エリーさんは姉想い 3
よほど心地が良かったのだろう。マリーさんは僕の椅子の上で、こくりこくりと眠りについてしまった。
「マリ義姉様ったら」
「自由な方ですね」
掛け布団を掛けつつ僕は苦笑した。
「お母さまが厳しい方だったからかもしれませんね」
「そうだったんですか」
「兄に嫁いだ後もしばしば忠告なさっておられましたから」
「忠告?」
「マリア・テレジア様は、不安だったようなのです。マリ義姉様は明るくて可愛らしい方ですが、王妃としての自覚には欠けると思っていたようで……」
「ああ……ひょっとして、あのパンがなければお菓子を食べればみたいな、ああいうことですか?」
「あれは流言ですっ……!」
エリーさんが微かに声を荒げた。
「マリ義姉様はそんなこと、一度も言ったことはありません!」
「そ、そうでしたか。ごめんなさい……」
「……いえ、私こそ……。……そんな厳しいしつけの下で育ったから、逆に解放感があったのかもしれません」
エリーさんは「はあ……」と小さくため息を吐いた。額に手を置いて、苦しそうに。
未だ悪者という認識が根強い人たちは、皆一様にこういう表情をする。
「あの、エリーさん」
それにしても重たい空気。それを少しでも和らげようと、僕は言った。
「何ですか」
「エリーさん、とてもマリーさんのことを思い
「……はい?」
エリーさんはきょとんとした表情を浮かべて、首をひねった。
「義理のお姉さんですよね? 僕結婚してないですけど、何というか、普通はあんまり仲良くできない気が……」
「王宮は、狭い社会ですからね。嫌でも一緒にいることになるんですよ」
「はあ。でもそれにしても」
そのとき、背後から声がした。
「エリーはねえ」
「えっ、マリーさん?」
椅子の上、どうみても寝ぼけ眼で、マリーさんはこちらを見ていた。
「エリーは、とっっっても家族思いなのよー」
「ちょっと、マリ義姉様!」
「結婚話もたくさんあったのに、お兄ちゃんたちが大好きで断り続けてね」
「うっ……」
「ほんとですか?」
「いや、そんな……」
「お姉さんがサルデーニャに嫁いだ時は何日も泣いて泣いて……慰めるの大変だったわ」
「や、やめてください!」
エリーさんはマリーさんの口を手で覆った。
「マリ義姉様はたまに嘘をおっしゃるんですからもう……」
「嘘なんですか?」
「嘘です全部。ひゃっ……! お義姉様! はしたないですよ!」
手のひらを舐められたのだろう。エリーさんはハンカチで手のひらを拭いていた。
一方のマリーさんは、愉快そうに舌をチロつかせている。
彼女のお母さんが不安になった理由がわかる気がする。けれど人間としては好感の持てる人だと、僕は思う。明るくて正直で自由な彼女は本当に良い人だと、
だからこそ230年前のフランスで彼女が殺害された理由が、わからなくなってしまう。
「もう、恥ずかしがることないのに」
「だって……」
ふと、マリーさんは笑顔を消して、首を傾げた。
「……あれ、何だろう、まったくおんなじ話をしたような……」
「……」
「ねえエリー、したわよね? こんな話」
「さあ、記憶に、ないですね」
「ほんと? でも……」
「記憶違いですよ。マリ義姉さんの」
「……」
沈黙が降りた。真相を知りながらそれを言わずにいる僕とエリーさんには、痛くて苦しくてたまらない沈黙だ。
「どうしてかしら。実は私、自分がどうやって死んだのか覚えていないのよ」
マリーさんは頭を抑えながら言った。
「何か、大事なことを忘れている気がするの」
そんな気まずい空気の中、何も知らない弟が入ってきた。
「お菓子買ってきたよー」
「涼……」
「マドレーヌがおいしそうでさー……え、もしかしてマリー・アントワネット?」
「ちょっ、呼び捨てるな」
目を丸くする弟に注意すると、彼はハッとしたように「ごめんなさい」と頭を下げた。
「あなたの弟?」
「ええ。涼と言います」
「スズね」
マリーさんは、にこり上と品に笑った。
「こちらは……」
「エリーよ」
「あ、もしかしてエリザベトさんですか?」
弟は多分、僕より歴史の造詣が深い。日本史にしろ世界史にしろ。だったら弟の部屋に現れてくれればいいのにと思う。
「あら、ご存知で?」
「もちろんです。僕感動しましたもん。最期の時まで王家を思っていたんですよね」
「え」
マリーさんが途端に眉をひそめた。まずいと思って僕は涼の口を手でふさいだ。
「涼、ありがとう。あとは僕が」
「えっ? でも」
「いいから」
僕の必死さが伝わったのか、彼は何も言わず頷いて出て行った。
背後の雰囲気でわかっていた。全てが、明るみになってしまったのだろう。
扉を閉じた姿勢のまま、僕は振り向けずにいた。衣擦れの音すら響いてしまうような静寂の中、やがてたった一言、マリーさんが言った。
「……そっか……」
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