22 何もしない
22 何もしない
空になったカップに再びジャスミンティーを注ぐ。先程よりも温度が下がった所為か、より一層強く感じる匂いが鼻を抜けていく。
ティーカップの中心で、あの日の熊坂の顔が刹那浮かび、波紋と共に揺れて消える。
「あんな事があって、俺は熊坂が学校に来なくなるんじゃ無いかと心配していた。だけど、その翌朝、あいつはちゃんといつも通り、教室の隅に居た」
ティーカップを片手に持ち、ベッドの枕元に薬を取りに行く。まだ耐えられない程では無いが、痛みが今後増していかないとも限らない。
先程からピクリとも動かないアワレに、少し休憩だ、崩してくれと声をかける。然程辛そうでもかったが、アワレは俺の指示通りに、一度肩の力を抜いた。
「途中までの絵を、見せて頂いても宜しいですか?」
アワレの願いを聞き入れると、優雅な動きで絵を覗きに向かった。
アワレが座っていたベッドに、そのまま腰を下ろす。
絵を眺めていたアワレの頬が、にこやかに上がる。目尻も少し下がり、うっとりした表情を浮かべる。
「どうだ?」
「素敵です」
問いかけに、一言だけ返事が届く。
「まぁ、まだ未完成だから、その感想はもう少し取っておいてくれ」
ジャスミンをもう一口啜り、思考は再び時を遡る。だが、雑談に興じすぎた所為か、記憶の綻びが上手く見つけられない。
「どこまで話したかな?」
「熊坂様が、ちゃんと学校にいらっしゃった所まででございます」
解れた糸の先は、アワレがすぐに見つけてくれた。
「そうそう、だけど俺は、熊坂に上手く話しかけられないまま、その日一日を過ごしてしまった。だから、絶対にあいつがいるだろうと思い、放課後に美術室に向かったんだ。だけど、あいつはいなかった……」
「そちらはお休みになられてたんですか?」
「いや、違う。美術室に行ったら、他の部員にあっさり言われたよ。熊坂は退部したって……」
あの時の苦い気持ちは、今でもよく覚えている。混沌としたどす黒い絵の具を、心に満遍なく塗りたくられたような、胸の中を暗い膜が覆い被さってくるような、暗澹とした言い知れぬ不吉な感じ。
「それ以来かな、熊坂は学校には来ていたが、話しかけようとしてもはぐらかされるばかりだった。部活を辞めた理由も、時間が無くなった、としか答えてくれない。そんな感じのまま一学期は過ぎて、夏休みに入ってしまった。だから俺は一念発起して、夏休み中に、あいつの家を押しかけたんだ」
「熊坂様のお宅をですか?」
「ああ、どうしても、モヤモヤが収まらなかったんだ……」
熊坂の家は、良く言えば歴史と風情があるような、悪く言えば単純にボロい、小さな一軒家に住んでいた。
「……皆藤君」
チャイムに反応して出て来た熊坂は、心底驚いたような表情を見せた。少しだけ躊躇う素振りを見せたが、意外にもすんなりと俺を家に上げてくれた。
茶の間らしい部屋に通された俺は、熊坂に差し出された麦茶を啜り、すぐに本題に入った。
「何で美術部辞めたんだ?」
答えたく無さそうな熊坂の顔を見ないように、俺はもう一度、熊坂、と呼びかけた。
「絵を描くのが辛くなったんだよ」
「辛く?」
「うん……、理想と現実の違いとか……、違うな、辛くなったんじゃない、描けなくなったんだ」
熊坂は寂しそうに笑った。
ふと訪れた沈黙に、蝉の声がけたたましく被さる。太陽は容赦なく夏を謳歌しているが、俺はこの空間だけ妙に冷え込んだような、薄ら寒さを感じた。
「宮内の奴と、何かあったんだろ?」
そこで熊坂は、一度息を吐いてから、こちらを見ずに言った。
「皆藤君、宮内君はね、皆藤君が思ってるよりも、もっともっと、嫌な性格をしてる……」
「どう言う事だ?」
「皆藤君は、あれだよね、態々夏休みに僕に会いに来てくれたって事は、僕の事を心配してくれてるって事でいいんだよね?」
ゾッとする程、冷たい声で熊坂は話す。
「……あ、ああ」
「じゃあ、僕の話を聞いてよ。学校じゃ話せなかったけど、今なら皆藤君に全部話す。僕の今の状況とか、考えてる事とか……」
熊坂はスッと立ち上がると、自分と俺のグラスを持って、そのまま一度台所に引っ込んだ。俺は思わず息を一つ吐いて、暑さのせいだけでは無い額の汗を拭った。
熊坂はグラスに新しい麦茶を入れてすぐに戻ってきた。下を向いていて読めなかった表情は、今は軽く微笑んでいる。持って来たグラスをテーブルに置いて、熊坂も再び俺の向かいに腰を下ろした。
「宮内君のグループに入れられるようになったのは、5月になる直前くらいだったかな。最初の理由は、皆藤君だったんだ」
「俺?」
「うん、皆藤君と僕が仲がいいのを、グループの誰かが見てたみたい。だから、前から皆藤君の事を良く思ってなかった宮内君が、僕に目をつけたみたいなんだ」
穏やかに話す熊坂の声を聞きながら、俺は心の奥底が熱くなっていくのを感じていた。宮内の卑劣な行為に対する、怒りと嫌悪感によるものだ。
「何かされたのか?」
「別に、ただグループの中に居た事と、たまに買い物に行かされたくらい、殴られたりとかは無かったし、そんな大した事はされてないよ。だけど、皆藤君の為に僕を利用しようとしてるのは分かった。だから、しばらく様子を見てたみたいだったけど、あの日言われたんだ、皆藤君を連れて来いって」
熊坂の気遣いが俺に向けられていると知って、申し訳なさを感じた。
「ごめんね」
「お前が謝る事じゃないだろ」
「ううん、僕がいけないんだ。僕が、ちゃんと断れないから……。こないだ、宮内君に対等に向き合ってる皆藤君を見て、思っちゃったんだ……。やっぱり、この人は、僕と違う世界の人間なんだって……」
「熊坂……」
熊坂はそこで押し黙って、目の前の麦茶を一口啜った。
少しの沈黙の後、熊坂はまたポツリと言葉を紡いだ。
「皆藤君って、どうしてうちみたいな、普通の高校に入ったの? もっと、私立とかの、そう言うとことかに行こうとは思わなかったの?」
「ああ、そう言う奴らの空気って、昔から苦手だったんだ。親が金持ってるってだけで、自分じゃ何もしてないのに、偉そうな顔してる連中がいやになったんだよ」
自分を肩書きでしか見てくれない中学までのお友達ごっこが嫌で、今の高校に進んだ。だけど、俺のしがらみが消える訳では無いことに、進学してから気がついた。
ウィンテルの名前はどこでも大きく、そう言う目で見られる事にも慣れていたが、学校を変えても状況が変わらないこの環境に、少なからず嫌気も差していた。だから、あの冬の美術室で、熊坂が俺をウィンテルの社長の息子だと知りながら、普通に話してくれた事が、自分で思っていたよりもずっと、嬉しかったのかもしれない。
「すごいなぁ。皆藤君が、僕なんかを心配してくれる事が、不思議だよ……」
熊坂の家の近くを、大きめのトラックが通り過ぎる。少しだけ地面が揺れて、重そうな音を響かせすぐに走り去っていく。
「こんな事お願いできる義理じゃないけど、聞いてもらっていい?」
熊坂は不安げにこちらを見つめる。悪戯をして叱られる事が分かっている子供のような、微かに怯えた目をしている。その眼差しに、俺は首肯を返す。
「これから、例えば宮内君とかが皆藤君とかに絡んできたとしても、出来れば事を荒立てないで欲しいんだ。ううん、違うかな、僕が、関わっているって言うのが、嫌なんだ……、だから、僕はいなかった事にして欲しい……」
「何があってもか?」
「うん、何があっても……」
「理由は?」
「うん、話す……。僕の両親、今は、ちょっと仲が悪いんだ。父さんはあんまり仕事しないし、母さんはそんな父さんと、いつも喧嘩してる。中学の時も、僕ちょっといじめられててさ、その事が分かった母さんと父さんは、もう責任の擦り付け合いみたいな感じで……。お前が悪いから、あんたがしっかりしてないからって、それで、もう別れる別れない、みたいな……。だけど、僕は父さんと母さんと一緒がいいんだ。二人共いないと意味が無いんだ……」
熊坂はそう話しながら、気がつけば涙を零していた。普段静かに笑っている胸の内で、どれだけの哀しみを秘めているのか、俺には想像がつかなかった。
「……お前が、傷ついてもか?」
「……うん」
「……分かった」
頷き、俺は席を立った。
「今日、親御さんは?」
「うちはいつも共働き、って言っても、父さんはパチンコかもしれないけど、仕事って言って外に行ってる。だから、これがいつもなんだ」
「そうか」
玄関へ向かう俺に、送るよ、と熊坂がついてくる。
一時間ほど滞在した熊坂家の玄関で、俺は熊坂の目を見て言った。
「俺が教室で話しかけると迷惑か?」
「迷惑じゃないけど、目をつけられるかもしれない」
「そうか、分かった」
俺は頭の中で思考を巡らし、どうしても聞いておかなきゃならない事を口に出した。
「それと、殴られて無いってのは、嘘だろ?」
熊坂の顔が、急速に萎む。
「どうして?」
「体育……」
そう言うと熊坂は、あっと漏らすと、バツの悪そうな顔になった。
それだけで、返事は充分だった。
「潰れるなよ……」
熊坂が傷ついても、何もしないと誓った。その誓いを違えるつもりは無い。
「じゃあ、また学校でな」
熊坂の顔を見ないように、俺はその場を後にした。
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