第87話

迷宮の天井近くに張り付いた俺の眼下で、蜥蜴リーダーとハグレとの苛烈な攻防が繰り広げられていた。薄ぼんやりと光る壁や床の建材と違い、光ることの無いこの迷宮の天井付近はかなり薄暗くなっている。少々覗き込んだ程度では俺の姿を識別することは困難な筈だ。尤も、ハグレの索敵能力がどれ程なのかは不明なので、この程度では安全とはとても言えないのだが。


満身創痍な上、2号の守りが潰えたことでハグレに瞬殺されるかに思われたリーダーであったが、蜥蜴属性とは思えないまるで猿のような動きでハグレの攻撃を躱わし、往なし、流し、カウンターまで叩き込んでいる。まるで命の炎を燃やし尽くすかのように。本当に凄えよ。リーダー。だが、先ほどの深手を除いて、残念ながらハグレの巨体には目に見える程の傷すら刻まれてはいない。


そして遂に。

まるで電池の切れた自動人形のように、突如リーダーの動きがガクンと止まった。恐らくは後の事など何も考えず、全てを出し尽くした事によるハンガーノックのような症状なのだろう。何れにせよそんな絶好の隙を見逃す相手では無い。その次の瞬間、リーダーの頭部は声も無くハグレの巨大な口に毟り取られていた。文字通りの死闘の末、リーダーの身体は何度かフラ付いた後、首の切断面から鮮血を撒き散らしながらゆっくりと倒れ伏した。


ふと俺の口の中に鉄錆の味が広がった。舌で確かめると、どうやらいつの間にか唇を噛み切っていたようだ。イカン、イカンぞ。落ち着け俺。


最後に残った蜥蜴リーダーを斃したハグレは、悍ましい音を立ててリーダーの頭部を咀嚼した後、そのままリーザードマンズの亡骸に食らいつくかと思いきや、ピタリと動きを停止した。俺は頭上で息を殺しながらその様子を眺めていると、奴は突如何かを探すようにグリグリと前面にある頭を振った後、


ヒタヒタヒタヒタヒタッ


物凄いスピードで走り出して、あっという間に俺の視界から消えてしまった。

まさか、コイツは俺かポルコを追っていきやがったのか。言いようの無い恐怖に背筋が凍る。まるで背中に氷柱を押し当てられた気分だ。もし俺があのまま走って逃げる選択をしていたら・・。右手の痛みと恐怖で冷や汗が頬を伝う。正直、今直ぐに下に降りたい所ではあるが、奴が此のままリザードマンズの生肉を放置するとは思えん。そのうち必ず此処へ戻ってくるだろう。今焦って下に降りて、戻って来た奴と鉢合わせたら最悪だ。ともかく今は、此のまま気配を殺して身を隠し続けるしかない。だが正直、この態勢を維持するのはかなりツライ。


因みに今、俺が足に履いているのは縄草で作った草履である。だが、其れは只の草履ではない。実は以前、俺は草履を加工して母趾球の裏側辺りに小さなスパイクを取り付けていたのだ。スパイクの材料は俺がまだ狩人見習いだった頃、ゾルゲに着せられて死ぬ程歩かされたあの錆鎧の留め金の一つである。森の中を徘徊しているうちに壊れて脱落したのをゾルゲの目を盗んでくすねておいたのだ。そして、石で削ったその金属片と木材を使って草履の加工を試してみた。その本来の目的は今のように迷宮の壁に張り付く為ではない。元々は敵に蹴りをぶち込むときにぶっ刺して怯ませる為のモノだ。何故なら草履で迂闊に前蹴りをぶち込んだ場合、下手を打つと突き指をしたり悪くすると骨折してしまう危険があるからだ。横蹴りでも同様である。空手を多少齧っていたとはいえ、大して鍛えてもいない俺の貧弱な手足では、咄嗟に蹴りが出た時の自爆がとても怖い。そこで考えたのが、加工した棘付き草履でヤクザキックをぶちかます方法である。


此の草履を作るのにはかなり苦労した。実はこのスパイク付草履には欠点がある。一つは隠密行動の挿し足で足音が立ちやすい事。次に建物内で歩いた時に、床に傷が付いて顰蹙を買ってしまう事。なので良い塩梅にスパイクを加工するのに苦労した。棘が飛び出過ぎていても駄目。尖り過ぎていても駄目なのだ。


ただ、その後この世界で身体を鍛え上げるにつれ、俺は只の人間相手であれば抜き手の要領で足指を立てて相手の急所にぶち込むことすら可能となった。その最初の実験台は、以前俺が滞在していたファン・ギザの町で、俺が迂闊にも衆目の中で浮浪児に施しを与えた様子を盗み見て、金を奪うために命を狙ってきたクソガキどもだった。正直、あの時の事は胸糞悪くてあまり思い出したくない。


因みに足指を急所にぶち込むとは言っても、相手の肉体が北〇神拳のように内部から爆発するなんてことは勿論無い。そもそも針診療の心得があるわけでもない俺は、点穴だの秘孔だのがどの位置にあるかなんて全然知らんし。俺にできるのは霞 人中 三日月 水月 金的といったメジャーな人体の急所に足指や足刀を叩き込む事くらいだ。そしてその結果、折角取り付けた草履のスパイクは今迄全く日の目を見ることは無かった。だが今、ソイツは右手を失った俺が壁に張り付く為に不可欠の仕掛けとなっている。よもやよもや、こんな迷宮の奥深くで役に立つ時が来るとはな。備えあればなんとやらだ。


其れから程なくして、俺の発達した聴力が奴の近付いて来る気配を捉えた。

その足音はあっと言う間に近づいてくると、再び奴の悍ましい姿が俺の眼下に現れた。俺は精神力を総動員して隠形の維持に努める。正直、恐怖や怒りの感情などよりも右手の激痛の方がヤバイ。いくら慣れたところで滅茶苦茶痛いもんは痛いのだ。壁に張り付く前にどうにか右手の止血は出来たものの、心拍は早鐘を打ち、呼吸も乱れている。更には発汗もある。肉体の反射や生理現象はいくら訓練したところでそう簡単に制御し切れるもモンじゃない。不出来もいいところの雑な隠形。初めは見付けられるモンなら見つけてみろやとイキッていた俺の心中も、いつしか固い決意から脆弱な祈りへと変化していた。地球の神様頼んます。どうかこの化け物に見付かりませんように。


俺の拙い信仰心が地球の神々に届いたのか、此の場に戻ってきたハグレは俺の事には全く気付く事は無く、特に周りを警戒する様子も無くその悍ましい食事を再開した。始めこそ警戒しながらその様子を伺っていた俺だが、直ぐに残った片目の瞼を閉じた。その行為が危険な事は十二分に承知の上だ。目を閉じてしまえば咄嗟の場面で反応が出来ない。だがそれでも、とても目の前の光景を見ちゃ居られなかったのだ。俺は暗闇の中、永遠とも思える地獄のような咀嚼音と生臭い強烈な臭いにひたすら耐え続けた。


そしてその時、


ボドドドッ

俺の背中に複数の何か落ちてきた。


そして、


ウゾゾゾッ

何かが俺の背中を這い回る感触。

何だなんだ!?当然、今の俺は身動きが取れない。

どうにか首だけを回してそっと背後を見ると、俺は其処で巨大な蛆虫のような気色悪い生物を視認してしまった。


うっげえええ!此奴は。

迷宮の中で何度か目撃したことあるぞ。

コイツ等迷宮のスカベンジャーどもじゃねえか。普通に歩いている時、姿が見えないと思ったらこんなところに潜んでやがったのか。うっぎゃあああキモイキモいキモい。誰か助けてえええ!


俺の眼下には絶賛食事中のハグレの巨体。そして背中には蠢く超絶キモいスカベンジャーども。あまりの状況にタマがキュンと縮こまる。ぐううおおおハグレにだけは見つかるわけにはいかん。明鏡止水、心頭滅却、動かざること山の如し。心を静めろぉ。いくらキモくても所詮は背中の肉を啄まれる程度だ。耐えろ耐えろ耐え抜くんだ。悲鳴を上げるな。物音を立てるな。そそ素数を数えて落ち着くんだ。1 3 5 6 7 11 12・・あああっ全然素数してねえ。そうだ円周率だ。円周率を数えて落ち着くんだ。お前こそ唯一無二、真の孤高な定数なのだ。3.14159265359・・・アカン思い出せねえ。地球に居た頃は30桁くらい行けたのにぃ。


だが、ある意味では此のスカベンジャーどもは俺への救い主だったのかもしれない。こいつらが背中を這い回り、背中や手の肉を啄んでくれるお陰で、俺はともすれば押し潰されそうな陰鬱な気分が一時的とはいえ完全に吹っ飛んだ。但し、其れとは異なる意味合いでまさにこの世の地獄のような状況だ。俺は何か楽しい事を思い出して気を紛らわせようとしたが、そういえばこの世界に飛ばされてからというもの、俺は心の底から楽しんだり安らいだことが殆ど無い。地球に居た頃の記憶は既に曖昧だ。


楽しい思い出は無く、記憶にある円周率のストックも早々に尽きた俺は、無心になって脳内でひたすら丸太剣を振り続けた。



__脳内で丸太剣を2000本近く振っただろうか。ふとハグレの気配を感じない事に気づいた俺は、薄っすらと閉じていた目を開けてみた。其処にはいつの間にか、ハグレの姿は何処かへ消えていた。俺は背中の不快感に耐えつつ、タップリ300秒数えてハグレの気配が完全に無いことを確認すると、転げ落ちるように迷宮の壁から下に降りた。その勢いのまま床を転げまわると、背中から大量のキモい蟲がバラバラと床に散らばった。俺は憤怒と共に蟲どもを踏み潰して回った。そして。


立ち尽くす俺の前には、食い散らかされ、最早誰とも区別がつかないほど損壊した仲間たちの無残な遺体が無造作に転がっていた。


瞑目した俺は静かに手を合わせ、彼らの冥福を祈った。

この世界には神々って奴がマジで実在するらしい。だが俺は、そんな連中への祈りの言葉は持ち合わせていない。祈る気もサラサラ無い。だから祈りも日本式だ。



どうか彼らの御霊が安らかならんことを。

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