私の将来は 前編(柊パート・現在⑥)
「疲れた!もう寝る!」
アパートについた瞬間、
「あんまり大きい声出さないで。ほら、早く上がって」
玄関に寝転ぼうとする藍を部屋の中へ押し込む。
「藍。何のために東京まで連れて来たか分かってる?」
一昨日、実家から一緒に東京へ来た二つ年下の妹。私たちが通う大学のオープンスクールに行くというから連れて来たのだが、本人はすっかり観光気分だった。昨日のオープンスクールを終えた後、今日は朝から一日中藍が行きたい場所に付き合わされていた。
「いいじゃん。ずっと受験勉強してるんだから、息抜きだよ。お母さんには言わないでね」
「言わなくても、なんとなく分かってると思うけど」
出掛ける前に掃除しておいた浴槽にお湯を溜め始めてから戻ると、藍は既にスマホで明日行きたい場所を調べ始めていた。
「ねえ、なんかおすすめの場所とかないの?」
「ない」
「二年も東京に住んでて、なんにもないの?」
「ずっと観光してるわけじゃないんだから。あ、それに明日は私バイトだから。あんた一人になるよ」
「え?」
「午前中はいるけど、昼過ぎからバイト。行きたい所があるなら、一人で行ってきな」
「嫌だよ。一人で観光したって楽しくない」
「案外楽しいよ?」
妹は私と違って幼い頃から友達が多かった上に、寂しがり屋なところがある。小学生くらいの頃、一人になりたかった私は、姉にくっ付いていたい藍と攻防戦を繰り広げていた。さすがに中学くらいからはそんなことはなくなったけど、やはり性格そのものは変わっていないのだろう。
「一人の観光が嫌なら、この部屋で黙って勉強してなさい」
「一人が嫌なの!」
「そんなこと言ってて、来年東京に来たらどうするの?一緒になんか住まないよ」
「当たり前でしょ。一人暮らしがしたくて東京に来るんだから」
「意味がわからない」
「一人暮らしはしたいけど、遊ぶときは一人じゃ嫌なの!」
「わがままだな。ほら、お風呂湧いたから入ってきなさい」
「はーい」
靴下を脱ぎ散らしながらバスルームへ向かう藍を見て、一人暮らしは心配だなと思ってしまう。
藍がお風呂に入っているこの間にふと、悠夏との旅行の行き先について調べようと思った。「旅行に行こう」と約束をしたは良いものの、約束の日である悠夏の誕生日まで二週間を切っているというのに、どこへ行くか決まっていない。もしかすると、もうどこも予約でいっぱいかもしれないな。そんな不安を抱きつつ、私はネットの検索窓に『海 旅行』と入力した。
すぐに日本各地の海に面した地域にある宿泊施設がずらりと表示された。その中でなんとなく目についた熱海のホテルのホームページを開いた。そこに載っている写真を見る限りは客室も綺麗で、雰囲気も良さそうだ。いろいろな種類の部屋があって、中には海が見える部屋もあるらしい。アクセスを調べると、都内からは電車で一時間半から二時間ほどで行けてしまう。他の熱海のホテルを調べてみるが、気になった所は大体値段が高く、結局最初に見つけたホテルがいちばん良さそうだった。
空室の確認をすると、三十一日にはまだ空きがあった。その場で『このホテルどうかな?』というメッセージと共に、ホテルのホームページのリンクを悠夏に送信する。
「彼氏と行くの?」
返信を待ちながらホテルのホームページを眺めていると、いきなり後ろからバスタオル姿の藍に声をかけられた。驚いて反射的にスマホの画面を手で隠してしまった。
「か、勝手に覗かないで!いつの間に上がったの」
「たった今」
「早すぎじゃない?」
「長湯するの好きじゃないんだもん。化粧水忘れたから取りに来たんだけど、お姉ちゃんが真剣な顔でスマホを見てたから気になって」
「マナー違反だよ」
「で、彼氏と行くんでしょ?どこ?」
「だから彼氏なんていないって言ってるでしょ」
実家の部屋で悠夏と電話をしていた時。自分では気づかなかったが、かなり大きな声で話していたらしく、隣の藍の部屋まで聞こえていたようだった。内容までは聞き取れなかったようだが、藍は電話している私の声の調子を聞いて彼氏と電話していると勘違いしたらしい。もちろんすぐに否定したが、藍にはまだ怪しまれている。
「じゃあ誰と行くの。得意の一人旅?」
「友達だって。三十一日がその友達の誕生日だから、一緒に旅行に行こうって約束してるの」
「女子?」
「もちろん」
「ほんとに?女子とそんなムードあるホテルに泊まるかなぁ」
「うるさい。ほら、湯冷めするよ」
「はいはい」
藍を追い返したところで、悠夏から返信が届いた。
『いいと思う』
『あとは柊にまかせるよ』
よかった。悠夏に『じゃあ、予約とります!』と送信してから、急いでホテルのホームページに戻って部屋を確保した。オーシャンビューの部屋。値段は少し割高になるけど、これは私から悠夏への誕生日プレゼントだ。
ホテルから予約完了を知らせるメールが届くと同時に悠夏から、熊のキャラクターがお辞儀をしているスタンプが送られてきた。悠夏は最近、よくこのキャラクターのスタンプを送ってくる。思わず笑顔になりながらスマホを画面を消すと、暗くなった画面に藍の顔が反射して映った。
*********
「おかわりください」
「あんた、何杯飲むつもりよ」
「次で六杯目」
結局、私はカフェに藍を連れてきてしまった。案の定、由香里さんは藍に食いつき、お喋り好きの藍もそれに応えてずっと楽しそうに喋っていた。遂にはお客さんも交えての談笑までするようになり、私はカウンターの中、一人で淡々と働いていた。
「はい、どーぞ」
「ありがとうございます。なんか、いいですね。外は暑いのに、冷房が効いてる部屋でホットコーヒーを飲むのって」
「でしょ?さて、そろそろ終わりにしちゃおうか。藍ちゃんともっと話したいし。柊ちゃん、カップ洗っておいてくれる?」
「はいはい」
由香里さんはさっさとエプロンを脱ぎ、カウンターの外に出て藍の隣に座った。確かにこの二人は気が合うだろうとは思っていたが、初対面でここまで話し込むとは予想外だった。ひとり寂しく食器を洗っていると、疎外感すら感じる。
「ねえ、藍ちゃんも柊ちゃんたちと同じ大学を受けるの?」
「一応、第一希望です。まあ、お姉ちゃんがいるからっていう訳でもないですけどね。純粋に行きたい大学なんです」
「へえ。将来の夢とかあるの?」
「教師です」
「はあ!?」
思わず、大きな声を出してしまった。
「びっくりしたぁ。何?柊ちゃん知らなかったの?」
「全く知らないですよ。藍、教師になるの?」
「うん。だから教育学部を受けるつもりだよ」
「藍が教師?全然想像つかない」
「そういうお姉ちゃんはどうなの?どんな仕事するつもり?」
「別に、何も考えてない」
「ええ?来年から就活とかしなきゃいけないんじゃないの?早いうちに決めておかないと大変だよ?」
「分かってるって。でも、何もイメージできないの」
「どっちが姉か分からないわね」
そう笑う由香里さんに「余計なお世話です」と言いながら、最後のカップを洗い終わった。水滴を拭いて、このカップにそのままコーヒーを淹れることにする。
「お姉ちゃんの学部って、どんなこと勉強してるの?」
「一応、今年から心理学のコースに入ってるけど。でも美玖と真希にくっ付いて入っただけだから、特に興味はないんだけど」
「心理学ってどんな仕事に繋がるの?」
「さあ。分からない」
「そのコースを卒業した人たちって、どんな仕事に就いてるの?」
「......分からない」
「何にも分かってないじゃん。今からなんとなくでもいいから、やりたい仕事を探しておいた方が良いと思うよ」
先ほどまでとは一転、藍が真剣な表情で訴えてくる。「妹のくせにうるさいよ」と言いたい所だったが、確かに言われている内容はその通りとしか言いようがないので、口を噤んでしまう。何も言い返せない私は、コーヒーを淹れながらカウンターの中にある小さな椅子に腰かけた。
「確かに、お姉ちゃんから将来の夢の話って聞いたことないね。小さい頃の将来の夢って何だったの?」
「何もなかったと思う」
藍の言う通り。自分の記憶の限りでは、私は「将来の夢」というものを考えたことはない。小さな頃に将来の夢を訊かれたときも、適当にそれっぽいことを言ってその場をしのいでいた。そんな私とは正反対に、藍は訊かれてもいないのに自らの将来の夢を話すことが頻繁にあった。
「逆に私、藍の将来の夢は色々と聞かされたな。パティシエ、アイドル、看護師、警察官。他には何があったっけ?」
「美容師とか漫画家とか。女子サッカーのワールドカップを観た時は、サッカー選手になりたかった」
「藍ちゃん、影響されやすいのね」
「ですね。教師になりたくなったのも、中学校の先生の影響ですし。でも教師になりたいと思ってからは、その夢は揺らいでませんよ」
「そんな前から教師になりたかったの?全然気づかなかった」
「私が中学生になってから、そんな話はしなくなったもんね。数学の先生なんだけど、一年目の若い女の先生で。数学が苦手だった私に付きっ切りで教えてくれたんだけど、まだ一年目だから先生も必死でさ。一生懸命、頭抱えて教えてくれたの。そんな姿を見て、私もこうなりたいなって思ったんだ」
「ふーん......そうか。藍は中学生で将来の夢ができたのか。私なんて退屈だった記憶しかないもん」
「あれ?でも悠夏ちゃんは同級生だったんでしょ?」
「まあ、そうですけど」
中学校の記憶といえば毎日が退屈だった事と、悠夏との間で起きた出来事くらいしか覚えていない。逆に言えば、惰性で過ごしていた中学校生活の中でも、悠夏との記憶だけは鮮明に覚えている。それほど私にとって、悠夏との出会いは特別なものなのだなと改めて実感する。
「悠夏ちゃん......って、もしかしてお姉ちゃんが一緒に旅行に行く人?」
「そう。今年になって久しぶりに会って、友達になった」
そう言った瞬間、コンコンと入口のドアがノックされた。見ると、外から悠夏が控え目に手を振りながら立っていた。
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