(閑話6 中)

迷宮都市ベニスはその呼び名が示すように周辺に存在する幾多の迷宮と、それによって齎される資源によって発展してきた都市である。とはいえ、都市が急速に発展したのはここ百年足らずの出来事である。


元々岩山で囲まれたこの地は天然の要害であり戦の際の守りには適していたものの、周辺には農作物の栽培に適した土地は僅かしか無く、その僅かな耕作地も総じて痩せており、その面積から期待される程の収穫高は見込めなかった。しかも、街道が整備されるまでは険しい山道を抜けねば辿り着くことが出来なかった為、人や荷車の往来が非常に不自由であった。


その為、都市の食料生産能力だけではそれ以上の人口増加を賄うことが出来ず、また、周辺に存在する迷宮の数と規模に比してその交易の規模は随分とささやかなものであった。それに対して迷宮のお宝や名誉、或いは敢えて危険を求めて集ってくる幾多の迷宮探索者達が齎す富が、迷宮都市を支える主な収入源となっていたのだ。


しかし、迷宮群棲国プラ・エ・テラニスの建国によってその状況は一変する。建国の直後から推し進められた各都市間の街道の整備と街道周辺における魔物や賊の一斉討滅による治安の改善が為された結果、国内の各都市間での交流は急速に進展し、周辺国との迷宮資源の交易も其れ迄とは比較に成らぬほどに繁栄することになった。それに付随して、ベニスにやって来る迷宮探索者達の数も爆発的に増加した。更に近年では魔道具の発達と普及によりベニスでは魔石とそれに関連する産業と交易が大いに栄え、今では都市の発展を牽引する重要な産業となっている。


だが交易が盛んになり、人の出入りが活発になるのは都市の経済活動の発展の為には好ましいのだが、逆に治安の悪化の危険性や他国の密偵や良からぬ者共の侵入を容易にする等負の側面もある。無論、他にも急激に増え続ける人口による食料問題や居住地の不足、排泄物の処理、一部市街のスラム化など解決すべき問題を数え上げればキリが無い。


一例を挙げれば魔道具の技術を掠め取る為に、商人達に紛れてベニスへ潜り込んで来る不埒者共が後を絶たない。連中の中には大地と豊穣の神々の座す処と伝え聞く、東方の大山脈を命懸けで越えて来る者すら少なくない。因みにその恐ろしくも雄大な大山脈の峰々は、数多くの大地と豊穣の神の信徒達が最後の巡礼の為に足を踏み入れ、そして自ら神々の供物となる神域なのだそうだ。


危険を顧みずこのような辺境まで諜報の為にやって来るとは全くご苦労な事ではあるが、実のところ魔道具に関する基礎的な技術は、ベニスでは左程厳しく秘匿されて居る訳では無い。どの道魔道具の活用と普及には質、量共に安定した魔石の供給が不可欠なのだ。極一部の智慧者たる魔術師が魔道具の技術を独占し、情報を秘匿していた頃から時代は変わった。直接技術を盗まれた魔道具の技師達にとっては噴飯ものだろうし、場合によっては他の迷宮都市の怒りを買うかもしれないが、惜しくも盗まれたという体にすれば言い訳も利く。今では寧ろそんな連中が魔道具の技術をより世に広めてくれた方が、高品質な魔石を量産できるベニスにとっては都合が良いのだ。


だが、此処に至り一つの騒動が起きる。

ベニス周辺に存在する幾つもの迷宮の内、他を圧倒する魔石の採取量を誇る迷宮『古代人の魔窟』において、迷宮探索者達が次々と行方不明となるという物騒な事件が起きたのだ。とは言え、迷宮の中で探索者が行方知れずになることは別段珍しい事では無い。更には、同時期に迷宮群棲国の北方の国々から大規模な衝突の動きが伝わっている最中であったのだ。一迷宮どころではない動乱の陰に隠れて、『古代人の魔窟』の騒動は当初は殆ど問題視される事は無かったようだ。


その後集められた情報によれば、その集団失踪の原因は迷宮『古代人の魔窟』特有な魔物である通称「異端者」によって引き起こされた事態だと推測された。「異端者」は凶悪な魔物ではあるが、その出現自体はそこまで珍しいものでは無い。恐らくは普段より強力な個体が出現したのであろうと考えられた。


国家規模の騒乱の最中とは言え、高品質の魔石を安定して採取できる迷宮『古代人の魔窟』は数ある迷宮の中でもベニスにとって最も重要度が高い迷宮である。しかも、今回はその行方不明者の数の多さと比較的安全な層でも事件が頻発したことにより、次第に些末な出来事とは見做されなくなっていったようだ。私の父である領主は狩人と傭兵のユニオ・アーデムに対してベニスの領主として正式に討伐を要請した。魔物の通り道は狩人だけが知る、と言う奴だ。迷宮の魔物を狩るならその道の練達者共に一任した方が、余計な金も手間も掛からないと見做したのだろう。


だが、結果は想定外の事態となる。狩人と傭兵のユニオ・アーデムから招集された討伐隊が、諸共に迷宮内で行方不明となったのだ。しかも、折り悪くその知らせの後、北方の動乱に乗じたのか南の蛮族の国ウン・パジュシが突如プラ・エ・テラニスへと本格的に牙を剥いたのである。


プラ・エ・テラニス現国王からの王令を受け、ベニスでも直ちに侵略者共を討伐する軍勢が編成されることになった。それを率いるのは私の兄であるベニスの第二王子に決まった。そして私に対しては、父から迷宮『古代人の魔窟』にて猛威を振るう「異端者」の討伐の命が言い渡された。父は何時も私を戦場へ送る時のように、苦渋の表情で命を下していた。私を危険な任務へ送るのは、恐らくは姉達や王妃の差配も関与しているのであろう。私は今更気にしていないのだが。


カール・ダカ・シーカの試練を乗り越えたものの、未だ戦場の経験の浅い兄に対して、私は戦の準備を手伝いながらも戦場での立ち回りと心得に関して口酸っぱく言い聞かせ続けた。兄はそんな私に苦笑いしつつも、頭を撫でながら礼を言ってくれた。私は兄の武運を祈りつつ、慌しく戦場へ出立するその姿を見送った。


「異端者」の討伐はかつて父が私の護衛にと付けてくれ、今では私の子飼の部下となったシーカ達と共に遂行する事になった。今や慣れ親しんだ顔ぶれである。それに少人数な事もあり、討伐の準備は兄達の戦支度の添え物のようなものであった。準備は特に不都合が起きる事も無く、想定以上に速やかに行われた。


迷宮『古代人の魔窟』の異変については既に都市中で広く知れ渡っており、耳聡い迷宮探索者達はとうに迷宮に寄り付かなくなっていた。だが、魔石の採取だけに限るならば、実は『古代人の魔窟』の他に一般には開放されていない同系統の迷宮が存在する。そしてまた、一般には秘匿されている同系統の迷宮が更に二つも存在する。その秘匿された二つの迷宮は他と比べて小規模であり、その内部構造から迷宮というよりは古代人の墳墓ではないかと考えられている。無論、それ等の立ち入りは許された者以外固く禁じられている。その理由は単に秘密の魔石採取場だからというだけでなく、規模こそ小さいがその墳墓は入口直下から『古代人の魔窟』の中層域に相当する危険な魔物が出没する為、非常に危険なのだ。


これ等の言わば『古代人の魔窟』の予備である迷宮により、例え『古代人の魔窟』の立ち入りが困難になった場合でも魔石の採取量を賄う事は十分に可能だ。だが、迷宮により齎される恩恵は単に魔石だけでは無い。それより重要なのはやはり人、なのだ。迷宮都市の活気と発展の為には、迷宮に惹かれて集まる幾多の人々のその営みこそが重要なのだ。幾ら秘匿された迷宮で魔石を採取して積み上げようと、其れを役立て、商う者達が居なければ、それは倉庫に眠る空壺と同じ価値でしかない。


或いは其れを以て周辺都市や国に売り捌いて莫大な利益を得ることも考えられるかもしれない。だが、其の果ては王族や貴族達の懐が無為に肥え太るだけであろう。それに、其れ等秘匿迷宮における魔石の採取量が厳格に規制されている現状ですら、その利権を巡っては様々な駆け引きや謀略が行われていると聞く。もしそのような手法に舵を切れば、魔石の採取権を巡る都市内部での凄惨な争いの切っ掛けとなりかねない。


其れ等の理由から、ベニス周辺で最も高名で人が集まる迷宮でもある『古代人の魔窟』の騒動が此のまま続くのは非常に拙い事だ。この度、父から私に「異端者」討伐の命が下ったのも、『古代人の魔窟』で起きた騒動の影響が既に市中に出始めているのを憂慮したからだと思われる。


兄を戦場へと見送ったその翌日。

魔物討伐の仕度を整えた私達は、隊列を維持しながら城から貴族街を抜けて平民街への門を潜ると、大勢の民衆の歓声に迎えられながら迷宮へと向かった。歓声に応えながらも、私の心中は少なからず張り詰めていた。その理由は今回の標的にある。諸事情により討伐隊に十分な戦力を揃えられなかったと釈明するユニオ・アーデムの報告書には私も目を通したが、其れでも彼等は魔物討伐の専門家と言って良い。其の討伐隊がむざむざ返り討ちにあったのである。果たして相手は尋常な魔物なのであろうか。私の胸の内には言い知れぬ不安が暗雲のように広がっていた。


そんな不安を押し殺しつつも、迷宮の入口で騎獣から降りた私は、部下のシーカ達や物資を背負った城付きのサリサス達と共に迷宮の中へと足を踏み入れた。


迷宮の内部は文字通り魔物で溢れていた。この迷宮には以前も入った事があるが、あの時とは襲ってくる魔物の数がまるで違う。とはいえ、こうなった理由は容易に想像は付いた。普段魔物を討伐する迷宮探索者達が寄り付かなくなってしまった為、魔物が異常に増えてしまったのだろう。『古代人の魔窟』では他の迷宮のように縄張り争いで魔物同士殺し合うことが無い為、この迷宮独特の現象なのかもしれない。


事前の情報によれば、迷宮の10層にある大部屋に「異端者」と思わしき巣があるという。私達は魔物を切り伏せながら迷宮を下層に向かって進んでいった。隊列の中央で守られるサリサス達を除けば、浅層の魔物程度で苦戦するような者は討伐隊の中には一人も居ない。特に今回都市の守護隊から私達に与力してくれた三人の熟練シーカは、私より遥かに上の実力者揃いだ。彼等は重厚な得物をまるで小枝のように扱い、複数の魔物を纏めて苦も無く両断してゆく。その頼もしい雄姿を見て、私の胸の内から離れない不安も幾分か和らいだ気がした。


そして到達した迷宮の第4階層目。私達は遂に、標的である「異端者」と遭遇した。


4層の通路を歩く私の懐に入った蟲笛が突如振動した。前方を索敵する斥候からの合図だ。私と同様、合図を受けた周囲のシーカ達もお互い目で合図を交し、声を立てる事も無く「異端者」に相対する為の戦闘態勢に移行する。事前に打ち合わせた手筈通り、荷を担いだサリサス達は充分な距離を後退する。その場合、他の魔物に襲われる危険はあるが、彼等とて戦闘訓練は受けている。浅層の魔物相手ならば早々に後れを取ることは無い。


後退してきた斥候を吸収し、陣形を組みながら前進する私達の前に悠然と現れたその魔物は、黒毛の肉食獣のような姿をしていた。但しその脚は六本あり、顔には数え切れない程備わった眼を開いて私達を値踏みするように睨め付けていた。その無数の眼球は紫色に鈍く輝いており、今迄見たことも聞いたことも無い不気味な外見をしていた。体長は下手をすれば私の背丈の倍はあろうか。相当な巨躯である。野太い六本脚にはち切れんばかりに盛り上がる強靭な筋肉は、その膂力と速度を容易に想像させる。恐るべき難敵である事は一目で察せられた。


私は兜の面当てを降ろして顔を覆った。こうすると視野が少なからず狭くなってしまうが、此方は人数が揃っているので死角は互いに補える。その上、全身を甲冑で覆えば致命傷を受ける危険性をかなり軽減することが期待出来る。


私達はある程度の距離を置きつつも標的を素早く半包囲した。標的の正面で対峙するのは最も腕の立つ三人の熟練シーカだ。円盾と愛剣を構えた私は二列目で魔物の隙を伺う。後方では短弓を構えた射手が相手の動きを牽制する。そしてお互い対峙しながらも、ジリジリと間合いが狭まってゆく。


と、その直後。まるで時間を切り取ったかのように何の予兆も無く、魔物が私達に向かって飛び掛かってきた。




____その後、私達は「異端者」の圧倒的な膂力と身体能力に苦められながらも、此れまで培った魔物に対する戦術と連携により辛うじて勝利を掴むことが出来た。城内の備蓄から充分な数の回復薬を持ち出していなければ、或いは敗北していたのは私達の方だったかも知れない。眉間を私の愛剣で貫かれた「異端者」の体が崩れ始めた時は、安堵の余りその場で崩れ落ちそうになった程だ。


「異端者」討伐後、近くの退避部屋で充分な休息を取った私達は、目的の達成を報せるべく二名のシーカを地上へと向かわせた。そして残った私達は地上では無く、更に迷宮の奥にある「異端者」の巣へ調査に向かうことにした。まだ物資が充分に残っていたのと、まだ生存者が居る可能性を考慮したからである。


だが、絶望と恐怖で身を引き裂かれるような悲劇が起きたのは、それから間も無くの事であった。


恐るべき強敵であった「異端者」を討伐した直後の私達に油断が無かった、とは決して言えないだろう。重大な使命を成し遂げた私達は、昂る気持ちもそのままに、意気揚々と迷宮の奥深くにある目的地に向かって歩を進めていた。愚かにも周囲から魔物の気配が無くなった事にすら気付かぬまま。




その時、隊列の最後尾を歩いて居た三人のシーカ達が、突如その姿を消した。まるで初めからそのような者達など居なかったかのように。物音一つ立てる事無く、唐突に。


事が余りに静かに起きた為、私達はその事態に気付くのが遅れた。疑念と恐怖に抑制を失いかけたサリサス達の叫び声が耳に入った私達は、漸く異変に気付いたのだ。


だが、その次の瞬間、私は目の当たりにした。何事か叫びながら私を庇って眼前に飛び込むシーカの一人と、巨大な影によってその身体が玩具の人形のように捻じ曲がり、砕け散りながら吹き飛ばされる光景を。一瞬、あまりに非現実的な状況に理解が追い付かず、思考が停止する。そして。


視界の暗転。切り取られた刻、意識の喪失。気付いた時には私は床に這いつくばり、口から吐瀉物を吐き散らかしていた。胸と背中に重い鈍痛。我知らず口から笛のような異音が漏れるのが耳に入った。武功の恩賞として賜った此の特別な甲冑が無ければ、恐らく私はこの時命を落としていたであろう。


むせ返るような血と臓物の臭いを感じて身を起こすと、其処はまるで死と骸の神が籠る屠殺場のような有様であった。床に広がる一面の血の海と、周囲に散乱する人間の部位は一見するとまるで作り物のように見えたが、鼻を突く刺激臭と僅かに残る脈動の残滓が、其れが現実のものであると私に付き付けて来た。それらのの姿は物資を背負ったサリサス達であったのだろう。身を守る為の重く頑強な甲冑を纏わぬ彼等は、恐るべき不意打ちに対して一溜りも無かったに違いない。


そして、私の眼の先には未だ無事でいた何人かのシーカ達と・・恐るべき埒外の化け物の姿があった。全体像を把握できぬ程巨大なその異形を見上げた私の身体は、恐怖によって怯えるチーチクのように震えた。私に背を向けた化け物は、口?に咥え込んだシーカの身体を、悍ましい咀嚼音と共に甲冑ごと貪り喰らっていたのだ。


そんな光景を目の前に見せられた私はただ、ただ恐ろしかった。


だが、其れでも尚。未熟ながらも戦士として鍛え上げられた私の身体は、無意識の内に行動を始めていた。床から身体を引き剥がすように立ち上がった私は、半ば朦朧としたまま化け物の巨体に向けて即座に疾走った。兜は何処かへ吹き飛び、円盾も外れてしまっていた。だが幸い、革帯で頑丈に固定されていた剣と鞘はまだ腰に挿さったままだ。


「姫様っ!?」

私の覚醒と動きに気付いた誰かの取り乱した声が耳に入る。だが。


「ハアアアアッ!」

踏み込みと同時に剣を鞘から抜き放ち、一閃。

裂帛の気魂を込めた剣閃が、化け物の身体に吸い込まれ・・。


パンッ

乾いた音と共に、私の渾身の一撃はあっさりと弾き飛ばされた。未だ銘付けていないものの、今迄幾多の危難を斬り払ってきた私の自慢の一振りが、事も無く。まるで出来損ないの玩具の木剣のように。


化け物はまるで何事も無かったかのように部下だった死体を貪り続けている。


私は剣を弾かれた態勢のまま、呆けたように立ち尽くしていた。

自分が幼い頃の、独りでは何も出来ない無力な小娘に立ち戻ったような気がした。いや、私は未だ無力な小娘でしか無いのだと痛烈に思い知らされた。


そして次の瞬間、化け物は其の巨体を僅かに揺らして、悍ましい二つの貌をゆっくりと私へと向けた。


「ヒッ!」

心の臓を氷の爪で掴まれたような感覚に、全身が総毛立った。ハッキリと悟った。最早逃げることも、まして倒す事など到底叶わぬ。自分もまた、哀れな部下のように直ぐにこの化け物に貪り喰われる事になるのだと。


だがその時、何者かが私を背後から拘束し、後方へと引き摺り込まれた。化け物は私ごときの動きには歯牙にもかけず、再び獲物を貪り始めた。


私は恐怖により硬直した肉体を叱咤して背後に顔を向けると、其処には僅かに生き残ったシーカ達の姿があった。誰もが皆、満身創痍の様相であった。それでも彼等は、私に対して笑顔を向けてくれた。何故彼等は、こんな時に穏やかな顔をしていられるのだろう。


「姫様。生きておられる。あぁ、よくぞご無事で。」

彼等の一人が、笑顔で私に言葉をかけてくれた。だが、その表情は直ぐに別のものへと一変した。


部下の一人が目で合図をすると、私は屈強な熟練シーカによって、有無を言わさず荷袋のように肩に担がれた。だが、良く見れば彼の巨躯も全身鮮血に染まっており、応急の止血が施してあるとはいえ右腕が肘から消失していた。誰かの荷を担いで横に並ぶもう一人の熟練シーカも、鎧の隙間から少なからず出血が見て取れる。


「我らの中で最も手練れの彼等が護衛します。姫様は此の場からお逃げください。」


「離しなさい!我だけが逃げるなど!」

部下の話を聞いた私は逆上した。馬鹿な。今更私一人おめおめと生き残ってどうなるというのか。拘束を解こうと暴れるが、先程恐怖に竦み切った身体は思い通りに動かなかった。硬直した手は未だに剣を握ったままだ。


「離せっ。我も戦う!」


「今しか無いのです。幸いにもあの化け物が動きを止めている今が、最初で最後の好機です。」


「ならば、ならばせめて皆で・・・。」


「それは無理でしょう。奴の動きは此方よりずっと速い。武装した我々では、あの化け物から逃げ切るのは不可能です。我々が餌になって奴を食い止めれば、姫様だけならば或いは・・・てところでしょう。」


「しかし・・!」


「獲物を貪りながらも、あの化け物は我々から一時も目を離してはいません。逃げる動きを見せれば、直ぐさま襲い掛かって来るでしょう。」


「さあ、早く行ってくれ。アレを喰い尽くせば、奴は直ぐに動き出すぞ。」


「おさらばです。」


「あの化け物は決して通しませぬ。」


「主命に背く行為、どうかお許しを。」


「姫様。どうかご無事で。」




「ああっ、待って・・。」


だが私の願いを黙殺し、彼等は躊躇うこと無く部下達を置き去りにして走り始めた。その直後、響いて来た激しい戦闘音や悲痛な叫び声は、あっという間に遠ざかって行った。



____その後、私を担いで走り続けた熟練シーカによって、私はあの化け物の気配が完全に無くなる場所まで逃げ切ることが出来た。すると彼はその命を燃やし尽くしたかのようにその場に倒れ、そのまま息を引き取ってしまった。


私とて貴人の端くれながら何度も戦場に立ってきた女だ。実際、戦いに散っていった者達を今迄何人も看取って来たし、部下達の死を受け心構えはしてきたつもりであった。だが、今回の悲劇は未熟な私にはあまりに堪えた。無為に泣き叫ぶような事はしないまでも、私の脆弱な心にはこの悲しみと恐怖、そして無力感はあまりに耐え難かった。



「良いですか姫様。水と食料にはまだ余裕がありますが、残念ながら迷宮の地図は持ち出せませんでした。くれぐれもお聞き下さい。糧食に余裕があるうちは無暗に動かない事。浅層とは言え魔物との戦闘は出来る限り避ける事。周囲から魔物の気配が消えた時は身を隠す事。あとは・・。」


そして傷付きながらも最後まで残った彼は、瀕死の状態で抱き抱えられながらも淡々と私に注意を促して・・そしていつの間にか動かなくなっていた。熟練のシーカである彼らしい最後だった。



____其れからの事はよく覚えていない。私はあの化け物の陰に怯えながらも、最後の熟練シーカの言葉に従って出来る限り歩き回ることを避け、碌に休息を取る事も出来ぬままひたすら救助を待ち続けた。


そのままどれだけの間待ち続けただろう。薄暗い迷宮の中で怯えながら孤独に救助を待ち続ける日々。節約していた水と食料はいよいよ乏しくなり、私は遂に覚悟を決めた。此のまま助けが来なければ、恐らくは餓死するより先に魔物共によって食い殺されるだろう。それならばいっそ・・・。


そんな時だった。空虚に救助を待ち続ける私の前に一つの影が現れたのは。

初めは魔物かと訝しんだ私だったが良く見ると、動く影は魔物では無い。其れは確かに意志ある人の動きだった。私は高鳴る鼓動と共に、その人影に向かって走った。実の所、その人影は私を救助しに来た者かどうかなど定かでは無かった。だが、もうそんな事はどうでも良かった。


だがそんな私を迎えたのは、人影から発せられた凍り付くような殺意と、凄まじい勢いで繰り出された致命の一撃であった。


「しゃあっ!」

精悍な気勢と共に視界に広がる拳を見て、反射的に身を躱そうとしつつも私は己の死を受け入れると共に、少しだけ安堵した。辛い事ばかりだった短い人生だったが、此れで私も漸く楽になれるのだと。


だが、次の瞬間。衝撃と共に頭蓋を揺らす強烈な痛みと視界一杯に明滅する光が、私を現実へと力強く叩き返した。


「ぎゃああああぁ!」

私は恥も外聞も投げ捨て、悲鳴を上げながら迷宮の床を転げ回った。無慈悲に叩き込まれた生々し過ぎる肉体の痛みは、私の心に溜まった澱みまであっという間に吹き飛ばしたように思えた。


そして私は余りの痛みにそのまま頭を押さえて蹲っていたが、そんな私に誰かが頭上か声を掛けてくれた。私は何事かを考えるより先に、目の前に見えた力強い人影に向かって縋る様に抱き付いた。迷宮の中で相手は武装してるはずなのに、私はかじり付いた頬に何故か人肌の温かさを感じた。すると、私の中に再びあの時の喪失感と恐怖が甦ってきた。私は死に物狂いで助けを求めた。


すると、何をどうしたのか委細不明であったが、いつの間にか私はその人影と向かい合って座っていた。私の目の前には小柄で平たい顔をした一人の男が、困ったような顔を私に向けていた。


「落ち着け。俺はカトゥー。ベニスの狩人ギルドに所属している。」


その間違っても端整とは言えぬ朴訥とした見た目の男は、正面から私の眼を力強く見据えていた。その瞳の耀きから視線を離せなくなった私は、呆けたように首を縦に振った。

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