第86話


死ね


急加速により狭まる視界と、意識の集中により雑音が排除された世界で。

全身の筋力と運動エネルギー、そして断固たる意志を集束して繰り出した槍の穂先が、超高速でハグレの眉間に捩じ込まれた。


そして次の瞬間。


俺の意識は未完で投げ出され、消去された動画のようにブツンッと断ち切られた。





___激痛により覚醒した俺の目に映ったのは、鈍く光る石材。目が覚めると、俺は迷宮の床を舐め這い蹲っていた。そして同時に身体の何処からか、灼熱の痛みが襲い掛かってきた。


ぐううううううっ


スグンッ ズグンッ ズグンッ

右だ。俺の右手から凄まじい激痛が繰り返し送り出され、神経束を伝って俺の脳に耐え難い責め苦をぶち込んで来る。息を荒げ、冷や汗を垂れ流しながら定まらない視点を痛みの元に向けると、奇妙なものが見えた。真っ白だ。俺の手から場違いに白いモノが生えている。


いや、違う。生えてるんじゃねえ。恐る恐る焦点を合わせると、俺の右手の甲からは奇妙なまでに白い中手骨が飛び出し、血液が溢れ出していた。うげえええなんじゃこりゃあぁ。


痛みや苦痛には慣れたハズなのに。あまりの激痛で動く事すらままならない。思考が乱れ、全身から絶え間なく汗が噴き出す。目尻から涙が溢れ、口からは乱れた呼吸と呻き声しか出て来ない。とても冷静に考えを巡らせるどころじゃ無い。うぎぎぎ痛ってええええあ。クッソが。一体何が起きたんだよぉ。


だが、起きたんだよぉのよぉの辺りで俺は直前の記憶を直ちに思い出した。ハグレに渾身の一撃を叩き込んだ、その瞬間の記憶を。


その時、俺の加速した思考と発達した動体視力はその光景を捉えた。ハッキリと捉えてしまったのだ。激突の瞬間、ハグレの眉間に突き刺さったかに見えた槍の穂先は一瞬で折れ飛び、柄はあり得ない角度に撓んだ後、あっけなくへし折れて弾け飛んだ。

そしてその衝撃をまともに受けた俺の右手は爆ぜるように砕け、反動で俺の身体は迷宮の床に叩き付けられた。


ああ、何てこった。俺の全てを込めた一撃は、怪物の理不尽な強度によりあっけなく打ち砕かれてしまった。身体は滅茶苦茶痛くて熱いのに、俺の心を冷たい隙間風が吹き抜けた気がした。俺の強くも無い心を諦観が蝕み始める。


だが何故、俺はまだ生きている。返すハグレの反撃で、とうに捻り潰されていてもおかしくないハズだ。俺は軋み悲鳴を上げる身体を叱咤して、上半身を持ち上げた。

すると其処には、蜥蜴リーダーとハグレが睨み合う光景が視界に飛び込んできた。


「ギジュジュジュ・・。」

ハグレが気味の悪い唸り声を上げながらリーダーを睨みつけている。獣面の上に生えている巨大な人間モドキの貌の眉間に皺が寄り、今迄とはその表情が一変している。俺の事など全く眼中にない様子だ。そしてよく見ると、その貌の右目付近に裂傷が走り、眼球が深く抉られていた。


おおおやったのかリーダー。

故意に狙ったのか或いは偶然なのか。俺と同時に動いたリーダーは、見事ハグレの脆い部位に有効な一撃を叩き込んでくれたようだ。更には全身を赤く染めて殆ど死に掛けに見える2号も、フラ付きながらもまだ直立している。物凄い根性と生命力だ。そして今迄の様子から一変して、ハグレからは攻撃の気配があまり感じられない。予想外のダメージを受けて警戒しているのだろう。何れにせよほんの一時的な物だろうが。


リーダーがこの怪物に一矢報いてくれたのは嬉しい。だが、俺は此の時戦闘の継続を断念した。失った片目、砕けた武器と右手、激痛に苛まれる肉体と精神、身体中の筋繊維と靭帯や腱へのダメージ、そして俺の渾身の一撃が全く歯が立たなかったという事実。


無理だ。俺がこれ以上何をどう頑張ってもコイツを殺るビジョンが浮かんでこねえ。其れどころか、こんな状態じゃ完全にリーダー達の足手纏いにしかならねえ。此の絶対絶命の危機に突如覚醒するだの、隠された謎のパワーが飛び出てくるだの、そんな都合の良いことは当然リアルじゃ起きるワケもない。


現実は何時だって非情なのだ。例えどれ程劣勢でも、どんな理不尽に直面しても、手持ちの札でどうにか切り抜けるしかないのだ。そして、此の化け物を殺る為に俺が使える手札は尽きた。或いは五体満足なら、手持ちの道具で足掻くくらいは出来たかもしれんが、これ以上はどう転んでもこの化け物に太刀打ちできる気がしねえ。


かくてハグレとの戦闘継続を諦めた俺だが、ハグレの敵意がリーダー達に向いているせいか、或いは既に腹を括っていたお陰か、思いの外恐怖は感じない。だが、床を這いつくばる俺の胸をジクジクと責め苛むこの気持ちは、言いようの無い虚しさと、そして火に炙られるような悔しさだ。


そう、俺は悔しいんだ。この世界に理不尽に飛ばされてから、俺は必死になって生き延びて、その為に死に物狂いで身体と戦闘技術を鍛えてきた。来る日も、来る日もそのまた来る日もずっとだ。ゾルゲの滅茶苦茶なシゴキにも耐え抜いた。数えきれないくらいの野生動物や魔物をこの手でぶっ殺して、少しは自信も付いた。なのに、結果はこのザマ。俺がこの異界で今迄やって来た事は全く無意味だったってのかよ。


俺は忸怩たる思いに心中を灼かれながらも、ハグレの注意が逸れている隙に可能な限り音を立てないようにズリズリと這って奴との距離を取った。そして、腰の小物入れからボロ布を取り出した俺は、口と左手を使ってどうにか右手の圧迫止血を試みる。回復魔法は手を潰されちまったから魔力は練れても変質が出来ねえ。どの道此の激痛じゃ繊細な魔力の変質と保持は覚束ないだろうが。だが、傷口の出血の色と量から見て、恐らく動脈は破れてはいない。まだ俺の命運は完全には尽きてないないのかもしれねえ。傷口に当てた布はあっという間に朱に染まった。止血のやり方はビタの集落に居た頃にゼネスさんに教わったが、片手では中々上手くいかない。もどかしいぜ。


その時、リーダー達と睨み合っていたハグレに動きがあった。奴の身体は一瞬動きを止めたかと思うと、その直後にプルプルと震え出したのだ。俺は迷宮の壁に背を預けて止血を試みながらその動きを警戒していると、突如ハグレの巨体に亀裂が走った。そして、その亀裂がガバリと開くと、ハグレの巨体の先端部はヌラヌラとピンクに光る不気味な口蓋と、鋭い牙が立ち並ぶ超巨大な口と化した。其処からは凄まじい悪臭と汚泥のような涎がボタボタと垂れ流され、まるで地球に居た頃、何処かの漫画で見た覚えのある悪夢のような光景だ。


そのヤバすぎる絵面を一見すると、更なる絶望的な状況に見える。だが、その光景を目の当たりにした俺は、其の中に僅かな光明を見出した。何故なら、俺の攻撃を粉砕したありえない強度の外殻と違い、ハグレのあの巨大な口蓋にはそれ程の耐久性は無いように見えたからだ。もしそうならば、奴は間抜けにも自分から弱点を晒したようなもんだ。リーダーがあの口腔内に斬り込めば、もしかするかもしれねえ。


だがその直後、心身共に俺は凍り付いた。

俺の見ている先で奴の体躯が一瞬、縮んだように見えた。が、次の瞬間。奴の巨体がまるで地球の蛇頭か或いはカメレオンの舌が獲物を捉えるかのように、発条のように凄まじい速度で伸びて2号の上半身に喰らい付いた。瀕死の2号は反応すら出来ぬまま、その上半身は半分になった盾ごと食い千切られ、あっという間に消失した。


バリボリゴリボリボリ


静寂の中、装備と盾の残骸ごと2号の上半身を噛み砕く物凄い咀嚼音が響く。俺は只呆然と見ている事しか出来なかった。


今の悪夢のような光景を見て、俺は悟った。

こ、此奴。此奴は。その気になれば何時でも俺達を、殺せたんだ。

この化け物は、今迄獲物である俺達を嬲って遊んでいたんだ。まるで猫が鼠をいたぶるように。人間の子供が虫ケラを捕まえて弄ぶように。

・・・クソッタレが。


だから。悔しいけど、ムカつくけど、ごめんよリーダー。

こうなっちまった以上、俺が取りうる手段は一つしかない。

其の判断は遅きに失したのかもしれない。もしかすると、早くに行動したポルコの方が正しい選択だったのかも知れない。だが、俺には出来なかった。その事を後悔はしていない。同じ釜の飯を食った奴らが一緒なのに、初めから後ろを向いちまう選択肢はしたくなかったから。


そして、それでもリーダーはハグレの前から動く様子は無い。仲間を全員殺られちまった彼は、最早最後の瞬間までその場から一歩も引く気は無いようだ。


そして再び、ハグレの巨体が唸りを上げてリーダーに襲い掛かった。


俺はハグレの注意が逸れているのを確認すると、地球から持ち込んだナイフを素早くホルダーから引き抜いた。そして、壁際の荷物を踏み台にして思い切り迷宮の壁を駆け上がった。更に壁にナイフをぶっ刺して、其処を支点に更に身体を持ち上げる。当然、右手を中心に身体中から痛みが走りまくるが、今更そんな事気にしている場合じゃねえ。そのまま迷宮の天井付近まで一気に駆け上がった俺は、その壁と天井の入隅に身体を貼り付け、一切の気配を殺してゆく。体勢の保持で右手が使えない分はナイフを使ってカバーする。


迷宮都市の宿屋でこのムーブを何度も練習した俺の身体は淀みなく動いた。よもや本当に使う時が来るとはな。正直、役に立っても全然嬉しくねえよ。しかも怪我の分、隠形の精度は体感4割落ちだ。だが、どうせ此のままじゃ確実に俺は殺される。例え分が悪くても賭けるしかねえ。


俺に残された最後の手段。其れは戦う事でも、逃げる事でもねえ。

其れは全力で隠れる事。そう簡単に食われてやるもんかよ。必ずクソッタレ野郎の知覚を欺いてやるぜ。


戦いには完敗した。仲間は何人も殺されちまった。でもな、こいつは生存競争だ。真の勝者は只戦闘に勝った奴じゃねえ。最後まで生き延びた奴だ。


例え此のまま一人ぼっちになったとしても、それだけは簡単には譲らねえぞ。


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