雨の日の事件 後編(柊パート・現在④)
「ほら、とりあえずキャリーバッグ持ってきたから」
「ありがとうございます」
私が電話をしてから三十分ほどで、由香里さんが車で駆けつけてくれた。
少し落ち着きを取り戻した美玖と真希が話した結果、とりあえず美玖は真希のアパートに泊まることになった。幸いクローゼットの中の服には影響がなかったのだが、それをまとめるバッグは水浸しで使い物にならず、仮にまとめることができたとしても大雨の中を大荷物を持って移動するのは現実的ではなかった。そこで私は、車を持っている由香里さんに電話をしたという訳だ。
美玖は由香里さんが持ってきてくれた大きめのキャリーバッグに、濡れないように部屋の外へ持ち出した服を詰めている。私と由香里さんは、真希から事の詳細を聞いた。
今日、美玖は朝からバイトに出かけており、その間にこの雨漏りが発生。バイトを終えて帰ってきた美玖は悲惨な状態の部屋を見てパニック状態に陥り、泣きながら真希に電話をかけてきたらしい。ただ、その電話では何が起きているのか分からず、辛うじて聞き取ることができた「うちに来て!」という言葉だけを頼りに駆けつけると、私が来た時と同様に「雨なんて嫌いだ!」と言いながら玄関で座り込んでいたという。部屋の惨状を確認した真希は、とりあえずブレーカーを落とし、管理人に連絡。そして美玖を慰めながら、私に電話をかけたのだった。
「準備できました」
美玖が服を詰めたスーツケースを由香里さんの軽自動車に積む。真希は荷物を置くために由香里さんの車にのって自分の家まで案内し、私はここに残って管理人さんと話をしなければいけない美玖に付き添うことになった。
「じゃあ、行ってくるね。また迎えに来るから」
そう言って真希が車に乗り込もうとすると、美玖は真希の服の裾を掴んだ。「どうしたの?」と言う真希に美玖は、俯いたまま首を横に振っている。その様子を見た真希はすぐに察したようで、少し笑いながら私にアパートの鍵を投げ渡した。
「ごめん、私が残るわ。場所分かるよね?」
「うん」
「お願い」
「分かった」
そういう訳で、私は由香里さんの運転する車で真希のアパートまで向かった。
「美玖ちゃん、大変ね」
「さっきは少し落ち着いてましたけど、私が到着したときはまだ大泣きしてましたね。まあ、バイトから帰って家が水浸しになってたら無理もないですよね」
「それにしても、さっきの美玖ちゃん可愛かったなぁ」
「ああ、裾を引っ張った時ですか?」
「そう。なんか赤ちゃんみたいだった」
「あんなに弱っている美玖は初めて見ましたね」
「どう?美玖ちゃんにフラれた気分は」
「変な言い方しないでくださいよ」
私たち三人はいつも一緒にいるけれど、美玖と真希の間にある信頼はまた特別なものだ。美玖がバイトで大きな失敗をして落ち込んでいたときには真希がずっと励ましていたし、真希が高校の頃から付き合っていた彼氏と別れたときには反対に美玖がずっと傍にいた。
「あの二人は特別なんです。一年の頃から二人で全部同じ授業を取ってますし。初めて会ったときも、もう二人は仲良く喋っているところに私が後から入りましたから。真希がお姉ちゃんで、美玖が妹っていう感じですかね。もはや姉妹なんです」
「へえ。そんな二人と一緒にいて寂しくないの?」
「そんなことを考えたこともないですね。二人の会話を聞いているだけで楽しいですよ。姉妹の親友っていう感覚です」
「ふーん。じゃあ、悠夏ちゃんは?」
「黛さんは......」
黛さんはなんだろう。様々な出来事を経てようやく友達になれた黛さんとは一緒にいるだけでいつも楽しいし、何より嬉しい。私にとっては美玖と真希、奈月ともまた少し感覚が違う友達だ。この三人が親友なら......なんだろう?
「特別な友達ですかね」
「なにそれ?」
「自分でも上手く言えないんですよ。あの二人と黛さんのどっちが上でどっちが下だとか、当然そういうランクをつけるわけではないですけど。友達の中でも、あの二人や高校時代の初めての友達は、親友だと思ってます。黛さんは親友ともまた違う、とにかく特別な友達なんです」
「特別な友達ねぇ。だから名字で呼び合ってるの?」
「いや、そういう訳ではないですけど」
「美玖ちゃんと真希ちゃんとは名前で呼び合ってるのに、悠夏ちゃんとだけ名字呼び。特別な友達なら、名前で呼んであげればいいのに」
「ずっと名字で呼んでますから。急に変えるのは気恥ずかしいというか......」
「前に一回、うちで名前で呼んでたじゃない」
由香里さん、流石だな。無意識に零れた「悠夏ちゃん」という呼び方を聞き逃さず、二か月も覚えているなんて。
「あれは無意識に、由香里さんの呼び方が移っちゃっただけで」
「悠夏ちゃん、嬉しそうだったよ」
「本当ですか?」
「私にはそう見えたけどな」
「そうですかね......あ、そこを左です」
「左ね」
交差点を左に曲がり、しばらく真っすぐ進むと真希の住むアパートが見えてきた。比較的大きくて、綺麗なアパート。大学までは電車一本で行くことができるし、私や美玖のアパートと比べ、家賃は高いだろう。
由香里さんがアパートの前に車を停めている間に私は急いで真希の部屋にスーツケースを置き、鍵を閉めたらまた急いで車に戻る。この少しの移動だけでかなり濡れてしまった。
「じゃあ、また迎えに行こうか」
「そうですね」
私たちは再び、美玖のアパートを目指して走り出した。
*********
「もう最悪だよ!テレビは壊れてベッドもダメ。信じられない」
昨日の弱っていた姿からは一転して、いつも通り唐揚げを頬張りながら話す美玖を見て安心する。
「そんなことがあったの?ごめんね、美玖さん。私も手伝ってあげればよかった」
「いや、来なくてよかった。本当は真希が柊を呼んだのも疑問に思ってるくらいだもん」
「なんで?」
「だって、泣いてるところ見られたくなかったんだもん。恥ずかしいでしょ!」
「なんで真希はいいの?」
「もう見せたことあったから」
「いいじゃない別に。柊が来なかったら、由香里さんも来てくれなかったんだし」
「そうだけど」
「美玖さんが泣いてるところ見たかったな」
「絶対見せない」
美玖の話を聞くと、今回の件は完全にアパート側の責任ということで雨漏りの修繕費は当然アパート側の負担になったらしい。また、アパートと契約するときに加入していた火災保険から、テレビなどの家具を買い替えるくらいのお金は出るという。ただ、火災保険に加入する際にお母さんがサインをしていたため、色々と手続きが面倒らしい。ただ、それらの手続きが終わったとしても、あのアパートに戻る気はないようだった。
「美玖さん、これからどうするの?」
「とりあえず、真希にお世話になります」
「まあ、仕方ないね」
「彼氏の家に泊めてもらえばいいのに」
私がそう言った瞬間、真希の口が「あっ」という形をした。
「......あんな奴、もう頼りにしない!」
美玖が不機嫌な顔になり、箸を置いてしまった。まずいことを訊いてしまったみたいだ。
「昨日の夜、美玖がずっと電話で彼氏と喧嘩してたんだよ。うるさくて仕方なかった」
「だってアイツ、私が緊急事態だっていう時に電話にも出ずに、大学のサークルメンバーと昼間から酒飲んでたんだよ?信じられる?女もいたみたいだし、もう意味わかんない」
話によると美玖は昨日、部屋の惨状を見てまず彼氏に電話したらしいのだが、何度かけても電話に出てくれなかったのでパニックが更に増したらしい。つい先日もお馴染みの惚気話を聞かされていたのに、こうも変わってしまうのか。恋愛って恐ろしい。
「それで真希に電話したらすぐ出てくれて、速攻で駆けつけてくれるんだもん。やっぱり持つべきものは真希だよ。真希が男だったら完璧に惚れてるね」
「気持ち悪いこと言わないで」
「ああ、ダメだ。思い出したらまたイライラしてきた。よし、真希。もう帰ってヤケ酒だ」
そう言って美玖は立ち上がり、「先帰るね」と言ってさっさと食器の乗ったトレーを持って行ってしまった。真希は「あんた、まだ未成年でしょ!」と叫びつつ、「ごめん、行くわ」と言って急いで美玖の後を追いかけていってしまった。
「なんか真希さん......大変だね」
「恋愛って難しいね」
ポツンと残された私たち。この機会にあの提案してみようと思いついた。
「ねえ、ちょっといい?」
「なに?」
「私たちもさ、名前で呼ばない?」
「え、急にどうしたの?」
私に名前で呼ばれたときに黛さんが嬉しそうだったよって由香里さんが言ってたから。
なんて恥ずかしくて言えない。
「そろそろいいかなって。別に名字呼びのままでも友達だけど、もっと近づけるような気がして」
「うん......分かった」
「よし、そういうことにしよう。じゃあ、今日も授業終わるまで待ってるね。ゆう...か......」
「う、うん」
「......」
「......」
「いや、私のことも呼んでよ!」
「だって、まさか呼び捨てだとは思わないじゃん......」
「いいから、ほら」
「わ、分かった......柊......?」
ああ、なんだこの恥ずかしさは。なにか私たちに流れる空気が軽くなったような、重くなったような。
「なんか、ぎこちないね?」
紛らわせようと、笑いながら言ってみた。
「そ、そうだね」
「もっと自然に呼べるようにならなきゃね。付き合いたてのカップルじゃないんだから」
「......」
「......」
「じゃ、じゃあ待ってるから。悠夏」
「わ、分かった。柊」
急いで席を立ち、食堂から出る。ただ名前で呼び合っただけで顔が熱い。美玖と真希を名前で呼び始めたときと比べて、恥ずかしさが増している気がする。
場を和ませるために言った冗談だったけど、これでは本当に付き合いたてのカップルみたいだ。
将平と付き合っていた頃より、気分がフワフワしている気がする。
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