第85話

飛び散った蜥蜴4号の鮮血と肉片が俺の髪に降りかかった。

未だ頭部への衝撃で霞む視界の中、俺はその光景を呆然と見上げていた。

嘘だろ、4号。

迷宮は危険な場所。探索は命がけ。そんな事は重々承知していたハズなのに。先刻との状況のあまりの落差に、感情の切り替えが追い付かない。


「うぐっ。」

その時、激しく動き回るハグレの身体に削り取られた迷宮の壁の破片が、俺の頬にぶち当たった。うがが痛ってえ。だがそのお陰で、半ば茫然自失とした状態から幾分思考が戻ってきた。だが。


糞が。何てザマだ。

背中の荷物が無ければ、壁に叩き付けられた時に背骨をへし折られていたかもしれん。あの瞬間、俺はハグレの攻撃を咄嗟に槍で受けたハズなのに。結局、俺は訳の分からんまま吹っ飛ばされて、片目を潰されて、呆けたまま無様に這いつくばって。しかも、みすみす4号を目の前で殺られちまって。情けねえにも程があるだろ。俺は今迄一体何をやって来たんだよ。見下げ果てたぞ、クソ雑魚が。


其れとも俺は判断を誤っちまったのか?後ろに下がってケンに徹すれば良かったのか?俺らしくも無く馬鹿みたいに身体張って、赤の他人を庇っちまって。自分の命が何よりも大切な筈なのに、こんな大怪我負っちまって。


でも、でも仕方ねえだろ。考えるより先に身体が動いちまったんだから。

あの時、俺が前に出て居なければ、ポルコは確実に死んでいた。その挙句に、俺は動かなかったことを死ぬ程後悔してたかもしれねえ。先行きの結果がどう出るかなんて只の元中学生の俺に分かる訳がねえ。あの瞬間の判断で都合よく大正解を引き当てられる訳なんてねえんだ。既に出ちまった結果に、今更グダグダ悩んでても仕方無え。


大切なのは今、この瞬間だ。

腹括って気合を入れ直せ。五感を研ぎ澄ませろ。思考を止めるな、常に考え続けろ。俺は歯を食い縛りながら背中の荷物を壁際に放り投げ、側に転がっていた槍を引っ掴んだ。


だが、俺の気合入れなど関係無しに、状況は目まぐるしく変化してゆく。魔物が悠長に俺が立ち直るのを待ってくれる筈も無い。俺の前方ではハグレとリザードマンズとの凄まじい攻防が展開されていた。いや、既にリザードマンズは防戦一方だ。まるで戸板1枚を盾にして、巨大な鉄砲水を迎え撃っているかのようだ。3人共既に身体はズタボロの傷だらけで、その儚い守りは今にも決壊しそうに見える。


2号は既にメイスのような武器を捨てて両腕で大盾を保持していた。体液と大盾の破片を撒き散らしながら、死に物狂いでハグレの凄まじい攻撃に耐え続けていた2号であったが、攻撃を受け流し切れずにグラ付いた所に、ハグレの巨大な鋏を叩き込まれた。そしてその時、2号の踏ん張りが遂に限界を迎えた。


ベキャアッ


甲高い金属音と共に大盾が拉げ、2号はブリキ人形のように凄まじい勢いで吹き飛ばされて迷宮の壁に叩き付けられた。そして、金属片と大量の吐瀉物を盛大を撒き散らしながら、力無く床に倒れ伏した。


「う、う、うあああああああっ!」


「ポルコッ!?」


すると、俺の側でガタガタと震えていたポルコが4号の無残な最期や2号が倒れる姿を目の当たりにして恐慌を起こしたのか、突然俺達に背中を向けて走り出した。そして、あっという間に俺達の視界から姿を消してしまった。


に、逃げちまった。あの野郎。

だが正直、俺はポルコが逃げたこと自体を責める気にはなれん。ポルコは戦闘に関しては素人だ。こんな絶望的な光景を目の当たりにしたら、怖気付かない方が寧ろどうかしてるだろう。だが、此処は魔物がウヨウヨ徘徊する広大な迷宮の奥深くだ。戦闘もロクにできないポルコがたった独りで逃げたところで、一体どうやって生き延びることが出来んだよ。一縷の望みに賭けて、俺達と一緒に居たほうがまだマシだ。

あんのバカヤロウが。死ぬんじゃねえぞ。


気持ちが萎えないように俺はギリギリと歯を食いしばり、2号をぶちのめして不気味な薄笑いを浮かべるハグレの貌を睨みつけた。今はポルコの後を追う余裕はねえ。藁を掴んででもどうにかして此奴に一撃食らわさねば。


集中しろ。瞬きする間すら惜しめ。一瞬たりとも此奴の隙を見逃すな。俺はゆっくりと深呼吸を繰り返す。魔物の身体、特に此奴の外見は俺の知る普通の生物とは違い過ぎる。人間相手と違って先読みが通用しない。五感を研ぎ澄ませて動きを見切って、反応速度と瞬発力に物を言わせて槍をぶち込むしかない。身体が強張っていては、刹那の好機に身体が追随してくれない。俺はリザードマンズの後方で槍を構えながら、ハグレの一挙手一投足を観察し続ける。即座に動けるように身体を柔らかく保ちながら。


だが、物事はそう俺に都合よく運ぶ筈も無く。どれだけ目を皿のようにして探っても、此奴の動き、滅茶苦茶速過ぎて追いきれねえ。糞っ何が顧みずに遁走しろだよ。こんな化け物に目を付けられたら、逃げ切ることなんて出来そうにねえよ。


守りの要である2号がやられた事で一瞬、綱渡りの防御が瓦解したかに見えたリザードマンズだが、倒れた2号は直ぐに跳ね起きて、ハグレの攻撃に大盾を叩き付けて食い止めて見せた。蜥蜴の癖に凄まじいド根性だ。だが、2号が倒れ伏した僅かな時間で、リーダーと3号の身体には其れ迄の倍の手傷が刻まれていた。更にその様子を見て、どうやらハグレは手負いのリザードマンズの生命線が2号の大盾だと気付いたらしい。その恐ろしい攻撃を2号に集中し始めた。


俺の眼には、そのハグレの攻撃は魔物らしく一見雑に見える。だが、問題はその速度だ。馬鹿デカい図体にも関わらず、黒蜘蛛や猿熊なんぞとは比べ物にならねえ。そして脚 鋏 身体 尻尾 牙と僅か1体の癖に攻撃の手札が多すぎる。2号はまだ辛うじて耐えている。どうにか援護したいが、俺が身に纏うのは只の平服。一撃まともに貰っただけで、今度こそアウトだろう。しかも片目を潰された今の俺は、相手との距離感が掴みにくい。


ぐぐぐぐ、糞がっ 全然隙がねえ。情けねえが怖くて迂闊に近付けねえっ。


焦りと怒りで噛み締めた歯がバリバリと鳴る。


ボクンッと不気味な音が鳴り響き、2号の体勢が乱れた。俺は焦って2号の後ろ姿に目を向けると、盾を保持する片腕が微妙に歪んでいる。不味い、折れちまったのか。其れでも2号は尖った歯を剥き出しにして耐え続けている。


だが、此のままじゃジリ貧だ。

リザードマンズは最早ハグレの攻撃を凌ぐだけで精一杯で攻めどころじゃねえ。

俺の腰には恐るべき毒物の入ったダーティボムを忍ばせてあるが、此奴は使えねえ。あの怪物に効果があるかどうかも分からねえし、下手にぶん投げて弾き返されでもしたら、致命的な大参事だ。


俺が一向に突破口を見出せずに思い悩んでいると、戦慄する光景が視界に入った。

いつの間にか3号の足元までスルスルと忍び寄ったハグレの尻尾が、その不気味な先端の鎌首を持ち上げたのだ。死角になっている為、3号は全く気付いていない。


「危ねえっ 足元だ!」

総毛立った俺は3号に向けて叫んだが、一瞬遅かった。

跳ね上がったハグレの尻尾の先端にある棘が伸びて、3号のボロボロの鎧の隙間、臀部の辺りに突き刺さったように見えた。


「ギャアアアアアッ!」

絶叫と共に臀部と大腿部があっという間に濃紺に変色し、3号は泡を吹いてガクガクと痙攣し始めた。くそおお3号っ。やられたっ。やはりあの尻尾の液体は毒かよ。アレは神経毒か何かなのか。それにしても発症が早過ぎる。冗談みたいな即効性と毒性だ。ヤバイヤバイヤバイ。此のままじゃ直ぐに押し切られちまう。


そして更にその直後。惨劇に気を取られてしまったのか、一瞬動きを止めた2号に対して、ハグレの無慈悲な三連撃がぶち込まれた。2号は一瞬遅れて反応したものの、凄まじい破壊音と共に、頼りの大盾が縦に真っ二つに叩き割られた。そしてその勢いのまま、2号の脇腹にハグレの巨大な鋏が突き刺さった。


鮮血が飛び散り、2号の身体がグラついた。


だが、2号は倒れない。食い込んだハグレの巨大な腕を抱え込み、ガッチリとホールドした。その身体が筋肉の膨張で急激に盛り上がる。


「グキャゲラアァ!!」

2号の叫び。言葉の意味は分からずとも、その意志は即座に理解できた。

その一瞬、2号に腕をクラッチされたハグレの動きが止まった。更に2号の巨体と吹き出す血飛沫で死角が出来る。


今 だ っ !!


加速する思考と共に、俺は迷い無く全身全霊を込めて迷宮の床を蹴った。

同時にリーダーが蛮刀を振り上げて動き出す姿を、狭まった視界の端が捉える。



俺は疾走しながら上半身を目一杯捩じり込む

まるで野球の投球フォームのような大げさな構え

だが其れでいい


まるで隙だらけだぞ

それがどうした


迷宮内で大声を上げるな

しるか


残心はどうした

うるせえよ


身体の到る所から筋肉や腱がぶちぶちと捩じ切れる音が聞こえる

だが一向に構わない

只、この一瞬だけ保てばいい


唯一つ

目の前のコイツを貫く。其れだけに俺の持てる全てを費やす。

他の事は全部思考の外にぶん投げろ。後の事なんて知った事か。


その為だけに俺の全てを、この世界で培ってきた俺の全てを注いで。

2号の脇下から飛び込んだ俺は、その血飛沫を踏み越えて。


「ちぇりああああああああああああああああ!!」


眼前に迫ったハグレの獣面の眉間に向けて、全てを込めた一撃を放った。




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