みんなの世界 前編(悠夏パート・過去①)
初めて
その年は、小学一年生からの親友だった
少し暑くなり始めた頃。休み時間にトイレから教室へ戻ったときに何気なく教室の後ろの方を見ると、みんなが教室のあちこちで固まって話している中、窓際のいちばん後ろで一人人、本を読んでいる子に気が付いた。
じっと集中して分厚い本を読む、長い黒髪の女の子。
あんな子、このクラスにいたっけ。
湊美の方を見ると机で何かをしていたから、なんとなくその子の所まで行って声をかけてみた。
「ねぇ、なに読んでるの?」
「へ?な、なに?」
その子はびくっとして、視線を本と私の中間くらいまで上げた。びっくりさせちゃたかな、と少し反省した。
「どんな本読んでるのかなぁと思って」
「えっと......ミステリー小説」
「へぇ。面白い?」
「う、うん。面白い」
「そっか」
「......」
ただ気になって、なんとなく声をかけちゃったから、何も話題がなかった。その子の顔をじっと見たまま言葉が出てこなくなった。
驚いたような表情で、見開いた眼で私を見つめている。
黒い髪に、窓から差し込む陽射しが反射している。
綺麗だな。
いつもは誰とでも楽しく話せるのが私の取柄なのに、次の会話になかなか移れなかった。その直後、後ろから湊美に「悠夏!次の数学の宿題やった?」と声をかけられた。
「忘れてた。じゃあね!」
そう言って私は、自分の席に戻って数学の宿題を始めた。
「ねえ、急にどうしたの?」
宿題を終えたところで、湊美にそう訊かれた。
「なにが?」
「あの子と話してたから」
湊美が指を差した方には、相変わらず本を読んでいるあの子。
「別に。なんか気になったんだよね。このクラスが始まってしばらく経つのに、初めて見たから」
「え、今日初めて気付いたの?それは流石にかわいそうだよ」
「湊美は気づいてた?」
「まあ、私も最近気づいたんだけどね。いつもあんな感じで本を読んでるの」
「そうなんだ......」
友達いないのかな?と言おうとした瞬間、チャイムと同時に先生が入ってきた。それを見た湊美は「やばっ」とだけ言い残して自分の席へ戻っていった。
その数学の授業の中で、その子は
授業中に後ろを振り向くと、いつも香月さんは頬杖をついて窓の外を見ていた。晴れの日でも雨の日でも、決まって外を見ていた。
「黛、ここ分かるか?」
先生はなぜか決まって、私が後ろを向いているときに指名してきた。
「あ、いえ。すみません。聞いてませんでした」
「そんなに後ろが気になるなら、後ろで立って授業を聞くか?」
「い、いえ。この席が気に入ってて」
「じゃあ前向いとけ」
クラスメイトから笑われる。そんな中でも、香月さんは変わらず窓の外を見ていた。なんだか私たちとは違う世界に住んでいるようだった。
それから、私はときどき香月さんの所へ行って話しかけた。びっくりさせないように、最初に名前を呼んでから。私が名前を呼ぶと、香月さんは一瞬だけ私の顔を見て、すぐに本へ視線を戻す。どれも短い会話だったけど、香月さんと話す時間は楽しかった。別の世界の人と触れ合えている気がして、妙にドキドキした。
ある日、「これ配っておいて」と先生からクラス全員分の数学プリントを渡された。前に授業で提出したものだった。それを休み時間に配っていると、最後の一枚が香月さんのプリントだった。全ての解答にマルがついたプリント。上の方には綺麗な字で「香月柊」と書かれていた。
木に冬......?
なんて読むのかな。
その次の休み時間、相変わらず本を読んでいる香月さんに直接訊いてみた。
「香月さん、下の名前はなんて読むの?」
「......しゅう」
これで「しゅう」って読むんだ。
かつき しゅう......
「へぇ、かっこいい名前だね!」
香月さんは首を傾げただけで何も言わなかった。そのまま私は自分の席に戻った。
下の名前を教えてくれただけ。ただそれだけでも、香月さんと近づけた気がした。
友達になれたらいいな。そう思い始めていた。
香月さんに話しかけているのは私しかいない。
私が友達になれたら、香月さんも学校が楽しくなるんじゃないかなって思っていた。
それがいけなかったんだ。
*********
薄暗い教室に、香月さんが戸を閉めた音が響いた。追いかけようとしたけど、足が動かなかった。胸の辺りが苦しかった。
「どうして私に話しかけてくるの?」
放課後の教室に2人きり。初めての空間に緊張していたら、香月さんにこう訊かれた。だから素直に答えた。
香月さんのことが気になっていたこと。
香月さんが寂しそうに見えたこと。
私が話せるようになれば、香月さんも楽しくなると思ったこと。
そして、私も友達になりたいと思っていたことを言おうとした時、香月さんはいつもより大きな声でこう言った。
「黛さんも他の人と一緒なんだね」
そして香月さんは続けて言った。
私は一人でいるのが好きなの。
みんながみんな大勢でいるのが好きなわけじゃない。
「私と話せれば楽しくなる」なんて自分勝手。
放っておいてよ。
教室のスピーカーから完全下校時間を知らせる放送が流れるのを聞いて、自分がずっと薄暗い教室で固まっていたことに気付いた。居残りでやっていた数学の宿題を職員室まで行って提出して、夕焼けの中を一人で帰った。その間、ずっと香月さんの声が頭の中に響いていた。頭の中で響く彼女の声を聞きながら、自分が言ったことに後悔していた。
「私が気軽に話せる関係になれたら、香月さんも学校が楽しくなるんじゃないかと思って」
確かに、自分勝手だったかもしれない。香月さんの気持ちを一方的に決めつけていた。
翌朝に教室へ入ると、香月さんは今までと同じように本を読んでいた。私が入ってきたことには気づいていないようだった。
謝りたいけど、不用意に話しかけると、また香月さんを傷つけてしまうかもしれない。そう思うと、話しかける勇気が出なかった。
「最近、香月さんと話してないでしょ」
あの出来事から数週間経った頃、湊美に指摘された。
「う、うん。やっぱり気づいてた?」
「気づくよ。何日かに一回はふらっと香月さんの所に行って話しかけてたんだから。夏休み終わって、飽きちゃったの?」
「そんなことないよ。だけど......」
「だけど?」
私は、あの日のことを湊美に話した。話しかける理由を訊かれて話したこと。それで香月さんを傷つけてしまったこと。謝りたいけど、もう話しかけるのが怖いこと。すべてを話した。
「あの香月さんが怒鳴ったの?」
「そう。ちょっと怖かった......」
「意外だねぇ。普段は大人しい人にいきなり怒鳴られたら、そりゃ驚くよね」
「うん」
「別にいいんじゃない?深く考えなくても。悠夏は親切のつもりだったんでしょ?」
「そうだけど......」
「気にしなくても良いと思うよ。香月さんが一人でいたいなら、関わらなくてもいいじゃん。ほら、今も一人で本を読んでるんだよ?そもそも私たちとは住む世界が違うんだって」
「うん......」
「香月さんは一人でいたい。悠夏はもう香月さんが怖くて話かけられない。このままでいるのが一番いいんじゃない」
それを聞いた私は、湊美の言う通りかもしれないと思った。私がなんとなく声をかけてしまったのが間違いだったんだから。無理に謝ろうとするよりも、このまま香月さんと関わらないようにする方がお互いにとって良いことなのかもしれないと。
「そうだよね。ありがとう。湊美の言う通り、もう関わらないようにする」
「うん。それでいいんだよ」
少し誇らしげな顔になった湊美に思わず笑ってしまった。
それから私は香月さんに話しかけることはなかった。香月さんはそれからもずっと一人だった。授業中には頬杖をつき、休み時間には本を読む。行事のときも教室の隅に一人で立っていた。寂しそうに見えたけど、それはきっと私の思い過ごしだったのだ。あんなに大人しい香月さんが、あれだけの剣幕で訴えてきたのだから、本当に一人でいたいのだろう。
湊美の言う通り。
私と香月さんは、違う世界の人間なんだ。
そう自分に言い聞かせた。
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