隆家さんは救世主? 4

「貴族のおじさんまだいるの?」


 お茶を沸かしていると、背後から声がした。

「おー、すず。うん、まだいらっしゃるよ」

「お茶出したら、すごく喜んでたけど」

「ふうん、引き留められなかったの?」

「共にどうじゃって言われたけど、兄が来ますのでって……」

「一緒にいて差し上げればよかったのに」

「いや、前、……失敗しちゃったから」

 涼は伏し目がちに言った。きっと記憶を失っていたマリーさんにあの事実を伝えてしまったときのことを言っているのだろう。

「でもあれは仕方ないよ。涼はマリーさんが記憶を失ってるのを知らなかったわけだし、エリーさんもかえってよかったって言ってたし」

「ん……でも」

「まあ強制はしないけど、今度はちょっと話してみれば。歴史好きなら、興味あるだろ?」

 肩を叩いてそう言うと、背の低い弟は小動物のような瞳を僕の方に上げ「うん」と頷いた。



 さて再び部屋に戻ると、隆家さんは僕のバッグに入っていた教科書を読んでいた。

「叔父上のことばかりじゃな」

「道長さんのことですか。今から見てもすごい権力者ですからね」

「うむ……。あの方が権力を手に入れられたのは、油断をしなかったからだろうな……」

「油断、ですか」

「そちも知っておるだろう。叔父上は本来、権力を握れる位置にはいなかった」


 家系図を思い出す。道長には上に道隆、道綱、道兼という三人の兄がいた。道綱については母が違ったため競争相手にはならなかったが、それでも二人の兄がいる状況ではいち早い出世は望むべくもなかった。


 そんな道長が権力者の座につけたのは、いろいろな偶然の重なりの賜物だった。

 兄道隆が急死したこと、あとを継いだ道兼も急死したこと、競争相手となった道隆の子で甥の伊周が花山法皇に弓を射るという大事件を起こしたこと、などなど。


 ただ同時に隆家さんのいうことももちろんあるだろう。つまり、道長は、一度手に入れた権力を失わないように徹底した政略をめぐらしたのだ。それは良くも悪くも、彼自身が権力の尊さを知っていたからだろう。権力を当然視しなかったと言えるかもしれない。だから二重三重に謀略をこらしたのだ。


「我らは、その点で叔父上に負けたのじゃ」

「道長さんが、憎いですか?」

 それは僕が彼と出会ってから、一度聞いてみたいと思っていた事だった。

隆家さんは「ふむ……」と髭をなぞって言った。

「憎くないといったら、嘘にはなるじゃろう。が、叔父上のやったことの理解はできる。策謀をめぐらし、自己の権力を保持する。あの頃はそれが日常茶飯じゃった。つまり逆の立場なら、まろも躊躇せずそうしただろう」

「……」

「それに、政治が絡むところでは叔父上は鬼のような人間だったが、常にそうではなかった。夷敵の急襲の後、真っ先に文を遣わしてくれたのは他ならぬ叔父上じゃった」

「優しい一面も、あったんですね」

「そうとも。まったくの悪人が最高権力者になれると思うか?」


 僕はつい、言葉に窮してしまった。

 道長のことに限らず、僕たちの学ぶ歴史は、あまりに表層的、一面的すぎるのかもしれない。



**

「さて、そろそろ時間じゃの」

「ああ、そうでしたね」

式部しきぶ殿の言っておった通り、なかなか興味深い時間じゃった。感謝するぞよ」

「いえ。こちらこそ」

 別れの挨拶あいさつ淡々たんたんと済ませ、隆家さんは立ち上がった。

「いずれ伊周これちかの兄上や、姉上もやってくるやもしれぬが、その時はよろしく頼む」

「はい。約束します」

 そう言うと、彼は満足げに微笑んだ。


 薄れゆく姿、かつてめしいた瞳を開き、最後に彼は言った。

「家族と仲良なかような」

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