大学1年生、東京1年生(悠夏パート・現在①)

「助かったぁ......」


ようやく朝の満員電車からの脱出に成功した私は、思わず一人で呟いていた。


 東京で一人暮らしを始めてから3週間。大学も始まったばかりで、この東京の満員電車には全く慣れない。というより、こんなものに慣れたくはない。地元で高校に通っていた頃も朝の電車にはうんざりしていたけど、これは比にならない。何も考えず週に四日も1限目の授業を取った2週間前の自分を恨む。そんなことを教えてくれるような知り合いもいないから仕方ないけど。来年は絶対に1限目の授業は選択しませんと来年の自分に固く誓いながら、駅から大学へ向けて歩き出した。


 1年の浪人生活を経て入学したこの大学。正直に言えば、別にどうしてもこの大学に入りたかった訳じゃなかった。


 とにかく地元から離れたい。高校3年生の時にそう思ったのだが、受験勉強に取り掛かるのが遅かった私は当然のように合格することはできなかった。地元の大学には受かったが、地元から離れるために受験した私にはその大学を選ぶつもりなどなかった。本当は東京で浪人生活をしたかったくらいだが、さすがに両親に許してはもらえず、結局そのまま地元で浪人生活を送った。今になってみればそれで良かったと思う。一人暮らしで浪人生なんて、私の性格では絶対に挫折していた。


 1年の浪人生活を経て臨んだ受験では、一つだけ落ちてしまったが、受験したほとんどの大学に合格することができた。その中からなぜ今の大学を選んだかと言えば、一番有名な気がしたからだ。この大学に入れば、両親も喜んでくれると思ったから。自分の肩書というか、ブランドというか、本当にただそれだけの理由だった。単に地元から離れる口実のためだけに大学進学を選んだせいで、今となっては正直やる気がない。あくまで私にとってのゴールは上京。授業が始まってからの大学生活は、言わばウイニングランの状態で、ほとんど惰性で通っているようなものだ。とりあえず四年で卒業できればいいかな。それくらいの気持ちしかない。


 大学に入学してすぐ、1年生だけが集まるオリエンテーションというものがあった。そこで大学についてのことや授業の仕組みなど色々な説明を受ける。そこで何人かに話しかけられたけど、あまり仲良くなる気にはなれなかった。1年浪人しているというハンデもあったし、「友達」という存在に少しのトラウマもあった。昔の私とは違う。今から新たな人間関係を築くよりも、ひとりぼっちの大学生活を送る方が楽だ。


 それでも、一人暮らしだから何かアルバイトはしなければいけなかった。実家から仕送りは貰えるけど、それで賄えるのは家賃くらいだ。だから上京してすぐにバイトを探して面接を受けた。運よく一か所目で採用してもらったので、先週からそこで働き始めたところだ。


 大学の最寄り駅から電車に乗り、アパートの最寄り駅の手前で降りる。その駅から少し歩いたところにある書店。そこが私のバイト先。高校生の頃にコンビニでのアルバイト経験はあったのでレジの仕事は大丈夫だろうと思っていたけど、書店は結構ややこしい。本にはカバーをつけなければいけないし、大きい本はビニール袋に入れるのにコツがいる。もちろん仕事はレジだけではなく、本棚を整理したり、倉庫で本の管理をしたり。最初の一週間でその仕事全部の説明を受けて、もう頭がパンク寸前だった。今日も2限目まで授業を受けたらバイトだ。とりあえずレジ業務だけでも早くこなせるようにならないと、と少し焦っているところだ。


 1限目も2限目も、教室の一番後ろの端の席で授業を受けた。まだ大学は始まったばかりだけど、この場所が定位置になりつつある。教室を見渡せば既に仲良しグループが形成されているようで、他の1年生は友達同士で固まって座っている人が多い。この後ろの端の席に最初に座ってしまえば、滅多に話しかけられることはないから気が楽だ。先生がマイクを通して何かを喋っている声を聞き流しながら窓の外に視線を移していると、不意にある人の姿が頭に浮かんできた。


いつも教室で一人だったあの子。


今の自分の状況と重なるその姿を思い出してしまった。


忘れなきゃ、と小さく深呼吸をすると、その子は素直に頭から出て行ってくれた。


 授業が終わると教室を出て、階段を降りて外へ出る。その時に一瞬食堂を覗くと、昼休みになったばかりなのに既に物凄い数の人がいた。わざわざこんなところで食べなくても、外に出ればいっぱいお店あるのに。そう思いながら食堂の横を通り過ぎて行った。



*********



「どう?もう慣れた?」


バイト先の休憩室で制服代わりのエプロンを着ていると、先輩から声をかけられた。その先輩は大学院に通っていて、なんでも高校生の頃からここでバイトをしているらしい。私は基本的にこの先輩から仕事を教わっている。


「いえ、まだまだです」

「そっか。まあ、僕も最初の一か月くらいは付いていけなかったからね。黛さんは順調に仕事を覚えられてるし、焦ることないよ。コンビニでバイトしてたんだっけ?」

「そうです」

「そういうの、結構助かるんだよね。レジを使ったことがあるだけで、教えるのがかなり楽なんだよ」

「でも、コンビニとは結構違ってややこしいです」

「すぐできるようになるから大丈夫だって。今日も僕がレジで横に立って見てるから」

「はい。よろしくお願いします」


先輩のおかげで少しだけやる気が出て、意気揚々と休憩室を出て二人でレジに立ったけど、平日のこの時間帯はあまりお客さんはこない。天井のスピーカーから小さく流れるピアノの旋律の中、他の先輩が本棚を整理しているだけだ。


「暇でしょ?」と先輩は何故か嬉しそうに声をかけてくる。


「正直、そうですね」

「なかなか、この時間帯はお客さん来ないね。前回は夕方からだったよね?」

「はい。平日は大体夕方から入ってます」

「この近くに中高一貫の学校があってさ。夕方はそこの生徒が結構来てくれるんだけど、昼間は全然だね。だから、基本的に入りたての人はこの時間帯にレジを覚えてもらうんだ」

「なるほど」


私としても、いきなり大繁盛の時間に実戦に送り出されるよりは、このような状況でやらせてもらえる方がありがたい。


「この時間に来てもらえるお客さんは、30代以上くらいの人が多い感じ。仕事の昼休みとかに立ち寄るみたい。あとはまゆずみさんみたいに早く授業が終わった大学生とかがたまに来てくれるかな。黛さんの通う大学、近くに大きいデパートあるでしょ?」

「ああ、ありますね」

「あの中に立派な書店が入っていて、学生のためのサービスとかも結構整ってるし、みんなそっちに行っちゃうんだよ。でも一人、定期的に来てくれる子がいてね。もしかしたら、黛さんと同じ大学かもしれないよ」

「そうなんですか」

「でも最近見てないなぁ。もしかして、もう卒業しちゃったのかな。それとも、あの子もデパートの方に流れちゃったか......」


こんな話をしている間も、相変わらずお客さんは入ってこない。割と大きな声で会話していても、店長や他の先輩から注意もされない。なんだか気楽で助かるけど。


「黛さんは、そのデパートの方は行ったことある?」

「こっちに来たばかりの時に一度行きましたけど、本屋さんには気が付かなかったですね。なんとなく入ってみただけだったので」

「そっか。もしかして黛さん、本自体にはそこまで興味ない?」

「まあ、正直......」

「そうなんだ。いいんだ、僕もそうだったから。とりあえず応募したら採用されちゃったって感じ。バイト始めてから結構読むようになったけどね」


そこまで言ったところで、先輩が店長に呼ばれた。


「ごめん、ちょっと離れるね。もしお客さん来ても、大丈夫だよね?」

「はい」


カウンターの中で一人になる。その時、忘れようとしていたはずなのに、またあの子のことを思い出してしまった。多分、本に囲まれた場所にいるからかな。


中学生の頃、いつも自分の席で一人読書をしていたあの子。


後ろの席でずっと一人だったあの子。

 

私が仲良くなれればいいなと思って話しかけたあの子。


これまで、何度も忘れようとしてきた。


でも、なかなか忘れられなかった。


もう忘れられると思っていたのに。


そのために地元を離れたのに。



「おーい、黛さん」

 

いつの間にか戻って来ていた先輩に声をかけられた。


「あ、すみません」

「考え事?」

「いえ、あの......レジの操作を頭の中でシミュレーションしてまして」


先輩はなんだか納得していないようだったけど、「なるほどね」と言ってくれた。


 私が物思いに耽っているうちに、店の中には何人かのお客さんがいた。あのままの状態でいる時にレジに来られたらまずかったな。


 一人の男性客がレジへやってきた。横で先輩に見られているのは若干緊張するけど、もうこのレジを触ること自体は慣れている。本のバーコードを読み取り、合計金額を言う。お客さんがお金を出している間に本にカバーをかけるかを確認する。カバーって要るのかな、と思いながらも一冊ずつカバーを付ける。これが少々手間取るので焦らないように。お金をレジで精算してお釣りをトレーに乗せて渡す。あとは本をビニール袋に入れて渡して、「ありがとうございました。またお越しくださいませ」と言う。これが基本動作だ。


 頭を上げると、もう既に女性のお客さんが立っていた。カウンターに何冊かの文庫本を置いて「お願いします」と言ってくれた。お預かりします、と言おうとしてお客さんの顔を見る。


「あっ」


思わず声が出た。


彼女は不思議そうに私を見ている。


まさか。そんな訳はない。


すぐに我に返って、会計に入る。


「あの、えっと......カバーはお付けしますか?」

「いえ、大丈夫です」


良かった。若干震えているこの手でカバーなんて付けられない。なんとかビニール袋に入れるのがやっとだ。


彼女が置いた千円札3枚を受け取り、レジを操作する。お釣りを間違えないように数えて、レシートと一緒にトレーに乗せる。そしてビニール袋に入れた商品を手渡した。


「ありがとうございます」

「あの......あ、ありがとうございました。またお越しくださいっ」


最後に一瞬だけ目が合った。


彼女は、財布をバッグにしまいながら私に背を向けて歩き出した。


すると隣の先輩が口を開いた。


「いつもありがとうございます」


......いつも?


彼女は少しだけ会釈をして、店を出て行った。彼女の後にはお客さんはいない。あまりに想定外の事態に呆然としていると、先輩に声をかけられた。


「あの人だよ。さっき言ってた大学生の子」

「......え?」

「常連さん。あの子の話をした直後に来るなんてね。偶然ってあるんだねぇ」


だから「いつもありがとうございます」って言ったのか。


ということは、これからも来るかもしれないってこと?


え、私と同じ大学かもしれない?


ちょっと待ってよ。


忘れようと決心していたところだったのに。


あの時と同じだ。


彼女は忘ようとしている時に限って、ふらりと私の前に現れるんだ。



「黛さん、ひょっとしたら仲良くなれるかもしれないね」



そんな呑気に言われると困ってしまう。


私が香月かつきさんと友達になれる日は、きっと来ないから。

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