第93話
此処は迷宮『古代人の魔窟』地下8層だ。
運が良いことに、10層から9層への階段は体感半日ほど歩いた所で発見することが出来た。8層にも迷いながらも何とか上がることが出来た。だが、此処から7層へ上る階段が全然見付からない。焦りが募る。
食料と飲料水は既に余裕が無くなりつつある。しかも、下層に降りるときには度々見掛けた他の迷宮探索者達の姿が、今の所全く見受けられない。だが思い返してみると、浅層から中層へ向かって潜っていた際にも、5層目辺りより深い場所では、其れほど頻繁に他の連中と出くわす訳でも無かった。なので、偶然見掛けないだけと言う可能性も無くは無いが、あのハグレによる被害が地上から潜る連中にも影響を及ぼしているのかもしれない。となると非常に不味い。当てにしていた食料と飲料水を確保する手段が潰えてしまう。
魔物との戦闘は今のところ危険は無い。だが、問題はある。俺は魔物どもに対して、出来るだけ無駄なエネルギーを消費しない様に最小限の動きで殴り殺すことを心掛けている。だが、其れに対して浅層の魔物が弱いことが災いしている。相手の攻撃を利用したカウンターの効果が薄いのだ。なので、仕方なく腕力に物を言わせて叩き潰す事が多いだが、相手の数が多いと余計に身体のエネルギーを消耗してしまう。俺は既に魔石の回収は行っていない。今は僅かでも地上に向かって進むのが最優先だ。
____此処は迷宮の地下7層目だ。
俺は今、全裸で迷宮の天井付近にへばり付いている。
何故そんな事をしているのか。勿論理由がある。先程、俺は遂にあのハグレに再び遭遇してしまったのだ。その直前には周囲に魔物が居なくなって周囲を警戒していたので、奴の気配は直ぐに察知することは出来た。そして、どうにかやり過ごそうと捉えた気配から離れる様に通路を移動していたのだが、奴を撒くことが出来ないまま、運悪く遂に袋小路に追い込まれてしまったのだ。
そして何故俺は全裸なのか。勿論此れにも訳がある。別に俺がストリーキングが趣味の露出狂とか裸族と言う訳ではない。そもそも此処じゃ裸になった所で見せるような人も居ないし。あ、いやいやそういう事じゃない。俺が全裸になった理由は、以前死体が大量に積まれた元階層守護者の部屋に留まって走り抜けた際、死臭が服にこびり付いてしまったような気がしたからだ。幾つかの状況から判断して、あのハグレは嗅覚で獲物を探るタイプでは無いとは思う。でなければそもそも死臭が充満するあんな部屋を拠点にするとは考えられん。鼻の良い魔物や野生動物ならば、あのキッツイ死臭は耐え難いだろうからな。だが、念には念を入れておいた。見つかったら一発アウトだからな。どうだ。真っ当な理由だろ。裸になって何が悪い。
荷物や着衣は分散して周囲に撒いてある。それに、今の俺の隠形は以前とは違って十全だ。凪いだ水面のように精神を落ち着け、呼吸を浅く長く整える。
ヒタヒタヒタヒタ
そして遂に、奴の巨体が再び俺の眼下に現れた。俺は余計な心を殺して冷静に奴を観察する。相変わらず悍ましい姿だ。そして、元階層守護者の部屋では気付かなかったが、残念ながら蜥蜴リーダーに付けられた傷は既に完治しているようだ。ハグレは俺の散らばった着衣や荷物の臭いをクンカクンカ嗅いだりして周囲をウロウロしていたが、暫く経つと幸いにも天井の俺には気付く事なくそのまま姿を消した。その後、タップリ時間をかけて完全にハグレが何処かへ去った事を確認すると、俺は迷宮の床に飛び降りた。心臓がドキドキと撥ねる。ふ~どうにかやり過ごせたが、正直怖すぎるぞ。やはり上層が奴のテリトリーいや、餌場なのかもしれんな。この迷宮の広さならそう滅多に遭遇することは無いと思うが、周囲の索敵は怠れんな。だが、其のせいで睡眠が充分取れそうに無いのはかなりキツい。
____此処は迷宮の6層目・・だ。
10層で辛うじて手に入れた食料はすでに尽きた。飲料水も殆ど残っていない。肉体はスルメのように乾燥し、命を繋いできた尿も殆ど出なくなってきた。時折眩暈を感じ、身体が怠くなってきた。かなり危険な兆候だ。いよいよだな。今迄目を瞑って考えない様にしていたが、遂にアレを試すしかない。
俺は迷宮の天井を見ながら歩いて居ると、遂にソイツ等を見つけてしまった。そして、ナイフを手に残った力を振り絞って天井まで這いあがると、もぞもぞと蠢くソイツ等を手で叩き落とした。そう、迷宮のスカベンジャー共だ。俺は叩き落としたスカベンジャー共を一か所に集めた。その見た目は巨大な蛆虫や、コガネムシのようなデカい甲虫みたいな奴も居る。ううう、滅茶苦茶キモイ。だが、意を決して巨大蛆虫をナイフでぶっ刺す。すると、刺した所から濃緑の体液がブビュッと飛び出て来てきた。猛烈に臭い。ぐえええぇ。俺は半ばヤケクソになってスカベンジャー共ナイフで叩きまくる。寄生虫を警戒しての事だ。そして、
スカベンジャーの叩き一丁あがり。ぐええっ。
其処にはグチャグチャになった緑だか紫だか良く分からん毒々しい色をした液状の物体と肉?片が迷宮の床に広がっていた。息が乱れる。軽く眩暈がする。現状、腹が減りすぎてアタマがどうにかなりそうにも関わらず、手が出ない。見た目は言うまでも無いが、臭いも滅茶苦茶ヤバイ。鼻がひん曲がりそうだ。だが、一応生物から成る有機物ではある。毒かも知れんが、行くしかない。此のまま確実に死ぬよりはマシだ。俺は目を閉じ、意を決してソイツを口内に放り込んだ。
ゴベアッッ。
一瞬で吐き出した。ぐえええええっ腐り抜いた雑巾とは正に此の事か。だが、食わねば死ぬ。水分も一応含まれてそうだし、行くしかない。行くしか。うあああああっ。
俺は迷宮の床に座り込んでいる。先刻の事は二度と思い出したくは無い。俺は様々な物を代償とした結果、此処に来て新たな力を獲得した。残念ながら、覚醒したとかスキルを獲得とかそんな素晴らしいモンじゃない。今迄、俺は怪しいものを食ったときは胃腸に回復魔法をぶっ放していた。だが今回、その回復魔法を一気にぶっ放すのではなく、消化と共に時間をかけてジワジワと胃腸で発動させ続ける方法を編み出したのだ。寄生虫が居たら却って活性化してしまうかもしれんが、一先ず毒で胃腸がぶっ壊れることは防げるかもしれない。現にアレを食っても猛烈な腹痛や身体の異常は今の所起きていない。だが、だがもう二度とアレは・・。
____俺は今、迷宮の4層目を歩いている。
俺はナイフで削った迷宮の壁の破片を口の中に放り込んだ。
建材の欠片などで栄養補給など出来ようはずも無いが、腹は何となく満たされたような気はする。だが、渇きは全く癒されない。悪夢のような不味さのスカベンジャーの叩きは何度食っても慣れない。正直、食っただけで精神的に死にそうになる。しかも、此処に来て他の迷宮探索者どころか天井のスカベンジャーすらあまり見掛けなくなってきたような気がする。奴等が居ないときは壁か床でも削って腹に入れて誤魔化すしかない。目が霞む。身体に力が入らない。頭痛がする。辛い。辛い。つらい。
通路に転がる迷宮探索者の死体を発見した。頭部は潰れて脳味噌が零れ、腹からは腸がはみ出ている。ハグレにやられたのだろうか。奴が死体を持ち去らなかったのは、腹が減って無かったせいなのか、或いはもう十分食料のストックが出来たという事なのだろうか。考えた所で答えは出ないだろう。この仏さんはまだ死んで間もないのか、まだスカベンジャー共は集っていない。
・・・思わずグビリと喉が鳴る。だが、澱む意識に僅かにへばり付いた理性と道徳心が、ソコに踏み込むことを頑強に拒絶した。
俺は遺体に手を合わせると、断腸の思いでその場を後にした。食料や水はその場に残されてはいなかった。飢えと渇きにより、体力も気力も理性も崩壊しつつある。もし今ハグレに見つかったら、俺はひとたまりも無いだろう・・。
はっ。
気付くと目の前に迷宮の床があった。いつの間にか寝てしまっていたのか。
同時に、身体の各所がジクジクと痛む。不味い。
「う・・・があっ」
俺は力を振り絞って身を起こし、俺に集っていたスカベンジャーや鼠のような魔物を払いのける。だが、魔物どもは少し飛び退くだけで、逃げる様子は無い。此奴らは分かっているんだ。俺には既に抗う力が殆ど残されていない事を。くそぉ身体が重い。筋肉が弛緩して力が入らない。ふと、魔物一匹と目が合う。ソイツはニタリと卑猥に笑った気がした。糞ったれが。舐めるな、舐めるなよ。俺は震える手で鉄棒を握りしめた。今の俺の力では途轍もなく重くなってしまった、蜥蜴3号の形見を。
____おれはいま、迷宮の・・ああ、此処どこだっけ。
俺は鉄棒を杖代わりにして歩き続ける。既に意識は朦朧として、時々途切れている。うまく思考が働かない。要らない荷物は可能な限り捨てた。浅層分の魔石も断腸の思いで置いてきた。今背負っている荷物は、後生大事に持っている中層の魔石ぐらいだ。皮製の空水筒はとっくに食ってしまった。俺は引き摺るように、身体を前に進める。何故か飢えや渇きはもう余り感じられない。身体は脱力し、時折痙攣を起こす。一歩歩く度に目が霞み、視界が歪む。ああ。此れはもう。
もう、俺はだめかモしれん。
何時しか、俺はその場で崩れる様に四つん這いになった。
ココ、までか。
ごめん。ゴめんのぶさん。家族ニいひん、届けられなかったヨ。
ゴめんなビタ。もう会えそうになイ。
・・・アれ?
俺の意識は朦朧として、フワフワしている。だが、研ぎ澄まされた五感だけは何故か異常に鋭くなっていた。
くうきが流れテいル。オイシい空気ダ。何処かラだろう。
俺は其の空気に誘われるように這い進んでいった。
其処に在ったのは畳み4畳分くらいの、小さな部屋だ。いや、部屋と言うよりは壁の窪みと言ったほうが良いかも知れない。俺は空気の流れを辿ってってみると、部屋の壁の一番下の四角い石に隙間があった。壁の建材にある隙間自体は特に珍しくも無いが、其処から空気が流れ出ているのを感じる。俺は朦朧としながらも、覚束ない手付きでナイフを隙間に何度も刺し込んでみた。
ナイフを何度も刺し込む。何度も、刺し込む。すると何時しか、石がグラつくのが分かった。俺は隙間に手を挿し込み、渾身の力で石を引っ張る。そして暫く格闘していると、その石がゴロリと抜けた。俺は薄れそうになる意識を掻き集めながら考える。此れはもしかしたら迷宮の空気穴、のような物だろうか。だが、良く見ると外した跡に俺が付けた傷以外にも僅かに擦過痕が見受けられる。或いは何者かに抜け道として利用されているのかもしれない。何れにせよ、上手くいけば此処から外に出られるかもしれん。ならばやるべき事は一つだ。
俺は穴に入ろうとしたが、背中の荷物が引っ掛かった。その大きさは人一人が這ってどうにか進める程度の穴だ。いや、今の衰弱した身体でどうにか通れるくらいか。その先がもし行き止まりなら、俺は暗い穴の中で確実に死ぬだろう。だが躊躇する余地は無い。此のままでは俺はどの道もう直ぐ死ぬ。俺は苦労して背中の荷物入れを放り出すと、最後の荷物である魔石の袋を足に縛り付けて、匍匐しながら穴の中をを這い進んだ。
____一体、どの位這い進み続けただろう。
暗闇の中で、俺は行き止まりにぶち当たった。其処には出口は無かった。
ああ、マジか。なんて事ダ。くそ クソ ココで、終わりなのカ。
渇き切った瞳から涙が一筋、頬を流れた気がした。
ん?まてヨ。
だがそうなると、あの空気の流れは何処から来ていたんだよ。思い直した俺は、改めて身体の動きを止めてその流れを感じてみた。そしてその流れを目で追うと、其処に小さな光が暗闇の中から指し込んでいるのが見えた。俺は発狂した。
うわああああっ!ひかりダ。光だっ。
おおおお掘れ。掘れ掘れ掘れ掘れっ。掘れえええええぇ!
発狂した俺は、猛烈な勢いで土壁にナイフを叩き付け始めた。
まだ終わっちゃいねえっ。諦めんな。絞り出せ。前に進め。
そして遂に。俺は土竜の如く、ボコリと土の下から這い出た。其処は岩の陰であった。だが、俺は其処で間違いなく太陽の光を感じた。俺は遂に、遂に地上に帰還したのだ!やったぜえええええ!
霞む視界と意識の中で震える手でガッツポーズを決め、喜びを爆発させた俺だったが、その喜びは長くは続かなかった。俺が岩の陰から這い出ると、其処は鬱蒼とした木々に覆われていた。此処は何処だ。だが、俺の質問に答えてくれる仲間はもう居ない。暫く呆然と佇んでいた俺だったが、此のままでは埒が明かない。魔石の袋を抱え直して、あてずっぽうに歩くことにした。その足取りはフラ付きまくり、まるでゾンビか幽鬼のように見えるかもしれない。
暫くの間歩き続けると突然足場が消え、俺は足を踏み外して崖をずり落ちた。幸い、崖の高さは大した事は無かったらしい。霞む視界でボンヤリと目を開くと、遠目にあの迷宮のゲートが見えた。どうやら此処はあのゲートの外らしい。俺は遂に此処に帰ってきたんだ。だが、
俺にはもう、立ち上がる力は残っていなかった。
ゲートの周りには幾人もの人が行き交うのが見える。だが、座り込む俺を気に掛ける者は誰も居ない。この世界じゃ飢えや病気で野垂れ死ぬことなんて珍しくも無いからだ。
足掻きに足掻きまくってみたが、どうやら此処までらしい。せめて太陽の下で死ねただけでも良しとするか。俺はそのまま流れに身を任せ、目を閉じようとした。だがその時、突如目の前が暗くなったような気がした。
安らかな眠りを邪魔された俺は、ムカッ腹が立って顔を上げた。すると其処には、まだ幼い見た目の子供が俺を見下ろしていた。何だよ。
「あ、あの。あなたはもしかして カ、カトゥーさん、ですか?」
何だと!?お前は誰だ。
ボンヤリした頭で記憶を辿ってみるが、こんなガキとは今迄会った事は無い。
「おまえハ 誰ダ。何でおれのことヲ しってル。」
「ええと、僕、兄ちゃんにあなたの事、聞きました。あの、へんな顔してるので、もしかしたらって。」
兄ちゃんだと。初対面で変な顔とは失礼なガキだな。いやでも、確かに俺のようなアジア人顔はこの世界では全く見たこと無かったな。もしかしたら、俺って今迄かなり目立っていたのだろうか。
「僕、ルエンて言います。あなたにお世話になったスエンの弟、です。あの、もしよかったらこれ、飲みますか?」
幼い少年は俺に水筒を差し出して来た。おおおおっ。マジか。誰の弟とかもうどうでもいい。頼む。そいつを、そいつを早く俺にくれ。
「ありが、とウ。」
俺は必死で水筒を受け取ろうと手を伸ばす。だが、最早俺の手はピクリとも持ちあがらなかった。
其れを見た少年は、俺の口に水筒の口をそっと宛がってくれた。そして。
俺の口内に命の水が流れ込んできた。その瞬間、俺は殆ど消えかけていた小さな小さな命の種火に、再び火が灯されるのを身体の中で感じた。視界が滲む。いつの間にか、目から枯れたはずの涙が溢れていた。
そして、俺の初めての迷宮探索は、掛替えの無い数々の物を失って、漸く終わりを迎えた。
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