第92話

階段の陰からハグレを注視していたのはほんの一瞬だ。俺は先程の考えを即座に撤回した。この階段から広大な空間のほぼ対面にある部屋の入口まではかなりの距離がある。ビビッて様子見なんぞしてたら間に合うモンも間に合わなくなる。最悪ハグレが俺に気付いて此方に向かってきたら、申し訳ないがどうにかしてあの連中に押し付けてズラかろう。ハグレはその巨体を不気味に蠕動させながら、ノコノコと元階層守護者の部屋に現れた迷宮探索者の集団に向かって動き始める。其れと同時に、俺は身を隠していた階段から躊躇することなく飛び出した。


俺は部屋に積み重なる死体の山を隠れ蓑にして風を切って疾走する。かつてアニメや漫画で見たような短距離走を舐めた走法なんぞでは無い。体の軸を真っ直ぐ伸ばし、腿を上げ、腕を豪快に振る全力スプリントだ。今こそ、俺はウ〇イン・ボルトを超えるっ。幸い、加工した草履のスパイクがしっかりと床に食い込み、血液で滑る床による転倒を防いでくれている。すると、豊富な餌を食いまくって活性化しているのか、死体に集っていたスカベンジャー共が俺に向かってビチビチッと撥ね飛んで襲い掛かってきた。俺は超絶気色悪いそいつらを容赦なくビシバシと手で払いのけながら入口に向かって疾走する。そして。


獲物に狙いを定めたハグレは、巨大な多足を不気味に揺らしながら部屋の中央を俊敏に移動する。その巨体を積み上がった死体の陰から一気に抜き去った俺は、奴が立ち竦む迷宮探索者達に襲い掛かる寸前に、その脇を掠める様に一気に駆け抜けた。


全ては刹那の出来事。俺は瞬時に通り過ぎる影となり、彼らには何が起きたかも判らないとだろう高を括った。だが駆け抜けるその瞬間、俺は驚愕の表情を張り付けて目を見開いたその内の一人とガッツリ目が合ってしまった。うぉい。こっちを見とる場合かっ。


だが俺は構わず其のまま部屋の入口に飛び込むと、一歩も速度を緩める事無くその場を一気に突っ切った。そして振り返ること無く迷宮の通路を只ひたすらに走り続けた。今、俺の後方で何が起きているかは出来れば考えたく無い。済まんが頑張れ。俺は此のまま逃げる。




____ぜひっぜひっはあっはあっはあっ~~。

ふしゅ~~~~~っ。ふしゅ~~~~~っ。


一体どの位走り続けただろうか。どうにか充分な距離を稼いだと判断した俺は、走る速度を緩めて荒い息を整える。ふしゅ~よ、よ、良し・・。ふしゅ~どうにか、上手くいった。ふしゅ~だが、折角久しぶりに他の人間の姿を見られたのに、恐らくアレが生前の最後の姿になってしまっただろう。望みは薄いが、一応彼らの武運を祈っておこう。俺が居ようが居まいが彼らの命運が変わることは無かったろうが、一人と目がバッチリ合ってしまったので少々後味が悪い。


因みに俺の身体はカラッカラに乾燥している為、汗は一滴も出ていない。それに今の全力疾走で、益々喉の渇きが厳しくなってきた。だが。


「クククク・・・。」

俺は一人ほくそ笑んだ。

そして、改めて手に握りしめたモノを確かめる。

俺はあの部屋を走り抜ける際、床に散らばっていた探索者達の荷袋らしきものを咄嗟に幾つか掴んでかっ攫って来たのだ。流石にあの一瞬で拾い上げられた袋は3つだけだったが、我ながら俺の手癖も随分と悪くなったモノよ。まあどうせ積み上がったあの死体が生前持ってたモノだろうし、あの世まで食料は持っては行けまい。生者たる俺が有難く使わせてもらう。では、早速開封してみようか。


結果、二つはハズレだったが、一つは当たりであった。当たりの中には動物の皮で出来た水筒と、干し肉のような携帯食が入っていた。因みに外側は血液でベトベトだったが、なんと防水加工でもしてあったのか、血は内部までは染み込んではいなかった。地上まで行くには到底足りないが、此れなら一時凌ぎには充分な量だ。毒見、などと悠長な事をしている余裕は無い。俺の身体は水分を渇望している。俺は水筒を軽く振って中身が充分入っていることを確認すると、慌てず騒がず蓋を開けて、舌を水と思われる液体で丁寧に湿らせる。一滴たりとも無駄にはしない。


その水は皮臭くて糞不味かった。だが。


ふおおおぉぉ生き返る~~~~~!


不味いけど甘露やあああ。俺は暫しの間、生きている実感と感動に打ち震えた。

人間の身体はその60%は水で出来ている。改めて思う。水って人間にとって一番の生命線なんやね。俺がまだマトモな人間の範疇に入っているのかどうかは分からんけど。


一息ついた俺は、今迄走り抜いてきた後方の様子が気になってきた。後ろを振り返ると、通路はしん、と静まり返っている。あの連中はもう殺られちまったんだろうか。此処は既に迷宮の浅層だ。今迄居た中層に比べれば、格段に安全で通り抜けるのも楽だと思っていた。だが、あの部屋とハグレを見てその前提は完全に吹き飛んだ。


確かに此処には脅威となる無数の魔物は居ないのかもしれない。だが、恐らく此の浅層があのハグレのテリトリーだ。そう考えると、寧ろここから先が本当にヤバイのかもしれない。確かに俺達は中層で奴に襲われたが、其れは恐らく偶然い近いものだろう。何故なら、それ以来一度も奴の姿を見ていないからな。・・・単に迷宮が広いから偶然遭遇しなかっただけと言う可能性も無くは無いけど。


何時までも考え込んでいても仕方ない。とっとと出発することにしよう。奴の気配を察知するのはそれ程難しくは無い。多分。水と食料さえ確保できればどうにかなるだろう。


俺は何となく重苦しい不安を胸に抱えつつも、改めて地上に向けて歩き始めた。



襲ってくる浅層の魔物どもを蹴散らしながら、体感2時間ほど歩き続けただろうか。


俺は見覚えのある頑丈な鋼の扉と再び邂逅した。あの安全地帯だ。尤も、此処が必ずしも来た時と同じ場所とは限らないけど。だが、その扉は完膚なきまでに破壊され、無残に拉げて床に転がっていた。先人たちが頑張って設置した扉が・・。俺は暫し悄然と立ち尽くしたが、気を取り直して恐る恐る扉があった部屋の中を覗いてみた。幸い、懸念していた探索者達の死体の山は見当たらなかった。だが、代わりに夥しい血痕と共に、様々な荷物や破壊された武具などが散乱していた。死体は恐らくハグレが持ち去ったんだろう。此処には最早戦闘の余韻は感じられないが、まだむせ返る様な血の匂いが抜け切っていない。此処が襲撃されてからまだ其れほど時は経っていないのかもしれん。


俺は部屋に散乱する瓦礫を検分すると、運の良いことに幾らかの携帯食と飲料水を手に入れることが出来た。尤も、大半は食い散らかされるか、漏洩して床の滲みとなってしまっていたが。


惨憺たる有様の元安全地帯の部屋を出た俺は一つため息を付くと、再び地上に向けて歩き始めた。


あの迂闊で不憫な連中を除いて

俺は他の迷宮探索者達の姿を未だ、誰も見ていない。



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