もう、待てません……

古森屋睡

本編

 自分で、自分のことが嫌になるときがある。今がまさにそうだった。


「私、教科書を忘れちゃったみたい。学校へ取りに戻るから、お兄ちゃんたちは先に帰っていて」


 こちらの答えを聞きもせず、親友は笑顔で走り出す。宿題の話題が出た後、急にごそごそと学生カバンを調べ始めたから不思議に思っていたけれども、どうやら忘れ物をしたようだ。

 結果、親友のお兄さんと二人きり――大好きな人を独り占めにできること。

 親友には悪いけれども、素直に嬉しいと思ってしまった。


「行っちゃいましたね……」


 素知らぬ風に話す自分が嫌い。でも、チャンスなのは間違いなかった。


「あのバカ、教科書くらい俺が使っていたのを見ればいいだろに……」

「でもお兄さんの教科書って、二年前のものですよね?」

「中学の授業内容なんて、二年でそんなに変わらないだろ。そもそも、教科書がないとできない宿題なのか?」

「……私は、教科書がなかったら難しいと思う」

「それなら、教科書なんて頼らずに、俺に質問してくれればいいのに」


 ため息混じりの声だった。その選択肢があること自体羨ましい……なんて、私が思っているとは考えもしないのだろう。

 嫉妬する汚い一面を、お兄さんには知られたくない。

 醜い感情が知られないように蓋を閉め、笑顔の仮面をかぶり直した。


「お兄さんなら、簡単に解いてしまいそうですね」


 隣に立つお兄さんは、県下でも有数の進学校の学生。私と親友の、受験予定の高校の制服を着ていた。

 制服の着こなしも完璧で、思わず『カッコいい』と口に出しそうになった。緩みかけた頬を慌てて引き締める。


「これでも高校生だからな。ジュンちゃんも、俺に質問してくれていいから」

「あの、嬉しいですけど、お兄さんのご迷惑になりませんか? お兄さんも、自分の勉強で忙しいと思いますし……」

「そんなこと気にするなよ。俺にとっては、ジュンちゃんも妹みたいなものだからさ、二人まとめて面倒みるくらいわけないさ」


 妹みたいなもの――その言葉に、胸がズキンと痛む。

 何度も、何度も経験した、悲しい痛み。

 お兄さんに向ける『好き』の正体を知るまでは、嬉しいだけの言葉だったはずなのに……今は鋭利なナイフで抉られるような気持ちにさせる、大嫌いになってしまった言葉。でも、


「……ありがとうございます」


 お兄さんの優しさは知っている。本心からの、気遣いだとわかっていた。


「またLIMEで連絡させてください」

「遠慮しなくていいからさ。わからないことがあったら、いつでも聞いてくれ」


 妹扱いを止めてもらう方法がわからない、と言ったら答えてくれますか?

 心に浮かび上がった質問に、思わずため息をついてしまった。


「もしかして、何か悩みがあるんじゃないか?」


 失敗を後悔しても遅い。


「いえ、別に悩みなんて……ありません」

「ジュンちゃん」


 優しい声で呼ばれたと思ったら、急に手を引かれる。


「少し場所を変えよう」


 短い言葉で会話が途切れる。お兄さんの背中を見つめることしかできなかった。



        ◇



 数分間の沈黙。着いたのは、近くにある公園だった。促されるままにベンチに腰掛けると、隣にお兄さんが座った。


「ジュンちゃんの悩み、俺に話してくれないか?」


 顔を向けると、優しい笑顔で迎え入れられた。


「俺、心配なんだよ。ジュンちゃんのことも大切だから」


 ――妹として、なんですよね?


「ありがとう、ございます」


 顔が勝手に俯いていく。悩みの原因がお兄さん自身にあるなんて、気づくはずもない。本人に言えるはずもない。


「…………」


 沈黙、それ以外の選択肢が思い浮かばなかった。


「ごめん、無理を言ったよな」


 違うの、違うから――その気持ちだけで首を左右に振る。でも、お兄さんの顔は曇ったままだった。


「……私が、弱いだけです」

「弱い? そんなことはないと思うけど」


 そう思ってもらえるなら嬉しい。強い人間だったのならば、良かったのに……。


「俺は凄いなって、ずっと思っているんだけどな」

「どうして?」

「真面目で、努力家。あのバカも、ジュンちゃんのことは凄く褒めていたよ」


 親友の笑顔が頭に浮かんだ。


「俺みたいな、不真面目な人間はさ、継続することが苦手なんだよ。だから、勉強にしても、委員会の仕事にしても、地道に頑張れるところは尊敬している」

「要領が悪いだけです。効率的にできないから……」

「それでも、だ」


 短くお兄さんは言い切った。


「少なくとも、俺はジュンちゃんを尊敬しているんだ」


 大好きな笑顔で言われると、どうしても嬉しさで身体中が満たされていく。

 あれ、おかしいな……お兄さんの顔が滲んで……。


「――ジュンちゃん!?」

「あれ、あれ……あの、これは、違くて……」


 何度も、何度も、涙を拭う。でも、止まらない。止まって、止まってよ、お願いだから。

 バカみたいな焦りを募らせて、この場から逃げ出そうとした瞬間――私は、お兄さんの腕の中にいた。


「大丈夫だから、落ち着いて。大丈夫、大丈夫だよ、ジュンちゃん」


 安心させるような声でお兄さんは言った。

 何度も背中をさする手は、私なんかとは違って大きく、頼りがいがあった。


「落ち着くまで、ずっとこうしていてあげるから」


 その言葉に甘えたい気持ち、でも――これは違うんだ、と否定する気持ち。

 胸の奥深くが苦しくて。また涙が溢れそうになった。


「……ジュンちゃん?」


 そっとお兄さんから身体を離していた。もう、心が持ちそうになかった。


「私、ずっと言いたかったことがあるんです」


 涙が流れ落ちた。


「お兄さんのことが……私、好きなんです。ずっと、ずっと前から」


 ああ、言っちゃった。


「好きなんです、お兄さんが……だから、妹みたいな扱いは嫌なんです」


 酷い声、顔だってきっと涙でぐちゃぐちゃ。

 こんな告白をするなんて、少しも考えていなかった。


「私のこと、妹じゃなくて……一人の女の子として、見てくれませんか?」


 ドクンドクン、心臓の鼓動がうるさかった。

 

「俺は――」


 瞬間、耳を塞ぎたくなる。でも、できない。


「ジュンちゃん、聞いてくれ」


 両手首を、お兄さんに掴まれていた。


「俺も、ジュンちゃんに言いたかったことがあるんだ」


 何を言われるのだろう、わからない、怖い……。


「本当は、もう少し待つつもりだったんだけど」


 真剣な眼差しが向けられる。お兄さんから目を離せなかった。


「お兄さんとしてジュンちゃんを妹扱いするの、本当は嫌だったんだ」


 イヤだった、キライだった――全身から力が抜けていく。

 だから、お兄さんにされるがままだった。


「俺もジュンちゃんのことが好きだ」


 言葉の意味へ気づいたときには、お兄さんの腕の中。痛いぐらいに強く、強く抱きしめられていた。


「……もう一度、言ってくれませんか?」

「何度でも言ってやるさ」


 額と額がくっついた。


「ジュンちゃんが好きだ。俺と、付き合って欲しい」

「……はい」


 そっと顔を上げるだけで良かった。

 触れ合う唇に熱が帯びていく――それが、ファーストキスだった。


「私、お兄さんが大好きです」


 もう我慢しなくていい。待ちきれない気持ちが、言葉になって放たれる。

 頬を濡らす涙雨は、不思議とあたたかだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

もう、待てません…… 古森屋睡 @suikomoriya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ