私の手を引いて歩き出した。されるがままについて行くと、そこには見覚えのある石碑があった。反射的に柊と繋がった左手を引っ込めようとするけど、柊はぎゅっと力を入れて逃がしてくれない。
「ちょ、ちょっと」
「どうしたの?」
「ほら、さっきも言ったけど、ここで手を繋ぐのは......」
「もう大丈夫だよ。ずっと繋いでいようよ」
「でも......」
「ここは私たちの聖地なんだから」
「......え?」
柊は、空いている左手で石碑に書かれた文字をそっとなぞった。
『恋人の聖地』
そしてそのまま、石碑の上に掘られた二つの手形の片側に左手を乗せた。
「ほら、悠夏も」
「そ、それは......」
「恥ずかしがってないで。ほら」
柊に真っすぐと見つめられた後、気がつけば私も空いている右手を手形に乗せていた。
「悠夏はぴったりだね。私は全然、大きさが合わないや。男の人に合わせてるのかな?」
そう言った柊は私と繋いでいた右手を離してから、そのまま私の右手の上に重ねた。
「やっぱり。私もこっちの方が合ってる」
無理やり右手を重ねているから、柊の体が私に密着している。
「ちょっと、柊」
「うん?」
「近いです......」
ここまで密着していると、私の心臓の音が柊にも聴こえてしまう。すぐに離れてほしいが、柊は一向に離れようとしない。
「近いかなぁ」
柊はそう呟くと、私の方に向き直った。距離は全く広がっていない。柊は右手を私の右腕に沿うように、ゆっくり動かし始めた。
私の腕を少しずつ登ってきて。
私の左肩に触れて。
私の首元を手の甲で撫でながら動いて。
私の右肩に到着した。
上目遣いの柊の顔が、すぐ近くまで来ている。
「だ、だから。近いって」
私がそう忠告すると、柊は少し口を尖らせて言った。
「......だって、近づきたいんだもん」
柊が?私に?近づきたい?
手を繋ぐだけじゃなくて?
こんな風に近づきたいの?
......恋人の聖地で?
私の心臓の高鳴りは加速し続け、もう限界寸前まで来ている。
ダメだよ。こんなことをしたら。
そう言いたいけど、声が出てこない。
柊は更に私に密着してきて、顔を私の左側に寄せた。そして、私の耳元で囁く。
「ねえ、悠夏」
「し、柊。ちょっと待って」
「悠夏。悠夏」
「な、なに?」
「おーい、悠夏」
だんだん頭がフラフラしてきた。体が揺れているように感じる。
意識が遠くなって......
「おーい。悠夏!起きて!」
目の前に白い天井が広がっている。体が熱い。横を向くと、柊が私の左肩に手を乗せながら、心配そうな視線を送っている。
「悠夏、寝ちゃってたよ」
「ああ......」
「顔赤いけど、大丈夫?」
大丈夫......じゃない!
なんていう夢を見てしまったんだ......
赤くなっている顔を隠すために、急いで掛け布団を頭から被った。すると、「悠夏!行くよ!」という柊の叫び声が聞こえた次の瞬間、急に布団が重くなった。
「柊!ちょっと!」
私の体と交差するように、柊が布団越しに覆いかぶさってきた。
「悠夏!起きて!」
「起きるから!今起きますから!」
「ほら、起きて一緒にお風呂に行くよ!」
「え!?」
思いきり体を起こした拍子に、柊がベッドから転がり落ちてしまった。
「うわ、ごめん柊!」
「だ、大丈夫。悠夏が起きてよかったよ」
床に座り込んだ柊が、腰の辺りを摩りながら笑っている。大丈夫そうでよかった。しかし、問題はそこではない。
「お風呂......って言った?」
「うん。花火見るなら、ご飯の前にお風呂を済ませておいた方がいいでしょ?」
「一緒に?」
「八階に温泉があるんだって。海が見えるらしいよ」
「そうなんだ......」
それは全く予想していなかった。当日に楽しみを取っておこうと思い、このホテルについてほとんど調べていなかったことが、ここにきて仇となった。
「ほら、行こ?」
「さ、先に行ってきていいよ?」
そう言うと、柊の顔から笑みが消えた。目を丸くしたその顔は、まるで「どうして?」と書いてあるように見える。
「なんで?一緒に行こうよ。海が見える露天風呂だよ?温泉だよ?」
あんな夢を見た直後に、柊と一緒にお風呂に入るなんて......私の身が持たない。
「いや、私は後でいいよ。部屋にお風呂もついてるし」
「なんで温泉があるのに、わざわざ部屋のお風呂に入るの」
「いいから。先に行っておいでよ」
「悠夏と一緒に入りたいよ」
「嫌だ!一人で入って!」
焦りのあまり、大きな声を出してしまった。静かな部屋の隅々まで自分の声が響くのを感じた。
「......そんなに嫌がらなくてもいいじゃん」
そう呟いた柊はゆっくりと立ち上がった。その顔を見ると、先ほどまでとは一変した表情を浮かべていた。
目を少し細くして、私の方ではなく真っすぐ前を見ている。
柊のこの表情。
中学校の教室で一人、本を読んでいたときの柊を思い出す。
とにかく、柊の気持ちが穏やかではないことは分かった。
「いや、その......柊と一緒に入るのが嫌なんじゃなくて......」
「無理しなくてもいいよ。一人で入ってくるから。」
ベッドの上で座ったままの私から離れて、柊はお風呂に入る準備を始めてしまった。
「柊、あの......」
「いいから。待ってて」
そう言い残して、柊は部屋から出て行ってしまった。
明るい部屋に、柊がドアを閉める音が響いた。追いかけようとしたけど、足が動かない。
柊の機嫌を損ねちゃった......
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