エリーさんは姉想い 5
0時目前、泣きはらしたマリーさんは、エリーさんの膝の上でまたも眠りについてしまった。激しい波のように記憶が流れ込んだせいで疲れたのだろう。
その肩を優しくなでながら、エリーさんは微笑みを浮かべている。
「……ありがとうございます」
エリーさんが言った。
「結果的に、こうした方がよかったのだとおもいます。私もお義姉様も」
「けれど、僕たちのせいで、いろいろと順序が狂ったのではないでしょうか」
「まあ、そうかもしれませんね。でも、結果がよければいいのです。だから、主様が気になさる必要はありません」
「……そう言っていただけると、助かります」
「ふふっ」
エリーさんは優しく笑んだ。瞳には涙の疲労が浮かんでいるけれど、美しさが際立っているようにも見えた。
「主様」
「はい」
「その青い本を見せていただけますか?」
「青い……これですか?」
僕はさっきマリーさんに事の次第を伝えるときに使った世界史Bの教科書を手渡した。
「ありがとうございます。さきほどの様子から察するに、これは歴史書でしょう?」
「ええ、あ、でも日本語なので読みづらいかと」
「ああ……じゃあ、訳していただけます?」
「はい」
「まずは、革命の後から……」
革命の後、恐怖政治や総裁政府など、大混乱の第一共和政を経て、ナポレオンが台頭し、第一帝政が始まった。彼は当時フランスを囲んでいたヨーロッパ諸国の連合軍を破り、逆に各地を占領下に置いた。
そんなナポレオンもロシア遠征に失敗し失脚、王政復古の時代が来た。
当時各地を放浪していたルイ16世の弟プロヴァンス伯がルイ18世として即位した。彼には子供がいなかったため、その死後はさらに弟のアルトワ伯がシャルル10世として即位した。マリーさんの娘、マリー・テレーズの叔父かつ義父に当たる。しかし、反動的な政治を行ったために長続きせず、1830年の七月革命でオルレアン家のルイ=フィリップにその座を奪われて、間もなく死去した。
その後、1848年の二月革命でルイ=フィリップの王政も打倒されて完全に王政は終わり、第二共和政、続くナポレオン三世の第二帝政、そしてナチス・ドイツによるパリ占領まで続く第三共和政と、政治史は移り変わっていくこととなった。ちなみに現在は第五共和政の時代だという。
「私たちが死んだ後も、混乱は収まらなかったのね」
「そう、みたいですね」
「……」
私たちの死は何だったのか。沈黙の底で、彼女の声が聞こえた気がする。
王政が復古して、再び王家が日の目を見る時代が来るのだったら、一体どうしてマリーさんや、エリーさん、ルイ16世や王太子は死ななければならなかったのか。
「でも、よかったわ」
やがて、エリーさんは言った。
「よかった?」
「だって、お兄様たちは戻ってこれたのでしょう? 亡命の後戻ってこれることは歴史上、そう多くはないでしょうから」
「……まあ、たしかにそうですね」
「私は、三人とも尊敬していましたから」
「お兄様をですか?」
「はい。きっとお兄様たちの間には色々思うところはあったのだと思います。けれど王の兄からも、プロヴァンス伯の兄からも、アルトワ伯の兄からも、私は一度も嫌なことをされた覚えはありません。みんな、とてもやさしかったんです」
「そう、ですか。大切な記憶ですね」
「ええ」
エリーさんはやはり
死を恐れるとか、王家のためとか、そういうことではなく、ただひたすらに、家族のために。
「せっかく主様の所に来たんです。ジャポンのことも教えてください」
エリーさんは小さな首をちょこんと軽く揺らして、笑った。
0時になると、彼らは帰っていく。
エリーさんたちも例外ではないらしく、身体がふわりと浮かんだ。結局眠ったままのマリーさんは、エリーさんに背負われている。
「お世話になりました。大切な時間になりました」
パラソルをさして、エリーさんは小さく頭を下げた。
「こちらこそ。マリーさんにも、よろしくお伝えください」
「ええ。もしまたご縁がありましたらそのときは……」
ドレスの裾を摘まんで、彼女はわずかに足を曲げた。上品な、貴婦人らしい仕草。そおれにどう返せばいいか困惑して、結局深く頭を下げて返した。
「それでは」
別れの
「あっエリーさん」
「? はい」
「これ、お土産に」
手つかずじまいだったマドレーヌの箱を空中の王妹に渡す。
「これは?」
「マドレーヌです。……あれ、フランスのお菓子じゃ?」
「こういう形のものは初めて見たもので……。ありがとうございます。向こうでマリ義姉様や皆様といただきますね」
「ええ。ぜひ」
「では、ごきげんよう」
手を振りながら、エリーさんの姿が徐々に遠ざかっていく。
パラソルをさしながらふわふわ浮かんでいくその姿は、どこまでも、だれよりも、自由に見えた。
エリーさんは姉想い 完
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