21 ハイエナとライオン

 21 ハイエナとライオン


「俺は放課後、熊坂に言われた通り校舎裏に向かった。さて、何が待ち構えていたと思う?」

 問いかけても、アワレはポーズを崩さなかった。

「その、不良グループの方達がいらしたんですか?」

「ああ、物事ってのはシンプルに出来てるもんだ。大して頭を働かせなくても、想像通りに事は運ぶ場合もある。まぁ、随分と当てが外れた部分もあるけどな……」

 そこで一つ息をつき、手にしていた筆をコップの中に放り込んだ。チャポンと音が立ち、混沌とした水の中に新たに水色が加わる。だけど、水の色とはとても呼べなかった。

「出来上がったんですか?」

「いや、もうちょっと、……違うな、まだかかる。少し休憩だ」

「でしたら、紅茶でもお持ちいたしましょうか?」

「すぐ用意できるのか?」

「はい、準備は整えておきましたので、すぐにお持ちできます」

「そうか、じゃあ頼もうかな。くれぐれもドレスには零さないようにな」

「はい、承知しております。それでは、少々お待ち下さい」

 アワレはドレス姿で、いつものように裾をつまみ、こちらに傅いた。その様は、まるでダンスに誘われているような錯覚を覚える程、優雅で、流麗だった。

 静かに部屋を出て行ったアワレの背中をぼんやりと眺めながら、あの日の出来事をもう一度反芻する。

 思い出す事自体を拒絶していた出来事を、どうしてアワレに聞いて欲しいと思ったのだろう。

 頭痛は先程よりも更に、少しだけ力を増している。だけど、今日は何故だかそれを苦痛に感じなかった。寧ろ、今自分が確かに生きている事を教えてくれているような、微かな慈愛さえ感じた。

 五分もしない内に、アワレは紅茶のポットを持って戻ってきた。

「今日はジャスミンをお持ちしました」

 差し出された紅茶は、仄かに湯気を立てている。一口啜ると、鼻から程よく香りが抜けていく。

 アワレはティーセットを机の上に置くと、再びベッドに腰掛け、先程と全く同じポーズを取る。機械的だと感じるよりも、その研ぎ澄まされたような無駄の無い動きに、ふと美しさを見た。

「武文様、確かこの構図だったと思うのですが、相違ありませんでしょうか?」

「ああ、さっきと全く同じだ。問題ない。別に全く同じで無くてもいいんだがな……」

 苦笑すると、アワレもつられて笑った。いや、笑顔は変わらないのだが、纏っている雰囲気が少し柔らかさを増したのだ。

 再び筆を取る。

 少しチークの塗られた頬の色合いをパレットの上で作り出す。現実よりも少しだけ色濃くしたそれを、アワレの笑顔に添える。キャンバスの中のアワレの表情が、ただそれだけで随分と暖かみを増した。

「話の続きなんだが、アワレが想像した通り、校舎裏には怯えた熊坂を従えて、宮内とそのグループが待ち構えていた。だけど、勿論それは想定の範囲内だった。俺の話を聞いただけで、お前もわかったようにな……」


 放課後、普段なら閑散としているであろう校舎裏は、随分と賑わいを見せていた。もっとも、そこに飛び交っていた言葉は、随分と下世話なものばかりだったが。

「お、やっと来たなぁ。逃げたんじゃねぇかって心配してたぜ、おぼっちゃん」

 下卑た笑いと共に、名も知らぬ男の声が聞こえてきた。

 校舎裏には、面構えのよくない連中が群れをなしていた。数はよく覚えていないが、十人はいなかった筈だ。ぎらぎらしたハイエナ連中の中心に、こちらを静かに見つめている宮内の姿があった。そして、そのすぐ横に、土気色をして立っている熊坂を見つけた。まさに、肉食獣の群れに紛れ込んだ草食動物だ。生殺与奪を握られた熊坂は、俺の顔を見て、安堵と後悔の入り混じったような複雑な顔をした。

「熊坂」

 俺の声に、熊坂はビクッと身体を震わせた。気持ちは分かるが、俺にまで怯える必要は無い。

「皆藤君……」

「よく来たな。歓迎するぜ」

 肉食獣の親玉が、熊坂の声を遮る。穏やかな言葉とは裏腹に、その口調には隙が無かった。

「お前に歓迎される謂れは無い。熊坂と話がしたい」

「あぁっ! お前宮内さんになんつぅ口きいてんだ!」

 耳元で頭の悪そうな声がした。

 威嚇をしているつもりだろう、殺気立った声で怒鳴られるが、心は露ほども揺れなかった。おい、黙ってろと、宮内が静かにそいつを制す。

「残念だな、熊坂は俺達の大の親友なんだよ。だから、こいつと話がしたかったら、俺達を通して貰わないとな」

「回りくどいのは好きじゃない。俺に何のようだ?」

 単刀直入な態度が気に食わないのか、宮内は眉根を寄せた。

「へっ、こんなとこにのこのこ現れて、随分と強気じゃねぇか。こんなヘボの為によ~、よく来る気になったもんだぜ。怪しいと思わなかったのか? お前本当は馬鹿なんだろ?」

 宮内に合わせ、周りからもいやらしい笑い声が漏れる。背筋に毛虫を走らせたような嫌悪感が漂っていた。

「俺に用があるんじゃないのか?」

 威圧しても俺が少しもたじろがない所為か、宮内は少しだけ苛つき始めたように見えた。恐らくは自分の思うように事が運ばない事に対する苛つきだろう。

「まぁ、なんでもいい。はっきり言っとく。あんまりでかい顔すんな。目障りなんだよ」

「目障り? 俺は何もしていない。寧ろ目立たないようにしてるつもりだ」

「あー?」

 こちらを睨みつけながら、宮内はこちらへ近づいて来る。近くで感じてわかったが、こいつの纏う空気は、周りの連中とは桁が違っていた。気後れはしていないつもりだが、少しだけ額に汗をかくのを感じる。

「甘ったれぼっちゃんが、いい気になんなって言ってんだよ」

「いい気になるなってどういう事だ? 具体的に何をすればいいんだ?」

 相手の視線を跳ね返すように睨み返す。宮内の額に浮かんだ青筋が、ピクリと揺れる。

「じゃあ、もう学校来んじゃねぇ」

「断る」

 次の瞬間、俺の身体は強い衝撃を受けて後ろに吹っ飛んだ。背中から着地して空を眺めた時初めて、宮内に蹴り飛ばされたのだと気づいた。

「へっ、弱ぇくせに。目障りなんだよ」

 足元から苛立った声が聞こえる。身体を起こし、振り返ろうとした背中に向けて吐き捨てた。

「お前んちの父さんの会社、俺んとこより小さいの気にしてるんだろ。今までお山の大将だったのが、自分のよりも大きな山があることに気づいちまったん――」

 言い切らない内に、俺は再び地面に足をつけていた。胸倉に、宮内の握り拳が見える。

「図星か……。それにしても、思ったよりも随分と安い挑発に乗るんだな、大将」

 そこで殴られると思っていた。だが、宮内は俺が思っているよりも、少しだけ賢かった。

 怒りで歪むと思われた眉はすぐに離れ、俺の胸倉はすぐに自由になった。

「お前こそ、何が目的だ?」

 宮内は玉座らしき場所に再び戻り、地面にどっかりと座った。

「別に、俺は熊坂に呼ばれたから来ただけだ」

「こいつを使ってお前を呼んだのは分かってたんだろ?」

「そこまで馬鹿だと思うか?」

 先程までの激情を潜め、淡々と語る宮内の横で、熊坂は俯きながら震えていた。

「腹に詰め物なんかしやがって」

 宮内のその発言に、俯いていた熊坂がこちらを向く。俺は制服を少しだけたくし上げて、腹に挟んでいた国語と数学の教科書を見せた。

「いい度胸してやがるぜ……、なぁ、マジで俺らとつるむ気ねぇか?」

「断る。下らない」

 俺の言葉に反応したのか、ギャラリーから一斉に声が上がる。

 怒鳴り声ばかりで上手く聞き取れないが恐らく、クダラナイダァ、コロスゾ、ヤッチマウゾ、コラァと言うような単語だろう。宮内の制止の声が静かに入り、多少反発する者もいたが、皆渋々聞き入れたようだ。カリスマ性は、相応と見ていいのだろう。

「わかった。もう帰っていいぞ、手間取らせたな」

「駄目だ、俺は熊坂に呼ばれたんだ。熊坂をこちらに返してもらう」

 宮内はこちらにも聞こえるような音で舌を打った。

「おめぇなぁ、これで手打ちにしようって言ってんだからよ。大人しく下がっとけよ」

「何が手打ちだ。お前らの都合なんか聞いてない」

 刺さるような目線を押し返す。

 暫し均衡状態に陥ったが、こちらが譲る気が無いと理解したのだろう。宮内は渋々ではあったが、その場を去って行った。カルガモの親子のようにゾロゾロとその後を付いて行く連中を尻目に、俺は熊坂に歩み寄った。

「ごめんね、皆藤君……」

「気にするな。それより、いつからこんなことになってたんだ? これからどうするんだ? 両親に相談したり……」

「駄目!」

 熊坂の突然の大声に俺は思わず言葉を引っ込めた。熊坂はすぐに、ごめんと呟き、再び俯いてしまった。

「熊坂?」

「僕……、大丈夫だから、迷惑かけてごめんね、心配しなくていいよ」

 そう矢継ぎ早に言い放つや否や、熊坂はそのまま走り去って行ってしまった。

 その様子を訝しく思いながら、それと同時に、随分と穏やかに事が運んでしまったなと、密かに心の中で舌打ちをした。

 誤算の原因は、宮内が思っていたよりもずっと、冷静で賢かった事か……。

 ポケットの中の携帯電話をオフにしながら、熊坂の事を慮った。教科書を腹から抜き、鞄に戻す。校舎はいつの間にか、すっかり夕闇に包まれていた。

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