第91話

迷宮『古代人の魔窟』の地下11層。この階層を抜けて10層に至れるかどうかは俺にとって一つの分水嶺となる。10層よりも上の階層は所謂浅層と呼ばれる階層となり、出没する魔物の脅威度は一気に下がる。しかも、浅層の魔物達は常に迷宮探索者達に狩られまくるため、その出現頻度はかなり低い。それに、俺達が此の迷宮に潜る際、浅層までは大勢の迷宮探索者達と顔を合わせた。なので或いはそいつ等を利用することも可能だ。中層までと違い、地上に抜ける為の難易度は格段に低下すると言えるだろう。


此処までギリギリ限界まで節約したものの、俺は手持ちの飲料水も食料も既に消費し尽くした。勿論空腹も辛いが、それ以上にキツいのは渇きだ。俺の口内は渇き切り、肌は水分を失ってヒビ割れている。だが、正直なところ想像していたよりは遥かに保っている。水分補給が断たれた場合、普通ならもっと早くに力尽きていても可笑しく無いハズだ。にも拘わらず、俺は此処までどうにか歩みを進める事が出来、戦闘時にも身体は淀み無く動いてくれている。


本来わずか数日。数日水分を摂取しないだけで、人間の身体は極度の脱水症状に見舞われる。倦怠感や眩暈や吐き気、痙攣や意識の混濁、そしてあっという間に死に至る。少なくとも地球人のホモ・サピエンスならそうなるハズだ。だが、俺は体感でここ数日一滴も水分を摂取できていない。にも拘らず、激しい喉の渇きだけで意識も鮮明であるし、身体の動きにも顕著な異常は見られない。


ファン・ギザの町で狩人ギルドの教官として俺をシゴキ抜いたゾルゲの言葉が脳裏に蘇る。魔物共との幾多の戦いを経て、俺の肉体は少しずつ変質してきている。この期に及んで初めてソレを明確に実感することになるとはな。尤も、此のまま水分を摂取できなければ、遠からず同じ結果になるだろうが。


其れはともかく。この場所には一つの壁がある。迷宮の浅層と中層の境に居座る階層守護者と呼ばれる魔物の存在だ。俺達が中層へ潜って行く際には討伐されたのか或いは留守だったのかその姿は見られなかったが、ソロである俺には厄介な相手であろう。今の俺は上層の階層守護者相手ならそう簡単に後れを取るとは思わないけどな。


食料も飲料水も尽きた今の俺は危機的な状況ではあるが、どうにか浅層に転がり込めば、他の迷宮探索者に遭遇できる可能性は高い。幸い、今の俺は魔石を大量に所持している。魔石と引き換えに、水と食料を分けて貰うよう交渉する事が出来るだろう。難色を示すようなら土下座してでも頼み込む。それでも突っ撥ねられたなら・・・最悪カツアゲしてでも強奪するしかねえか。


当たり前だが俺は地球に居た頃にカツアゲなんかしたことなど無い。普通に犯罪だし。だが、今の俺は文字通りリアルに命が掛かっているのだ。形振り構っちゃ居られねえ。元より気が進むハズも無いが、いよいよとなればどんな手段でもやるしかない。勿論、相手の食料を全部かっさらうワケではない。その時は駄賃代わりに魔石を置いてせめて半分、いや、3分の1だけ頂いていこう。今の俺は中層の魔物相手でも素手で一方的に殴り殺せる。実力行使で浅層の迷宮探索者達に後れを取るとは思わない。一つ懸念があるとすれば深層へ向かう途中の連中とカチ合う事だが、良く観察すればおおよそ相手の強さの目付はできるだろう。そもそも中層ですら他の探索者を誰も見掛けなかったのに、今そんな連中が上層に居るのかどうかはかなり怪しい。


そんな訳で、俺は兎に角上層に行きたい。だが、前方に階段が見えるにも関わらず、俺の足は何故か前に進まない。何だか非常に嫌な予感がする。いや、原因は分かっている。臭いだ。階段の方向から何らかの強烈な臭いが漂ってくる。そして此れは・・・多分死臭だ。


俺は気配を殺して少しずつ階段へと歩を進める。進むにつれて死臭はどんどん濃くなってゆき、まともに呼吸をするのすら困難な程強烈なものとなった。鼻どころか、目にまで染みるような気がする。階段の上で一体何が起きている。音を立てないように背中の荷物を置いた俺は、前方の気配を探りながら階段ににじり寄り、体勢を低くして這うように登った。そして、何時でもダッシュで逃げ出せるように体勢を整えながら、そっと上層の部屋を覗いてみた。其処で見たものは。


死・・いや、死体だ。


其の巨大な空間には迷宮探索者と思われる死体が山のように積み上がり、凄まじい死臭と共に流れ出した鮮血が、まるで河か池のように床を赤く染め上げている。しかも死体には大量のスカベンジャー共が群がり、正に地獄絵図の様相だ。

そして其処には・・・あの悍ましいハグレが居やがった。


おいおいおいおい。何という事だ。いや、なんじゃあこりゃあ。

思わず吐き気を催すが、幸いにも俺の腹には吐くようなモノは何も残っていない。

此れってあのハグレの巣か何かなのかよ。其れにこの物凄い死体の数。一体何人殺られたのか。ま、まさかあの野郎。此処を拠点に上層の奴等やこの部屋まで降りてきた迷宮探索者達を片っ端から食い荒らしまくってたんじゃねえだろうな。もしそうなら、そら中層で他の連中を全然見掛けねえワケだよ。15層から帰る時までコイツに見付からなかった俺達は、果たして運が良かったのやら悪かったのやら。


更に部屋を良く見ると、此処の階層守護者らしき魔物が部屋の隅でズタボロになって蹲っていた。身体が崩壊してはいないのでまだ死んではいないようだが、此れは・・。あのハグレの周りに他の魔物の気配が無かった理由が何となく分かった。通常、此の迷宮の魔物は、縄張り争いや魔物同士の諍いで殺し合うことはまず無いのだが。恐らく迷宮の「イレギュラー」であり「失敗作」でもあるあのハグレは、その範疇から外れるのであろう。


ハグレを警戒しながら部屋の様子を更に観察していると、ふと誰かの声が聞こえてきた。空耳か?いや、良く耳を凝らすと、此れは、呻き声だ。死体の山と思われた場所からか細い呻き声が聞こえてきたのだ。うえぇ。生け捕りにされた奴等も居るのか。言うまでも無く、ソイツ等の今後の運命が超悲惨な事になるのは想像に難くない。だが勿論、俺に彼等を助けようという選択肢は全く無い。俺はヒーローさまでも勇者さまでも無いし、そんな事しても確実に死体が一つ増えるだけだ。


何れにせよ、此のまま階段を上って上層の部屋に出るのは非常に不味い。俺は間違いなくハグレに見つかってしまうだろう。俺は此処に来るまでに相当腕を上げた自信はあるが、流石にあのハグレとソロで殺り合うのは余りにも無謀過ぎる。とはいえ、俺も此のままじゃ長くは保たねえ。どうするか。


そんな事を考えていた、その時であった。


「うぎゃああ!な、な、なんだよこれぇ。」


「ひいいいいっ。」


「げえぇぇっ。」


上層の巨大な空間の入口があると思われる方向から、何人かの人間と思わしき金切り声が聞こえてきた。


何だとっ。

俺は咄嗟に階段で更に身を屈めた。


よもや他の迷宮探索者なのだろうか。俺は再び気配を殺しながら、再度ゆっくり上階を覗き見た。すると、部屋の入口らしき場所で数人の迷宮探索者らしき武装した集団が、完全に恐慌を来した様子で立ち竦んでいた。中には早くも嘔吐してる奴も居る。

正直、意外だ。これ程の被害が出ているなら、迷宮の出入りには何らかの規制が掛かったり、閉鎖されていても可笑しくないと思ったのだが。この異界を日本の常識で考えちゃイカンと言う事か。


それにしてもあの連中はよくノコノコと此の部屋に現れたな。しかもあんなデカい声出しやがって。あの死臭を嗅いでヤバいと思わなかったのだろうか。単なる馬鹿なのか、其れとも好奇心旺盛なタイプなのだろうか。


そして、其れまで彫像のようにピクリともしなかったハグレの巨体が、その声を聴いたのか、不意にユラリと動き始めた。


うおおっヤバイぞ。だがあの連中には悪いがこの絶好の機会、決して逃すまい。奴らを囮にして、タイミングを見計らって上層へ走り抜けてやる。だが、あの連中にリザードマンズ程の実力があるようには到底見えない。恐らく連中はハグレに瞬殺されてしまうだろう。なのでハグレの目を盗んで此処から飛び出すタイミングは、恐らくほんの僅かしか無い。俺は前を向いたままそっと階段を下りて置いてあった荷物を担ぐと、再び階段を上ってハグレの動きを食い入るように注視し始めた。




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