(閑話6 後)

私達は改めてお互い名乗り合った。

その男はカトゥーと名乗った。風変りな名前だと思ったが、世の中には珍妙な名前の者など幾らでも存在する。例えば以前城で会った鱗人の使者は確かギュー=グー=グー=ギュー=クー=キュオーなどと名乗っていた。


カトゥーはベニスの狩人ユニオ・アーデムに所属する狩人なのだそうだ。私は訝しんだ。確かにこの迷宮の入口は封鎖されている訳では無いし、常ならば狩人が迷宮の中に居るのは何ら可笑しな事では無いが、今は非常時である。この男は何故危険極まる迷宮の中に潜っているのだろう。しかも単独で。単なる阿呆なのか、或いは稀に戦場で居合わせる厭世に囚われた死にたがりの類なのだろうか。


暫しの恐慌から漸く落ち着いてきた私は、カトゥーから手渡された保存食を頬張りながら幾らかの言葉を交わした。保存食は粗末な見た目の上味も極めて悪いが、戦場で何度も食べ慣れた味だ。此の場には毒見は居なかったが、よもや此のような状況で毒を盛られる事はあるまい。私は空腹だったこともあり、躊躇い無く保存食に齧り付いた。そして、頬張りながらカトゥーの姿を改めて観察した。


私よりも小柄に見えるその身に纏っているのは薄汚れた平服一枚。そして素足がほぼ剥き出しの粗末な履物。左腕には金属製の小さな盾のような装備を身に付けているが、正直迷宮を舐めているとしか思えないみすぼらしい軽装である。先程しがみ付いた時、頬に人肌が伝わってきたのも無理からぬ事であろう。


・・・・思い返すと我知らず頬が熱くなった。如何に取り乱していたとはいえ王族の、いや乙女にあるまじきあまりに浅ましき迂闊な言動。猛省せねば。そんな事を考えながらカトゥーの表情を盗み見ると、彼は何事も無かったかのように目を細めて保存食を実に美味しそうにもしゃもしゃと頬張っていた。


その呑気な佇まいを見た私は心中安堵した。戦場で敗者が、まして女子がどのような扱いを受けるかは私とて心得ている。その為、懐には速やかに己の命を絶つための短剣を常に忍ばせてある。如何に恩人であれど、此の様な場所で男女二人きりであれば警戒を怠ることは出来ぬ。だが、先程のカトゥーの一撃は確かに鋭かったものの、万全の状態であれば往なすことは可能に見えた。それにこの男、見た目私より更に若輩そうだし、裸同然の格好であるし、戦えば恐らく私の方が強い。万が一この男が突如醜悪な獣と化し凶行に走ったとしても、私ならば返り討ちに出来ると思われた。


言葉を交わしてみると、カトゥーは言葉が分かる様子なのに、私の話がどうにも聞き取り辛いようであった。その原因は直ぐに分かった。私が普段使用している話し方は城で教わった王族としての話法である。市井の民は聞き慣れない者が殆どであろう。カトゥーが聞き辛そうにしていた為、私は平民の言葉遣いで話すことにした。幸い、幼い頃の私は市井で過ごしていた為、話し方を合わせるのは造作も無かった。加えて私が王族だからだろうか。片言で何とも珍妙な話し方を試みるカトゥーに対し、私は普段通りに話す許しを与えた。


一体この男は何者だろう。言わずもがな、私はカトゥーに大いに興味を引かれた。話を聞くと、カトゥーの言葉遣いは随分と拙いように思えた。本人は山奥の小さな集落の出自だからと主張していた。だが、私が聞く限りその口調の拙さは、どちらかと言えば言葉を覚えてから幾らも経っていない者の話し方に近い。辺境と呼ばれるこの地でも広く浸透しているレントゥール言語は、東の大山脈の彼方より齎されたものであり、その起源は遥かいにしえの時代まで遡る。だが、幾つかの国や少数民族、或いは亜人種には未だ独自の言語が使われていると聞く。それに今のベニスには、幾多の人種・亜人種が絶え間無く往来している。カトゥーの本当の出自はもしやそういった少数民族なのであろうか。


しかしながら、私はカトゥーのような奇妙な顔立ちの人族は今迄見た事が無かった。茶目黒髪であれば、かの東の果てのソリズ=オルトスの民が思い浮かぶが、このような平たい顔立ちでは無かったはずだ。よもや幼子の枕話にある『外』界の民ではあるまいか。・・・いや、違うか。恐ろしい魔物領域を踏み越えて彼方より来たる伝説の民にしては、その、正直に言ってしまえば威厳にも秀麗さにも甚だ欠ける。


顔立ちが凶相であったり、激しく損傷していたり、或いは別段目鼻立ちが崩れているという訳では無い。人によっては一応整っていると感じる者もいるかもしれない。だが適当に切り散らかしただけの不揃いな髪、私より小柄で貧相な体格、鋭いのだか眠そうなのか良く分からない目、幼い頃よく食べたパオシュのような丸い鼻、そして丸い石を適当に削って出来た様な凹凸に乏しい顔からは、どうにも特別な風情やら威厳を感じ難い。その顔の佇まいが、何と言うか物凄く凡夫な平民然としているのだ。ついでに言ってしまうと、残念ながら私好みでも無い。私を見付けてくれた恩人に対してそのように非礼な言葉は決して口には出さないが。


私はカトゥーに此れまでの経緯と現在の窮状を説明し、彼に助けを求めた。一刻も早く、あの惨劇とこの迷宮の現状を外に報せねばならぬ・・というのは建前だ。本音は一刻も早く、この恐ろしい迷宮から抜け出したかったのだ。


だが、私の訴えを聞いたカトゥーは何事か書き留めていた紙片を差し出すと、私に向かってはっきりと告げた。彼の口から出たのは拒絶の言葉であった。


「俺は連れて行けない。」

私を真っ直ぐに見るその瞳は、冷淡な光を湛えていた。まるで魔物か虫けらでも見るかのような冷たい眼差し。其れを見てあの時の光景が再び脳裏に浮かんだ私は取り乱し、その後のカトゥーの言葉は耳に入らなくなった。


心を恐怖に支配された私は叫んだ。まるで駄々を捏ねる幼子のように。


「悪いが、俺は下でやることがある。地上には 連れてはいけない。」

だが、カトゥーは表情を変えぬまま素っ気なく私に言い放った。


端くれとは言えベニスの王族である私に対して、カトゥーの応答は尋常ならば有り得ぬものであったが、その時の私は其れを気に掛ける余裕は無かった。化け物の恐怖に怯えながら独りで助けを待ち続けるのは最早限界だった。いや、もう独りは嫌だった。誰かに縋らねば、心がどうにかなってしまいそうだったのだ。


「我も、一緒に行きたい。下に行くのでも良い。我もカトゥーと一緒に連れて行ってくれ。命・・いや、頼む。」

私はカトゥーに縋り付くような気持ちで懇願した。迷宮の奥で心身を苛み続けた孤独と恐怖は、シーカとしての矜持も、王族としての威厳も私から容易く奪い去っていた。


そんな私の姿を見たカトゥーはほんの一瞬、困惑した表情を浮かべたように見えた。だが、直ぐに冷徹な表情に戻って考えるような仕草を見せると、程なく頷いて再び私に告げた。


「分かった。ええとアリシス様が良いのなら、一緒に行こう。但し、その為に幾つか取り決めをしておきたい。」

その言葉を聞いた私は大きな安堵と共に、全身から力が抜けたように感じた。恐ろしいあの化け物が巣食う迷宮の只中で、裸同然の格好をした怪しい男と二人きりで、更には此れから進むのは迷宮の出口とは真逆にも拘らず。



「のう カトゥー。分かっておるのか?下層に行けば、あの化け物がおるやも知れんのじゃぞ。」

念の為、私はカトゥーに問い質してみた。この男があまりに平然と迷宮の奥に進む事を告げた為、私は此奴がよもやあの化け物の恐ろしさを良く分かっていないんじゃないかと疑ったのだ。


「ああ。知ってる。奴には 酷い目にあったからな。」

私の問いに対して、カトゥーは事も無げに応答した。


え!? お前、あの化け物に襲われた事あるのかよ。

それに、それだけ?あんな、あんな恐ろしい化け物に襲われたのに、それだけ?


私は淡々と荷造りを始めたカトゥーを見て身震いをした。果たして正気なんだろうか、この男は。私は早くも、先程の同行を願った自分の行為を後悔し始めた。だが、今更独りで此の場に残る選択肢はどうしても選べなかった。


カトゥーも襲われたと言うあの化け物はやはり「異端者」なのだろう。私達が倒した以外によもやもう一体居たとは。私の知る限り、今迄「異端者」が二体以上同時に出現したという記録は無かったハズだ。だが、迷宮の中では何が起きても可笑しくは無いのだ。それは迷宮探索の心得の初歩である。そして、あの惨劇は私達の慢心と油断が招いた致命的な結果だ。私は後悔と自己嫌悪によって、心が軋んだ。


カトゥーの話を聞くに、どうやらこの男は私達が向かっていたのと同じく、10層にある「異端者」の巣に向かっているらしい。そこで助けたい者が居るのだそうだ。だが、果たしてその行為に意味はあるのだろうか。私にはその者が未だ生きているとは到底思えなかった・・・。


私がカトゥーと同行するにあたり、私達は二人で幾つかの取り決めをした。リーダーはカトゥーで私は指示に従う事、道中の魔物の排除は協力して行う事、運悪く道中でどちらかが死んだ場合、遺体は迷宮に捨て置く事など。・・・そしてもし運悪くあの「異端者」に襲われた場合、カトゥーは私を助けない。彼も私の助けはいらない。その場合は二手に分かれて逃げ、後の始末は自分で付けること。


カトゥーが提示した取り決めは酷薄なものに思われたが、私は無理を言って同行させてもらうのだから妥当なものであろう。改めて思う。此の場では貴人も平民も何も無いのだ。私は頷いてその提案を受け入れた。



___「かあぁっ!ちぇちいえぇぇい!」


「えぇ・・」

暴走するオブタッドのように魔物の集団の中に突っ込んで行ったと思いきや、魔物達に殴る蹴るの暴行を加え始めたカトゥーを見て、私は唖然となった。カトゥーは始めこそ手持ちの槍を用いて魔物を倒していた。その技量を私は内心僅かな警戒と共に感心して眺めていたのだが、いつの間にか気が付くとあんな感じになっていた。


正直アタマがどうにかなりそうだ。確かに戦場では武具を失うなどして徒手で相討つ事は別段珍しい事では無い。無論、ベニスのシーカ隊にも組打ちの技術はあるし、私も剣の師であるルイストからみっちりと鍛錬は受けた。だが、お前今槍持ってるだろ。使えよソレ。


・・・はっ

呆けていた私はカトゥーの非難するような目線を感じて我に返った。羞恥で頬が熱くなる。気を取り直した私は雑念を振り払う為に一つ頭を振ると、カトゥーが討ち漏らした魔物へと斬り込んだ。



「なあ、カトゥー。お主の背中の槍は何の為にあるのじゃ?」

魔物から魔石を回収しつつも、私は聞かずにはおれなかった。


「浅層の雑魚が相手なら 素手の方が小回りが利いて回転が速いし、手足が使えるから手数が多くなる。なので効率が良いからそうしているだけだ。」

カトゥーは私の問いに対して、まるでそれが当然の事であるかのように平然と疑問に答えた。


「大したものじゃな。遥か南方には己の身体のみを強靭な武器と化す部族が居ると噂に聞いたことはあるが。」

武器持ってるのに魔物の群れに殴り込む変人なんてお前しかいねえよ。などと思いつつ、昔誰かから聞き齧った話で適当に褒めておくと、カトゥーは照れ臭そうにしていた。随分と他愛も無い男だ。実に貧乏臭い身なりをしているが、その腕前といいもしかすると実は其れなりに高貴な出自なのだろうか。・・いや、貴人はそれとなく小用を訴える乙女の前で何食わぬ顔で自分だけ用を足したり、恥を忍んで口にした私に対してなんだ小便がしてえのかなどと面と向かって言い放ったりはしない。あの時は羞恥の余り思わず手が出てしまったが、冷静に思い返してもやはり腹が立った。


恩人とは言え、此奴があまりに不埒な真似をしようとするならば、場合に依っては力づくで思い知らさねばならぬ。多分私の方が強いからどうにでもなるハズだ。回収した魔石を袋に入れながら、私はそんな事を考えていた。


「魔石は全部回収したか?」


「うむ。」


「よし、先を急ごう。」



____迷宮の中を魔物共と戦いながら進むのは、心身共に非常な消耗を強いられる。ましてあの化け物を常に警戒しながら進むとなれば猶更だ。にもかかわらず、カトゥーはまるで疲れた様子も見せず、物凄い進度で迷宮の奥へと歩き続けていた。しかも、食料や水などの重荷は全てカトゥーが担いだままである。この男は一体どれ程の体力を有しているのだろうか。 


しかも、時折私の疲労を気遣っているのか、襲い来る魔物をそれとなく自身に引き付けたり、食事の時間を殊更長引かせたりしていた。本人は上手く隠しているつもりのようだが、私には筒抜けである。人の上に立つ者である以上、常の私ならば其れを良しとはしないのであったが、その時の私は差し迫る程に疲労が蓄積していた。それに、食事を取りながらカトゥーと話をするのは悪い気分では無かった為、その気遣いを有難く受け取ることにした。


そんなカトゥーの提案で、私達は迷宮の休息所で食事と睡眠を取る事にした。正直なところ私の疲労は既に限界に近付いていた為、その提案は願ったりであった。


休息所に到着した私は小用と睡眠の為、カトゥーに甲冑の一部を取り外して貰う事にした。カトゥーは初めこそ私の指示を受けながらぎこちなく甲冑の取り外しを行っていたのだが、元々手先が器用な為か、幾度か着脱をしただけで淀み無く行えるようになっていた。


随分と着慣れた愛用の甲冑ではあるが、やはり脱いだ時には体が重圧と束縛から解放されて気持ちが良い。軽装になった私が横目で一瞥すると、カトゥーが鎧を脱いだ私の身体に見入っていた。城に居る時の私は周囲から常日頃身体を覗き見るような不快な視線に晒されていたものだが、ここまで堂々を凝視されると却ってむず痒い気分になってくる。フフ、全く仕方のない奴だ。少なからず恥ずかしい心持ではあったが、こんなもので少しでも元気が出るなら幾らでも眺めるが良い。カトゥーが婦女子に対して思いの外実直な、或いは臆病な性根をしていることが分かってきた事もあり、私は敢えて軽装になった身体を隠すこと無く見易いままにしていた。すると、何故かカトゥーは悔しそうな表情をしていた。


その後、私はカトゥーと一緒に携帯食を食べながら色々な話をした。彼は故郷を探しながら旅をしているそうだ。ニホン・・聞いたことの無い国だ。やはり彼は『外』界の民なのだろうか。他にも火起こしに散々苦労した話や、薬草を探す話、山に籠って魔物を退治する話などを聞いた。身振りを交えて大袈裟に語るカトゥーのどの話もとても面白可笑しくて、こんな時なのに私は笑いを堪え切れなかった。一方、私の話は物騒な話や暗い話ばかりで、カトゥーに詰まらないと思われていないだろうかととても気になった。


食事が終わると、カトゥーは早々に粗末な寝具を敷いて私に眠るよう指示をした。寝具に身を包んだ私はそっとカトゥーに目を向けると、彼は真剣な眼差しで迷宮の地図を覗き込んでいた。邪魔しちゃいけない・・けど、もっとカトゥーと話をしていたいな。気を引きたかったのだろうか、自然と言葉が口から出た。


「お主、よくよく見ると本当にブッサイクじゃのう。」

そう、私の周りの眉目秀麗なシーカ達と比べると少々ブサイクなのかもしれない。でも、嫌いじゃない。何時からかそんな事は大して気にもならなくなっていた。


「やかましいわっ!」

いや、こめかみに青筋を立てながら怒るカトゥーはやはりブサイクだな。くくくっ。私はカトゥーの面白い顔を見て、噴き出すのを堪えるのに苦労した。こんな面白い顔は、とても早晩忘れられそうに無い。此奴と話していると幼い頃、共に遊んだ仲間達を思い出す。彼等は今でも元気にしているのだろうか。


そんな事を考えていた私に、カトゥーが就寝を促して来た。何時までも私の我儘で邪魔をしてはいけない。私は後ろ髪を引かれる思いでそのまま目を閉じた。


その時、瞬く間に眠りに落ちた私は久方振りに、悪い夢を見なかった。





「イィカゲ オキンカイッ!」

何やら意味の分からない大音声と共に、気持ち良く微睡む私のお腹に物凄い衝撃が撃ち込まれた。


「ごぺぇ!?」

私の口から王女、いや乙女にあるまじき声が絞り出された。


あろうことか、カトゥーが私のお腹に肘打ちを叩き込んで来たのだ。何て奴だ!あの厳しいルイストにすらこんな無礼はされた事は無いぞ。・・・まあ交代時間に中々起きなかった私が悪いのだが。


そして交代して互いに睡眠を取った私達は、休息所を後にして迷宮の更に次の階層へと足を踏み入れた。


其処は迷宮の九層目。目的の場所まで後僅かの階層だ。幸い、私達は大きな支障無く此処まで辿り着くことが出来た。だがその時、前方を歩いて居たカトゥーの様子が突然変わった。そして壁や床に耳を当てたり、何やら臭いを嗅いでいた彼は私の手を取ると、そのまま手を引いて今まで以上の速度で歩き始めたのだ。


只事ではない様子のカトゥーに対して、私は何が起きたのか問い質した。答えは直ぐに返ってきた。


「気を付けろ。奴が 近くに居るぞ。」

其れを聞いた私の心臓が、止まりそうな程に大きく脈打った。


既に駆け足となっていたカトゥーが突然背中の荷物を放り出した。私が其れに気を取られていると、何時の間にか彼の姿が視界から消えていた。と、次の瞬間。私は背中から身体を掴まれ、背後へと引き摺り込まれてしまった。そして、



ヒタ ヒタ ヒタ ヒタ ヒタ ヒタ


ああ、見間違えようも無い。あの化け物だ。私の目の前に、あの化け物が居た。私から矜持と勇気、そして部下達を奪ったあの恐ろしい、化け物だ。恐怖で全身から汗が吹き出し、心臓の音が痛い程に高鳴る。私が辛うじて理性を保って居られたのは、背後から私を包んでくれる暖かい身体と腕があったからだ。私は縋る様に、私の胸の上に添えられた手を両手で思い切り握り締めた。痛かったろうに、カトゥーは呻き声一つ上げる事は無かった。


永遠とも思える時を経て、気が付くとあの化け物はいつの間にか姿を消していた。異常な恐怖と解けた緊張のせいだろうか。私の身体は意思に反して面白い様にガタガタと震え出し、目からは涙が溢れた。すると、カトゥーは私を後ろから力強く抱き締めてくれた。私は鎧を通して伝わってきたカトゥーのあたたかい体温と、心臓の鼓動を感じた。その音は私と違って静かに規則的に脈打っており、何時しか私の身体の震えは収まっていた。カトゥーは震えが止まった私から腕を離そうとしていたが、私は握り締めた彼の手を離す気にはなれなかった。



____私達は遂に、目的の階層である10層目に足を踏み入れた。


私はそれ迄とは一転してカトゥーに話し掛けることは無くなり、黙々と魔物を斬り倒しながら前に進み続けていた。何故なら、私は怒っていたからだ。


先の9階層であの化け物の脅威が去った後。何時までも手を離さない私に焦れたのだろうか。此奴はあろうことか背後から私の後頭部に頭突きをした上に、固く握っていた手を捥ぎ離したのだ。そりゃ、何度声を掛けられても素知らぬ顔をしていた私も悪いかも知れないけど、何も頭突きをする事は無いだろうに。胸がムカムカする。頭に出来た瘤が痛い。


10階層を奥に進むにつれ、通路に異様な臭気が漂ってきた。私はこの臭いを良く知っている。この臭いは、死臭だ。だが、私の認識は程無く改められる。その臭気は進むにつれて際限無く強くなっていき、かつて私が体験した事の無い程のモノとなっていったのだ。カトゥーの目があったので暫くは必死で堪えていた私だったが、遂に耐え切れずに通路の端で嘔吐してしまった。そんな私の鼻と口を、カトゥーは背中の荷物入れから取り出した布で覆ってくれた。さしものカトゥーもこの臭気は堪えるのか、盛大に顔を顰めていた。


私の前を歩いて居たカトゥーは突然私に止まる様に合図をすると、まるで音を立てずに素早く通路の先へ進んだ上に何をどうやったのか、何時の間にか天井に張り付いていた。どうやら天井の彼の下に開いているあの横穴が目的の巣の入口のようだ。すると、横穴の中の様子を伺っていたカトゥーが私に来るように合図を送って来た。


私は其処で、或いは死の神の屠殺場すら生温いかも知れぬ悍ましい光景を目の当たりにした。其の全てを言葉で言い現わす事などとても出来るものでは無かったが、目に染みる程の濃い死臭と無造作に積み上げられた無数の死体、そして其れに群がり、蠢くモノは・・。


その光景を目の当たりにした私は転がる様に背後の通路へと逃げ出し、最早人目も憚らずに胃の中が空になるまで嘔吐し続けた。



私はカトゥーの腕にしがみ付いたまま、部屋の中に足を踏み入れた。胆力は名ばかりの並のシーカなどより遥かに優れていると自負する私だが、とてもじゃないが独りでこの部屋を探索する勇気は無かった。何故カトゥーは平然として居られるのだろうと横目で彼の顔を盗み見ると、依然として盛大に顔を顰めたままなのであまり平気な訳では無さそうだった。


そして、悍ましい部屋の中を探索していた私は、偶然それを見付けた。見付けてしまった。それを見定めた瞬間、私は我知らずその場所に駆け寄ると、悍ましさも忘れて這い回る死蟲共を必死で掻き分けた。


其処に横たわっていたのは、一つの遺体だった。変わり果てた姿となってしまったが、よもや見間違える筈も無い。私を逃がす為にその命を差し出してくれた、私の大切な部下の一人だ。


私とて女であり、王族でありながらも今や戦場で剣を振るうシーカの一人だ。戦いの中で戦友や部下を失う覚悟は常に出来ているし、彼等との別れもとうに済ませた・・・ハズだ。ハズだったのに。私の目から、無意識に涙が溢れた。


私は唯祈り続けた。ああ、死の神よ。命と灯火の神よ。どうか、どうか誇り高き此の者の魂が永遠の安寧を与えられんことを。




・・・気が付くと、カトゥーは私の側から居なくなっていた。私は部下の亡骸に改めて別れを告げると、カトゥーの姿を求めて部屋の中を探し始めた。幸いにも、その姿は程無く見付ける事が出来た。


身を屈めるカトゥーの背後から近付いてゆくと、彼の前にまだ幼い子供が寝かされているのが垣間見えた。あの子が、カトゥーが探していた者なのだろうか。だが、その全容が明らかになると、私は沈痛な気持ちになった。その子の腹部は無残にも大きく引き裂かれていたのだ。その傷は見るからに致命傷。まだ生きているのが不思議なくらいの深い傷であった。


「アリシス様。悪いが 後ろを向いてくれ。背中にこいつを固定する。」

傷付いた幼子を抱き上げたカトゥーは、断固とした口調で私に告げた。

だが、この子はどう見てももう助からぬ。その行為に意味があるとは思えなかった。


「急げ!」

カトゥーの命令は有無を言わさぬものであった。最後は此のまま静かに眠らせてあげるべきではないかと思ったものの、その瞳に何処か抗えぬ力を感じた私は、抗弁することも無くその命に従った。


その後、私達はカトゥーの先導により10層の休息所に辿り着いた。此処に至るまでのカトゥーは凄まじかった。其れ迄の戦闘では恐らくは十分な余力を残していたのだろう。襲ってくる魔物達は瞬く間に斬り裂かれ、叩き潰され、引き千切られていった。扉が破壊された休息所に飛び込んだカトゥーはあっと言う間に部屋の中の魔物共を駆逐すると、私が背負った幼子の固定具を外して寝かせるよう頼んだ後、直ぐに部屋の外へと飛び出して行ってしまった。


今にも事切れそうな幼子を丁寧に横たえた後、休息所の中でカトゥーの帰りを待っていた私の首に、突如背後から何かが巻き付いて来た。私は恐怖で身の毛がよだった。その瞬間まで、一切の気配を感じなかったのだ。だが、そこから感じる温かさで其れが何だったのかは直ぐに気付いた。


カトゥー、どうして・・。

心を握り潰されるような痛みと共に、私はあっと言う間に意識を喪失した。



____意識を取り戻した私は、半ば朦朧としたまま部屋の中を見回した。

すると部屋の中央付近に横たわる幼子と、その子の肩を抱き寄せて座り込む男の背中が見えた。その様子を見た私の意識は、即座に覚醒した。


「カトゥー、その子は・・。」

私はカトゥーの背後から声を掛けた。突然あんなことをされたのに、何故か怒りの気持ちは露程も湧いてこなかった。


「ああ。死んだよ。」

カトゥーの応えは、いっそ酷薄と感じる程に淡々としていた。


だが、私の前のその背中は今まで感じていた逞しさが嘘のようにとても小さく、今にも消えてしまいそうに儚く見えた。私はその背中を抱き締めたい衝動を、精神力を総動員してどうにか堪えた。どれ程儚く見えようともカトゥーのその背中は、誰かの慰めなど拒絶しているように感じられたからだ。


その後、幼子の亡骸に布を被せたカトゥーは疲れたので寝ると私に告げると、寝転がってあっという間に深い眠りに付いてしまった。


私は見知らぬ哀れな幼子の為に祈りを捧げた後、カトゥーと並んで寝転がった。試しに頬をつついてみたり、鼻を摘まんだりしてみたけれどもカトゥーが目を覚ます気配は無かった。所在無くなった私はカトゥーの寝顔を只眺めていた。何故か飽きることも無く、何時までも眺め続けていた。



紙時計が燃え尽きる間際。カトゥーは自然に目を覚ました。

その事は嬉しい筈なのに、私の気持ちは急速に落ち込んでいった。カトゥーが助けられなかった哀れなあの幼子の事を考えていたら、今更ながら私の心に悔恨の念 が押し寄せて来たのだ。


思えばカトゥーは常に先を急いでいた。脇目も振らず、異常とも言える速度で下の階層に向けて突き進んでいた。その道中での休息も、恐らく疲労困憊だった私の為に取ったものであろう。カトゥーは恐らく私などより、あの幼子の事をずっと大切に思っている。もし、私がカトゥーに同行した故に手遅れになったのだとしたら、その咎は私が償うべきものなのだろう。


だが、そんな私に対してカトゥーは迷い無く告げた。炎のように耀く瞳を真っ直ぐに私に向けて。


「それは王女様の所為じゃない。気に病む必要は 無い。」


「それを決めたのは 俺だ。選択肢は常に俺の前に在り、決断したのは 俺だ。もし其処に咎があると言うのなら、それ等は全て俺にある。」


そして彼は言った。神ならぬ俺達には運命など見通せぬ。俺達に出来ることは、唯、力を尽くす事だけだと。だからこれ以上私は気に病むなと。もしどうしてもその苦しみを贖いたいのであれば、無為に後悔に沈み続けるよりも、その苦しみを未来の為に生かせと。


私は何も言えなくなってしまった。そして、カトゥーの瞳から目が離せなくなった。初めて出逢った、あの時のように。


「もしあいつの為に 何かしてくれるのであれば、せめて祈ってやってくれないか。」


「・・・うん。」

見知らぬ幼子・・いや、ルエン少年の為に、私は再び神に祈りを捧げた。




交代で睡眠を取った私達は、ルエン少年の亡骸に最後の別れを告げると、今度は地上に向けて歩き出した。カトゥーは一度も振り返る事無く、少年が眠る部屋を後にした。その背中からは、あの時のような儚さはもう欠片も見出すことは出来なかった。


その後、私達は下の階層に潜る時とは打って変わり、無理の無い速度を保って地上への出口に向かって進み続けた。10層から暫く気持ちが落ち込んでいた私だったが、時間が経つにつれてどうにか気持ちを持ち直す事が出来た。カトゥーは少なくとも表面上は、今迄と変わった様子は見られなかった。


そんな私達は、遂に迷宮の4層まで戻って来た。私達が出逢った階層だ。私達はこの階層の休息所で、一旦食事と睡眠を取る事にした。その際、私は何気ない風を装って、カトゥーに一つの提案をした。


「お主、我のシーカにならんか?」

幾許の名声も無ければ素性すら知れぬ平民を王族直属のシーカとするなど、ベニスでは今迄一度たりとも前例のない話である。そして、王族がシーカを自ら名指しで直属へと抜擢する。それが意味する事は・・。私の心臓は、痛い位に鼓動を打っていた。


「・・・悪いが、ならん。俺には、人に仕えるような生き方は出来ない。」

だが、カトゥーの返答は素っ気の無い拒絶であった。その言葉を聞いた私は、心が痛くて堪らなくなった。でも、私はどうにか平静を取り繕う事が出来た。何故なら、あの時と違って私を見るカトゥーの表情がとても済まなそうであり、瞳には以前背中に感じたような暖かい光を湛えていたからだ。


気を持ち直した私は、それならばと代案としてカトゥーの望みを聞いてあげることにした。王族の端くれとして私の力の及ぶ事ならば、何が何でも叶えてみせる心持であった。その提案に対して、満面の笑顔になったカトゥーは3つの願い事があると言い出した。彼奴、案外欲張りなのかも知れん。とは言え、その事を告げられた私は寧ろ嬉しくなってしまったのだが。


その後、交代で睡眠を取った私は、再びカトゥーに脱いであった甲冑を着せて貰った。カトゥーはもうすっかり慣れたもので、両腕を広げた私に手際良く各部位を装着してゆく。私はカトゥーがまるで城の傍仕えのように見えて、自然と頬が綻んだ。


「ホラ。出来たぞ。」

小気味良い音を立てて、私の背中が叩かれた。無論、甲冑の上だから痛みなど感じ無いし、カトゥーも充分手加減してくれているのであろう。だが・・ううむ、もし今の行為が城の姉達相手ならば。即座にカトゥーは連行され、有無を言わさず縊り殺されてしまうであろう。


戯れに無礼を軽く指摘してやると、カトゥーは顔色を変えて急に焦り始めた。

フフ、私に説教を垂れて頭突きまでした男が、今更何を焦っているのだろうか。


「もしかして 今迄俺はやはり 卑下不足 だった のか?」


「卑下不足?」


「あ~・・ええと、無礼 だったのか?」

珍妙な顔で平静を保とうとするカトゥーを見ていると、私は可笑しくて、楽しくて、そしてどうしようもなく愛おしくなった。未だ男を知らぬ此の身なれど、男女の機微を欠片も理解できぬような愚鈍な小娘では既に無い。自分の中のその感情にはとうに気付いていた。


「そうじゃな。この世に生まれ落ちて16年。お主ほど無礼な男は初めてじゃ。」

私はその感情が導くままに、顔を引き攣らせるカトゥーに近付いていった。


「お主は我に三つも頼み事をしたのじゃ。ならばお主も我に一つ、願いを叶えよ。」

そしてカトゥーの無礼を責め立てた私は、自分の願いを一つだけ叶えさせるよう言い包めた。・・・本当は無礼だなんて、ちっとも思っていないのだけれども。


私は両手で平たくて朴訥としたカトゥーの顔を包むと、その瞳を覗き込んだ。そして瞬きすら忘れ、吸い込まれるようにその耀きに目を奪われた。


お前の決して諦めぬ、不屈の魂のようなこの耀きは。

今ならばはっきりと分かる。


ああ、凡庸なる形姿に秘められた、未だ誰にも見出されておらぬであろうこの耀きを。もし、もし私だけのものに出来たのならば。


私はどれ程神々に感謝したであろう。


溢れ出す自分の感情にはとうに気付いている。そして同時に、何処か冷静な私の理性は理解している。互いの生きる世界を慮るならば、その想いは決して叶わぬであろうことを。だからせめて。


私はカトゥーに顔を近づけていった。お互いが、触れるくらいに近く。いや、お互いが触れ合うように。あまりに近すぎて、もうカトゥーの表情は分からない。私はただ、その美しい耀きだけを真っ直ぐに見詰め続けた。



「カトゥー。今覚えた我の顔と名前を、決して忘れるな。それが、我の唯一のお前への願いじゃ。」


「ええと。い、いつまで?」


「死ぬまで。」


私もお前の事を、死ぬまで忘れないから。




____それから、私達はさしたる災禍に見舞われる事も無く順調に歩き続け、遂に迷宮の地下1層目まで辿り着いた。此処まで来れば地上まであと一息だ。無論、1階層においてもあの化け物に襲われる可能性が無い訳では無い。最後まで決して気を緩める訳にはいかない。


私は浅層の魔物共を斬り倒しながらも、自然とカトゥーの姿を目で追ってしまう。だから何となく察せられた。遠からず、お前が私の側から離れようとしていることを。


私達は魔物を蹴散らしながら更に迷宮の出口に向かって進み続け、そして地上まで幾許も無いであろうと思われたその時。カトゥーは突然歩みを止めた。そして私に止まるよう合図を送ると、物音一つ立てずに先の通路の曲がり角へと素早く移動して行った。


まさか、まさか此処まで来てまた化け物が近くに現れたのであろうか。恐怖とそして理不尽に対する怒りで、一瞬呼吸が苦しくなった。いや、だが。考えてみればあの時のように周囲から魔物の気配は消えていないし、カトゥーも切羽詰まった様子では無い。一体何が起きたのだろう。すると、カトゥーが合図で私の事を呼んでいた。私は出来るだけ物音を立てずにカトゥーの側まで通路を進むと、彼に促されて角の先を覗いてみた。そして、私は目を見張った。覗き見た通路の先には、何やら騒がしい人間の集団が居たのだ。


その光景を見た私は思わず胸が熱くなった。遂に見付けた。私達以外の人族だ。漸く、漸く私達は人の居る場所まで帰って来たのだ。


そしてその集団の中に一際優れた体格と、端整な顔立ちの際立つ男が居た。あっ、あの派手な甲冑と容姿には見覚えがある。確か父の側近のシーカの一人であるクリファ=ルゥ=クリシャスだ。幾らか面識がある上に、名門貴族の子息でもある彼は私の婚約者候補の一人と噂されていたこともあり、その容姿は鮮明に記憶していた。しかし何故このような場所に彼が居るのだろう。しかも平民も加わっていると思しき統制に欠けた怪しげな集団を率いて。


「以前話しただろう。彼らはアリシス様の救助隊だ。」

その疑問には、カトゥーが直ぐに答えてくれた。


彼等は危険極まるこの場所まで私を助けに来てくれたのか。嬉しさに胸が熱くなったが、此処はまだ迷宮の一階層目である。何故未だこのような場所に居るのか疑問も覚えた。それに、この後彼等や城の者達にカトゥーのことをどう説明すべきだろうか。私が思い悩んでいると、突然、背後から背中を押された。


思いの外強く押された為、私は躓いて曲がり角の先まで押し出されてしまった。突然の蛮行に腹を立てた私は、カトゥーに文句を言う為に背後を振り返った。


「カトゥー?」


だが、振り返った私の目の前にはその人の姿は無く、薄暗い迷宮の通路だけが広がっていた。


「姫様!?」

背中から誰かの声が聞こえた。そして気が付くと、私の周りには大勢の人が膝を付いて頭を垂れており、目から滂沱の涙を流してる者も居た。


其れからの事はよく覚えていない。一つ確かに覚えている事は、私は大勢の人に囲まれながらも、ずっとカトゥーの姿を探し続けていた。まるで見知らぬ荒野で親と逸れた幼子のように。しかしどれだけ探しても、私が再びあの人の姿を目にする事は叶わなかった。




____「姫様、御召物の準備が整いました。姿見をご覧くださいませ。」

城に来てからからの馴染みである気心の知れた傍仕えが、私に仰々しく一礼をした。


本日は小さな式典が行われる。危険な迷宮で魔物に敗れ、行方不明になった私を奇跡的に救出した勇敢な一人のシーカが、父である領主から栄誉を授かる式典である。


あれから城へと帰還を果たした私は、「異端者」の討伐を仕損じ、多くのシーカを無為に死なせた責任により父から謹慎を言い渡された。とは言え牢に軟禁などされた訳では無く、城の外へは出られなくなったことと、何をするにも許可を得なくてはならなくなったのだ。


その間、私は戦死した部下達の家に慰問に訪れた。そしてその勇敢な最期をありのまま報告し、その忠義と勇気を讃えた。彼等は名門貴族の子息達である。流石に嫡子は居なかったものの、親族の間で将来を嘱望された者達も居たのだ。無論、私の失態が責められる事もあったが、全て甘んじて受け止めた。だが、例え彼等の親族であっても、部下達を貶める発言だけは許さなかった。


更に部下達の弔慰金の為に、私は今迄に貯めた私財を全て放出した。今、手元に残る私財は愛用の武具と、身の回りの僅かな品のみである。



傍仕えに促された私は、姿見で自分の姿を眺めてみた。白金に輝く髪は腰まで伸び、端整な顔に浮かぶ澄んだ青い瞳が正面から私を見詰めていた。精緻な肌には一点の染みも無く、鍛え上げられた身体には僅かな緩みも無い。かと言って女性らしい柔らかさや膨らみも申し分なく備わっている。我ながら随分と整った容姿に見える。


だが、淑女にしては発達した上腕の筋肉がどうしても気になってしまう。以前はドレスの召し替えなど適当に任せきりで、特に気に掛ける事も無かったのだが。


「何処か可笑しくはなかろうか。我は見目好く見えるじゃろうか。」

もし、あの人に見せたら笑われたりしないだろうか。それとも、あわよくば可憐などとと言ってくれたりするだろうか。


「不躾ながら申し上げますが、姫様は少々怖い程に美しく輝いておられます。かの愛と美の女神すら、今の姫様を妬まずにはおれぬでしょう。」

傍仕えは澄まし顔で言ってのけた。世辞も此処まで堂々としていれば立派なものだ。


「しかし我など、馬鹿力の筋肉女などと言われたくらいじゃし・・。」


「・・・何処の誰ですか、その不埒者は。御下命下さい。此の私めが直ぐにでも惨たらしく縊り殺してみせましょう。」

初めて聞くような低い声に思わず傍仕えを凝視すると、彼女の口元は憤怒に引き攣り、眉間には太い青筋が浮かんでいた。


「た、戯れじゃ。全て忘れよ。」

焦った私は慌てて命じた。


「・・・はい。出過ぎた真似を致しました。どうかお許し下さい。」

頭を下げた彼女の表情は見えない。・・少し怖い。本当に忘れたのだろうな。


因みに式典の主役は私が城に帰還する際に随伴していたクリファ=ルゥ=クリシャスである。この度の有事で私を助け出した功績は、全て彼のものということになっている。実はカトゥーは三つの願いのその一つとして、自分の事は他の誰にも話さない事。そしてもし此のまま迷宮から脱出できたならば、私を救助したその功績も全て他の誰かに譲渡することを私に約束させた。それはあまりに謙虚に過ぎると思われたが、カトゥーは「そんなんじゃない。自分の身を 守る為だ。」などとと苦笑いをしていた。


我達が城へ帰還した後、迷宮でクリファの周囲に居た者達は直ぐに何処かへと遠ざけられ、再びその姿を見る事は無かった。その事を聞いて、私はカトゥーがその時言っていた意味が漸く少し分かった気がした。


私は多くの僥倖に恵まれ、城に帰る事が出来た。だが、世の情勢は好転したとは言い難い。かの迷宮にはあの化け物が未だ居座り、兄が向かった戦場からは悪い噂ばかりが聞こえてくる。そして城の中では・・・。




「はい、姫様に対する不埒な噂話が広がっています。出所はやはり・・。」

私の背後に控える傍仕えの表情は、先程迄と一転して硬い。どうやら私が謹慎している間に、城中でクリファを始めとする救助隊と私との間の猥褻な噂話が急速に広まっているらしい。


世間は今、安寧とは程遠い情勢だ。にも拘わらず、姉達は未だ稚拙な遊興に耽っているのだろうか。周囲との接点を設け、派閥を広げることもまた王族や貴族としての務めなのかもしれぬが、生憎と城外での彼女等の評判はすこぶる悪い。それに如何に見下そうが立場は同じ一等貴族でもある。何時までも譲歩してやる謂れも無かろう。


「あまり舐めた真似をするならば、一度尻を思い切り叩いてやらねばなるまい。」


「・・・。」

私の呟きを聞いた忠実な傍仕えは、暫し呆けたように目を見開いていた。だが、程なくその整った顔に可憐な微笑みを浮かべた。


そう、もう自分を押し殺すのは辞めだ。剣を逃げ道にするのも辞めだ。普通の人よりも欲深い私はもう少しだけ、我儘に生きてみよう。己の生きたいように、生きてみよう。幼い頃の、あの頃のように。私の命を掬ってくれた、あの人のように。


そして理不尽な運命に対しては頭を垂れるのではなく、或いは黙って耐え忍ぶのでもなく、未熟なれども牙を剥き出して抗ってみせよう。掛け替えのない耀きが今度こそ、腕の中から零れ落ちないように。


「フフフ。姫様は御変わりになられました。」


「そうじゃろうか。」


「でも、一体何が姫様を変えたのでしょう。」


「・・・さあ、何じゃろうな。」


私は開いた自室の窓から、あの人が何処かに居るであろうベニスの街並みを見渡した。緩やかに舞う心地よい微風が、私の髪を優しく撫でた。


その理由は私だけが知っている

それは私と私の生き方を変えた一人の男との

小さな秘密の物語だ

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