エリーさんは姉想い 2

 王妹エリザベト。

 調べると、フランス国王ルイ16世の妹として確かに存在したらしい。

 つまり、マリーさんの義妹にあたる。


「ジャポンでは私の方はあまり知られてないようですね」

「お恥ずかしい話です」

「じゃあ、今日こんにちよりお見知りおきくださいね」

「はい」

「それと、おひとつお願い事が」

「はい?」


 エリーさんは、未だ絵描きに夢中になっているマリーさんに聞こえないよう声をひそめて行った。

「マリ義姉様に、あの最期のことは、言わないでほしいのです」

「……あの最期のことって……」



 周知の事実だが、マリーアントワネットはフランス革命の波の中で処刑された。

 ギロチンという、恐ろしい殺人装置によって、その首と命を断たれたのだ。

 それを黙っていろということのはいったい……。

 そう思っていると、エリーさんはさらに声を細めて言った。


「お義姉様はその時の記憶がないのです」

「えっ」

「正確には革命によって拘束され、夫を失い自らもしいされるまでの記憶が、ないのです。死んでいることはわかっていはいるようですが……」


 何ということだろう。

 僕は背後で鼻歌交じりに、自由気ままに線を描いているマリーさんを見た。やけに幼く明るいと思ったら、そういうことだったのか。


「なぜそのようなことになったのかわかりません。ただ、あの時の環境は本当に酷かったから……。だから、無意識に記憶を押さえつけてしまったのかもしれない、とフロイト様はおっしゃられました」

「フロイトさんって、お二人よりも後の人ですよね?」

「ええ。あの方が来られるまで、私は何もできず……」

 異世代交流によって、彼女は救われたということなのか。死んだ後に救われるというのは、なんとも言えない心地だろうが。

「だから、お願いします」

「も、もちろんです。お二人の平穏を乱すようなことは致しません」

 そう伝えると、エリーさんの瞳に涙が伝った。そして震える声で言った。

「ありがとうございます……」



 エリザベトさんは、革命の最中、マリーさんや兄王ルイ16世、おいのルイとめいのマリー・テレーズとともに幽閉された。

 革命が激化する中で、ルイ16世が処刑され、甥が連れ去られ、ついに義姉あねも連れ去られて後に処刑されることとなった。

 残されたエリザベトさんも、結局は処刑されてしまった。あまりにひどい裁判だった。いや、裁判とはいえない、ただの死刑の追認に思えた。

 


「エリ―」

「何ですか、マリ義姉様」

「このお菓子、か、硬いわね」

 煎餅をかみ砕きながらマリーさんは言った。

「歯を折らないように気を付けてくださいね」

 緑茶を出しながら僕は言った。紅茶もあったけれど、お煎餅には相応ふさわしくない気がした。

「これは?」

「日本のお茶です。苦味は強いですけれど、このお菓子とはぴったりでおいしいですよ」

「へえ。いただくわ」

 湯呑ゆのみを取って香りを楽しんだと見えるマリーさんは音を立てずに飲んだ。

「おお。なかなかね。普通のお茶とはちょっと違うけど」

「エリーさんも、よろしければ」

「ありがとう」

 ゆったりと頭を下げて彼女も同様に飲んだ。

 六畳一間、勉強机の手前で椅子に座って貴婦人が煎餅片手にお茶を飲んでいる。なんだこの光景は。この前の式部さんはあんなに溶け込んでいたのに。


「はあっ……。なんだか落ち着くわね……」

 ほっと一息をついたマリーさんは、雲ひとつない空を見上げた。

「そうですね、マリ義姉様」

「何だろう。こうして過ごすのを、心の底から望んでいた気がする」

「……」


 エリーさんは湯呑に視線を落としている。

 マリーさんも忘れているだけで、記憶が消えたわけではない。もしもその記憶が戻ってしまったなら、マリーさんはどうなってしまうのだろう。

 国民に歓迎されたと思ったら革命が起こり、一気にその標的となった。「金の亡者だ」「息子に近親相姦きんしんそうかんを強要した」、そんな何の根拠も正当性もない罵倒ばとうの末に処刑されたのだ。そんな記憶……僕だったら、思い出したくない。


「マリ義姉様」

 エリーさんが、ぼんやりと空を見上げるマリーさんの手に自分の手を重ねた。その手が震えていたのを、僕は見てしまった。

「エリー?」

 不思議そうに見つめてくるマリーさんに、エリーさんはただゆるりと首を振った。




 




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