義時さんはフィアレス 3
鎌倉幕府二代執権北条義時の時代は、源平争乱や
しかし鎌倉では内乱が相次いだ。
平安時代の藤原氏も同じような
義時さんは、運がよかったともいえるかもしれない。これらの事件の全てにおいて勝者の側に立った。しかし、ある事件においては、必ずしも勝者とは言えないだろう。
すなわち、牧氏の変、最終的には北条時政が追放されるに至った事件である。
「父上は家族思いではあった。しかし一方、
「たしかに、そういうイメージはあります。孫の源頼家を幽閉して殺害し、実朝まで殺そうとしたと」
「うむ……」
事実上の初代執権とされる北条時政は、義兄である源頼朝の死後、次々と政敵を倒した。鎌倉殿頼朝の
その時政は、牧の方という女性を後妻に迎え、その間に産まれた娘を源氏である
そして、1205年、畠山重忠の乱が起こる。
「重忠殿こそ、あの頃の鎌倉には必要な存在であった。私としても歳もさほど変わらず、義理の兄弟でもあり、盟友でもあったあの男を、なぜ殺さねばならないのか」
彼は首を横に振った。
「父上も、あの女も聞き入れることはなかった。姉上にも、どうしようもなかった。だから、私はこの手で義兄弟を」
「御父上に対して反感を抱いたのはそれがきっかけですか」
「そうじゃな。しかし、私は思うのだ。もしもあの女がいなかったなら、重忠殿を殺すことも、不孝の罪を背負うことも、朝雅殿があのような末路を辿ることも、なかったのではないか……と」
畠山重忠の乱の後、時政はついに恐るべき計画を実行しようとした。既に将軍となっていた孫の実朝を排し、婿の平賀朝雅を将軍につけようとしたのだ。そこに牧の方の口添えがあったことは言うまでもないだろう。
「これまでの父上は私情を挟まず、政敵を排除していった。そのやり方には強引なものがあったが、もとより生きるか死ぬかの世界、間違っているとは思わない。しかし、あの頃の父上は、私情で政治を行っていた。だから私たちは決めたのだ。私情を挟まず、冷徹に、故将軍が打ち立てたこの場所を守るのだと」
義時さんは姉の政子、弟の時房、有力御家人の三浦義村、
「そのあと、御父上はどうなったのですか」
教科書やネットには追放後の時政のことは載っていない。しかし1205年に追放されてから、十年も彼は生き続けたのだ。そこには語られぬ歴史があるはず。
恐る恐る尋ねると、義時さんは「ああ」と一息もらし、口を開いた。
「たまにウナギやら魚を送ってくるようになったな」
「……ん?」
「
「んー……えっと……」
「知らぬか。伊豆は古くから有名な
「いやそうじゃなくて。追放したんですよね?」
「うむ」
「なのにやり取りがあったんですか」
「姉上は絶縁だと言って聞かなかったが、腐っても親子じゃ。一度も関わりのない方が不自然というものだ」
「そうですけど……」
「負い目があったのもたしかよ。父親を追いやるという不孝の負い目がな。ただそれは私情に他ならないだろう?」
「……そうですね。だから、鎌倉には戻さなかったのですか」
義時さんは神妙な面持ちで頷いた。
「苦しかった、でしょう」
そう声をかけると、義時さんは顔を上げて眉をひそめ、僕を見つめた。
「孝と公の挟間で、苦しかったですよね」
「そなた物分かりがよいな」
「恐縮です」
「まあ、不孝の身であることに変わりはないがな」
義時さんはやはり自嘲げにわらった。もう少し自分に優しくしてもいいだろうに。妥協を許さない政子さんや頼朝さんの側に、ずっといたからだろうか。
(*)万葉集にある歌で「痩せていても生きていられれば良いじゃないか、ただ鰻を捕るために川に入って、流されたりしないように気をつけなさいよ」的な意味。もちろん時政がウナギを贈ったという史実はないけれど、そんな風だったらいいよね。
(**)北条時房・・・義時の異母弟。甥泰時の時代に連署として活躍。
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