雨の日の事件 前編(柊パート・現在④)
駅から大学までの道が無数の傘で埋め尽くされている。最近は雨ばかりだなと思っていたところ、スマホのニュースで正式に梅雨入りが発表されたことを知った。雨自体は嫌いではないが、このように人が密集する場所で傘同士が当たるような状況は苦手だ。朝や夜の混雑している電車では全員が傘を畳んで持った状態で乗り込むため、いつも以上に窮屈さを感じる。
二限目の授業を受けていると、マナーモードにしているスマホが震えた。画面を見ると、黛さんからメッセージが届いていた。
「四席ゲットしたよ」
梅雨の時期は、食堂もいつもより混雑しやすくなる。普段は大学の外まで昼食を食べに行くような学生が、雨が降っているおかげで食堂に集まってきてしまうのだ。今日は黛さんが二限目に授業が入っていない日。そんな時はいつも、早めに食堂に行って私たち三人の分まで席を確保してくれる。机の下で「ありがとう」と返信を打ち、意識を授業に戻した。
再会して二か月が経ち、私の期待通りに黛さんは美玖と真希ともすっかり仲良くなっていた。私抜きで楽しそうに話していることもしばしばあって、今では敬語もすっかり抜けたようだった。一方の二人も、いつの間にか黛さんを「悠夏」と呼ぶようになっていて、二人が他人との距離感を縮める能力に長けていることを改めて思い知らされた。
私が二人を名前で呼び始めたのは、去年の夏休みに一緒に旅行に行った辺りからだったと思う。それまでは名字で二人を呼んでいた。三つ子の魂百までというやつだろうか。いくら友達が増えても性格の根っこは変わっていないようで、突然名前で呼んだら変に思われる気がしてなかなか踏み込めなかった。美玖に「いい加減、名字呼びはやめてくれ!」と軽く怒られてしまったので無理をして名前で呼び始めたが、それでも一か月くらいは違和感は残っていた。
そんな私が、初めて黛さんがカフェに来てくれたあの日、無意識のうちに「悠夏ちゃん」などと呼んでしまっていたらしい。由香里さんが「悠夏ちゃん、悠夏ちゃん」と呼ぶので、ついそれが伝染してしまったようだった。私自身はそれに全く気が付いておらず、カフェを出たところで黛さんに指摘されて知った。笑ってごまかしたけど、かなり恥ずかしかった。
*********
雨の日の食堂は床がジメジメしており、気を抜くと滑って転びそうになる。なんとか席に座って食べ始めても、辺りからは靴や椅子の脚が床と擦れて甲高い不快な音が聴こえてくる。
「雨ってテンション上がらない?」
「上がらない」
美玖の発言を、真希と私は声を揃えて否定した。
「なんかこう、濡れると楽しくなるじゃん」
「ならないって」
また声が揃った。
「美玖、雨降ってても傘ささないで歩いたりするよね」
真希が呆れて言う。
「な、なんで?」
これには黛さんもさすがにツッコんだ。
「分からないけど、とにかくはしゃいじゃうんだよ。こう、大雨であればあるほど丸腰で走りたくなる」
「バカだね、あんた」
「真希もやってみれば分かるよ」
「絶対やらない」
基本的に好きなものが似ているこの二人だけど、この話題に関しては理解し合うことはなさそうだ。すると、その二人をニコニコしながら見ていた黛さんが口を開いた。
「でも、私は分からなくもないかなぁ」
「おっ!悠夏が私の仲間になった!」
「いや、さすがに傘をささないで走ったりはしないけど。でも確かに、小学生の頃なんかは長靴で水たまりをバシャバシャやりながら帰ったりして」
「私もやってた!」
「あんたは今でもやるでしょ」
それを聞いて、小学生の頃の黛さんを想像してみる。黄色いレインコートを着て、ブカブカの長靴で水たまりに満面の笑みでジャブジャブ入っていく。勝手に想像した小学生の黛さんが可愛くて笑ってしまう。私たち、小学生の頃に出会っていたらどうなっていたかな。まだ私が意識して閉じこもる前なら、今のように仲良くなれていたかもしれないな。それともやっぱり、本が読みたくて黛さんを避けたかな。
「私、雨が降ると髪の毛がごわっとするから嫌なんだよ」
私が少し妄想に耽っていると、いつの間にか話題は髪の毛に移っていた。
「真希はストレートパーマだからね」
「雨の日は広がっちゃうんだよ」
「そうだったんだ。美玖さんはそのウェーブ、天然?」
「いや、巻いてる」
「なんでせっかく真っすぐなのに巻くの」
「だってその方が可愛いんだもん」
美玖でも一応そういうところに気を遣うことはあるのだな、と意外に思う。
「悠夏は?」
「もともと真っすぐ」
「綺麗な髪だね。私に頂戴」
「嫌です」
「でもそんなに綺麗な髪の毛、いちいち染めるの大変じゃない?」
私の言葉を聞いて、二人が同時に首を傾げた。
「染めてるの?」
「黛さん、黒く染めてるんだよ」
「......白髪?」
「違うよ!地毛は茶色」
「なんでわざわざ染めてるの?」
「うーん......黒髪に憧れてたからかな」
「外国人じゃないんだから」
確かに、黛さんが黒く染めていることを始めて知ったときは驚いた。それこそ白髪染め以外で黒く染めるという発想が私にはなかったからだ。黛さん曰く、染めている理由は「なんとなく」らしいけど。
「黒染め落としてみたら?茶髪の悠夏、見てみたい」
「ええ?うーん......」
「どうしても黒がいいの?」
「そういう訳じゃないけど......」
「でも確かに、未だに私の黛さんのイメージは茶色い髪だね。地元で会っていた頃の印象が強いから。黒も似合ってるけど、あの茶髪も似合ってたよ」
「......そう?茶髪ってほどでもないと思うけど」
「次、髪を切るときは落としてみてよ!」
「じゃあ......気が向いたら」
「やった!」
なぜか美玖と真希が喜んでいる。
「それなら、私も次は黒に戻してみようかな」
「いいんじゃない?」
「あんまり変わらないと思うけど」
試しにそう言ってみたら、二人は露骨に興味を失くしたようだ。扱いの差が酷い。ただ、確かに美容院に行く度に染めてもらう時間が面倒でもあるし、別に自分でもこだわりはない。本当に黒に戻してみようかな。
*********
窓に雨粒が激しく当たる音で目が覚めた。今日は何も予定がない日曜日。昨日の夜は夜中三時まで、まだ読んでいなかった本を一気に最後まで読んだ。そのままアラームをかけずに寝たのだが、雨音で起こされるのはあまり気持ちのいいものではない。カーテンを開けると、向かいの建物がよく見えないほどの大雨が降っていた。大きな雨粒が目の前の車道に跳ねているのがはっきり確認できる。ここ最近では一番の大雨だ。時間を確認しようと机の上のデジタル時計に目をやったその瞬間、ちょうど十時になった。雨に早く起こされた気分だったが、しっかり七時間近くは眠ったことになる。
適当にトーストを食べて、テレビを観ながら何をしようかぼんやり考える。この大雨で家から出る気にはなれず、久しぶりに本腰を入れて部屋の掃除を始めた。水回りの掃除や、雑巾がけなどをしていると徐々にのめり込んでしまい、気が付くと十四時を過ぎていた。時計を見た途端、一気に疲れが襲ってきて昼食を作るのが面倒になったので、コンビニヘ行って遅めの昼食を買ってくることにした。家から出たくなくて始めたはずの掃除だったのに、結局外へ出てしまった。
コンビニで買ってきたおにぎりを食べていると、スマホの着信音が鳴った。画面を見ると、『真希』という文字が表示されている。
「もしもし?どうしたの?」
「緊急事態発生。今すぐに来て」
真剣なその声に、何事かと姿勢を正す。
「な、なに?」
「とにかく美玖のアパートに来て」
「今から?」
「急いでね」
「え、ちょっと!」
有無を言わさず電話を切られた。美玖の家に行くには電車に乗らなければいけない。駅まで行くのも面倒だったけど、仕方ないので急いで準備をして家を出た。傘を差しながら駅を目指すが、横殴り気味に振る雨ですぐに服は濡れてしまう。これで、しょうもない用だったら許さないよ。
*********
「雨なんて嫌いだ!!」
玄関を開けると、薄暗い中で美玖が膝を抱えた状態で座り込み、そう叫びながら泣いていた。「雨はテンション上がるんじゃなかったの?」と優しく笑いながら、真希はその隣に座って美玖を慰めている。
「どうしたの!?」
驚いて訊くと、真希は親指で後ろのドアを指した。玄関から僅かに伸びる廊下の奥には部屋が広がっていたはずだ。玄関から家に上がると、薄暗くて気が付かなかったがドアの下の隙間から水が溢れている。ただ事ではなさそうだと思いながら恐る恐るドアを開けた瞬間、思わず「うわぁ」と声が漏れてしまった。
天井、そして天井と壁の隙間から水が流れていて、既に水浸しになった床にポタポタと落ち続けている。床に置いてあるクッションや座椅子もぐっしょりと濡れている壁際に設置してあるテレビやベッドは、おそらくもう使えないだろう。前に遊びに来たときにはそれなりに綺麗だった美玖の部屋が......
あまりに異様な光景に、何も言葉が出てこない。玄関の所まで戻り、真希と一緒に美玖に「大丈夫だよ」と言い続けるしかなかった。
それから少しして、アパートの管理人が到着した。私が到着する前に真希が電話していたようだった。五十代くらいに見える男性の管理人さんは、ひたすら美玖に頭を下げていた。美玖は泣き止んでいたが、管理人さんの言葉には軽く頷く程度の反応しか見せない。不幸中の幸いというべきか、隣の部屋には影響はなく、下の部屋には誰も住んでいなかったため、被害を受けたのは美玖だけだったようだ。管理人さんはすぐに業者を呼んだ後で、モップのようなもので美玖の部屋から水を掃き出す作業に取り掛かった。美玖はその様子を涙目で眺めていた。
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