第7話

『ケイスケ』と私の事件が連日報道されている。私も有名人の仲間入りだ。誰が提供したのか、ピンボケの目が半開きの写真や、花見でほろ酔いの写真が報道された。ニュース番組のコメンテーターも

「逃げられる状態だったのに、監禁って言われてもね。」 

「ストックホルム症候群だったんでしょうね。」 

下世話な想像を平気で口にしたり、勿論、ネットでは書かれたい放題で、見るのを止めた。

 

 私と夫と桜は何もなかった様に、いつもの生活に戻った。戻って暫くは、家の周りに記者が彷徨き、買物もままならなかったが、次から次へと起こる事件に押し流され、中年のおばさんの逮捕監禁事件など、驚く程早く皆の意識から薄れていった。一言で言えば、飽きたのだろう。

 夫と桜は私が居なかった数カ月で、驚く程家事処理能力が上がった。以前は空のペットボトルを冷蔵庫に戻したり、残り2センチのトイレットペーパーをホルダーに付けたままだったり、爪切りの中に切った爪を捨てずに元に戻したりしていたが、今は空のペットボトルは洗い、ラベルを剥ぎキャップを外し、全て分別し、ボトルは踏み潰し小さくしてから捨てる様になった。トイレットペーパーも、何故か毎回、私が交換していたが、今は滅多にない。勿論、爪切りの中に爪が残っていることもない。掃除、洗濯、料理、片付けを自然に分担してくれるのだ。『ケイスケ』に誘拐された功罪だ。

 

 『ケイスケ』は未成年だった。未成年の為、名前は報道されなかったが、ある週刊誌が正義の名の元に顔写真と実名を載せてしまった。ネットには彼の情報が今でも漂っている。その雑誌は少年法に厳しく、今までもいくつかの事件の少年の実名を晒した。確かに、凶悪事件であれば、その必要性を理解出来る。ただ、今回の事件に関しては当てはまらないと思う。当事者がそう思うのだから、間違いない。

 我が家では『ケイスケ』の名前を出すことは許されない。私が『ケイスケ』と名前を出した時、桜が激しく拒否したからだ。

 「そいつのせいで、私等の生活が一変したんよ!ママは生きとるか死んどるかも分からんし、近所の人には陰でコソコソ言われるし、お祖父ちゃんや、お祖母ちゃんだって。心労で死んでしまうかと思ったわ!残された者の身になってや。息子みたいな呼び方せんとって。」

慌てて夫がとりなした。

「桜、ママやって、好きであいつと暮らしてた訳じゃないんやけん。」

本当に悪かったと思った。残された家族にとっては、思い出したくない時間なのに。私にとっては懐かしく安らげる思い出になってしまっていた。

 夫は私と布団をくっつけて、体の一部が触れ合う様に寝始めた。時々、視線を感じて振り向くとジッと見ていたりもする。夫は『ケイスケ』と何かあったか聞かない。男のプライドと言うものかもしれない。私からも話さない。何もなかったのだから、話すこともないけれど。

 戻って来てすぐに、報道陣を掻き分けて両親がやって来た。

「無事で良かったわい。わしはもうお前が男と逃げたとばかり思うて、申し訳なくて。ああ、良かった。連れ去られとったんなら、仕方ないけんのう。」

連れ去られて良かった?何を言ってるんだか、このクソ爺が。その横で私の手を握りながら母は泣いていた。母は、

「買物も行けんじゃろ。」

と、食材や、タッパーに入れたおかずを置いていってくれた。母にとっては私はいつまでも子供なのだ。

 パートに行っていた店長さんからも電話を頂いた。接客はしなくていいから、裏の工場でいいなら、いつでも働きにおいでと声を掛けてくれた。私はまた、パートに行き始めた。何日かは腫れ物を扱う様だったが、すぐこき使われ始めた。それでいい。普通こそ尊い。

 

 警察には何回か事情聴取をされた。初めから終わりまで正直に話した。

「あの朝はゴミ出しに出て、いきなり腰の辺りに何か尖った者を押し付けられて、車に乗せられました。後ろにも仲間がいると言われて、飲み物を飲む様に言われて、飲んだら眠ってしまって。次、目が覚めた時にはあの家にいました。家では初めは拘束されてましたが、あとはもう本当に自由に。あそこでは、ご飯を作ったり、出掛けたりもしました。」

「どうして逃げなかったんですか?」

「初めは桜の名前を出されて、他にも仲間がいると思ったので。でも、一緒に暮らすうちに、仲間はいないって思いました。」

「じゃあ、尚更、何故逃げなかったんですか?」

「一緒に暮らしてると、分かってくるんですよね。悪い子じゃないって。多分、私も知りたかったんだと思います。何で、私と暮らしたかったのか。『ケイスケ』は一体何をしたかったのか。」

 

 結果的に、夫には何の処罰もなかったが、教育者として示しがつかないと、すぐに辞表を提出した。懲戒免職にならなかったのは幸いだった。夫婦で田辺家に謝罪に伺いたいと連絡をしたが、今は自分達の対応に追われていて、その余裕がないと突っぱねられた。警察が犯人を逮捕してからは、バッシングの嵐だった。テレビでは連日、意気揚々と講演している夫の姿と、それをあざ笑うコメンテーターの顔が流れていた。

 予め、こういうことが起こるはずだからと警察に教えられ、夫の遠い親戚の家に避難させて貰った。義父母宅、実家の周りには記者が張り込んでいる。親戚の家族もかなり迷惑そうだったが、他に行く宛も無く、ただ耐えるしかなかった。こんなことになる前は自慢の息子だったのだ。義父母の落ち込みは凄まじく、毎日電話で謝られた。隠れている息子の代わりに、義父母が取材陣に謝っている様子がニュースで流れた時にはマスメディアの残酷さに背筋が凍った。夫は四十半ばのおじさんだ。親はいつまで子供に責任を負わないといけないのか。

 夫は親戚の家に来てから、部屋に籠もりきりで、食事もしたりしなかったり、髭は伸ばしっ放しで人相がすっかり変わってしまった。元は自分の撒いた種だが、刈取り方が分からない様だ。間違いを起こさないか、時々、様子も見なければならなかった。

 桃子は学校に通えなくなった。物理的にも精神的にも無理だった。有難いことに、友達のお母さんから、桃子だけでも友達の家から学校に通ってみたらどうだろうと申し出を頂いたが、その申し出を受けるだけの強さが桃子にはなかった。周りが何と言おうと私は悪くないと居直る強さがないのだ。桃子も父親同様、部屋に籠もって時折泣いていた。

 私だって本当は、夫に暴言を浴びせ平手打ちしてやりたかったが、私までおかしくなったら、家庭は崩壊してしまう。気丈に振舞う私に、夫の親戚は

「あんたの心は鋼で出来てるね。」 

と、嫌味を言われた。言われても言い返すことさえ出来ない。行く所がないのだから。

 状況が落ち着き始め、家に戻ってみたが、酷い有様だった。投石で窓が割られ、ドアには無数の貼り紙、壁はペンキで落書きされていた。逃げる様に、夜、運べる家財を私の実家に運んでもらった。近所の方にも迷惑料として少し包んだ物を渡して回った。初めに予想していたものとは違い、皆さんの優しさに涙が溢れた。

「奥さんが1番大変やったね。元気出しよ。」

「暫くの辛抱よ。」 

と、渡した包みは一様に受け取らなかった。改めて、ここで子育て出来たことに感謝した。

 避難した時から1番気になっていたのは、黒田友恵のことだ。本当なら、憎き浮気相手なのだろうが、状況が違う。彼女もあの団地には住めないだろう。警察に行く前に連絡先を交換していたので、思い切って電話を掛けてみた。

「もしもし、高田ですけど。」 

「あっ、奥さん?大丈夫ですか?」

思いの外、明るい声だった。

「主人のせいでごめんなさいね。貴方にも迷惑掛けてしまって。お子さんは大丈夫?」 

「いや、ああなったのは自業自得ですから。息子には悪いことしましたけど。」 

「貴方、今、どこに住んでるの?」

「いや、団地ですよ。」

まだ、あそこにいるのか。きっと、引っ越す費用がないんだわ。

「もし良かったら、費用が無くて引っ越せないなら、少しは援助出来ますから。」 

黒田友恵は笑いを堪えた。何て、お人好しなんだろう。

「奥さん、私は先生と間違いを起こしただけで、犯罪者ではないんで。暫くは記者に付回されたり、近所の人にも悪口言われたりしましたけど。もう今は前の通りです。人の噂も75日ですよ。後、別れた旦那とより戻したんで、今は3人で暮らしてるんです。奥さん、ちゃんと言えてなかったけど、あの時は本当にすいませんでした。私達は本当に大丈夫なんで。心配して貰える立場じゃないのに、有難うございます。奥さんも大変やと思いますけど、頑張って下さい。」  

 電話を切った後、靄が晴れた気がした。頑張らないと。

 実家に戻り1か月程経った頃、父母、義父母、夫と私で話し合いの場を持った。今後どうしていくかについてだ。桃子は部屋から出てこない。あんなに自信に満ち溢れていた夫はどこにもいない。痩せこけ、無精髭を生やし、小さくなってただ座っている。

「別れて、桃子連れて戻って来たらええ。」

父が口を開いた。隣で母も頷いている。

 「私はずっと前から離婚したいと思ってた。家事も育児も私任せ、自分のことばかりで、私達のことなんか気にもしていないし。多分、あなたは女が家を守って、自分は外に出て働いてって、役割分担のくらいのつもりでいたんでしょうけど。私も本当は先生を続けたかった。子供が生まれても、あなたさえもっと協力してくれてたら、私だって続けていけたと思う。」 

立ち上がってアルバムを夫の前に放り投げた。「見てみなさいよ。探して見なさいよ。自分の姿を。」

夫はアルバムの上に、じっと手を置いていた。 

「もう心が決まっているなら、これ以上は勘弁してやって。」

義母が真っ直ぐ私を見つめた。義父の目は怒りで満ちていた。男が仕事して、浮気の一つくらい何が悪いと思っているのだろう。

「いいえ、今日は言わして貰います。保護者と浮気して、犯罪を目撃したのに、保身に駆られて黙秘して、世間からバッシングを受けたら殻に籠もって。あなたそれでも父親なの?男なの?あなたのせいで桃子は学校に行けなくなってる。あなた桃子と話そうとした?謝った?」 

私が初めて出す大声に驚いたのか、桃子が部屋から出て来た。

「ママもういいよ、離婚したら、苗字も変わるし。その方が、私いい。」

義父母はたった一人の孫の発言に打ちのめされていた。

「いいえ。離婚しないわ。桃子、どんなに苗字を変えても、あなたの父親はこの人なの。逃げても何も解決しない。あなたは私達と一生掛けて向き合って。」

「でも、仕事もないし。養っていけないし。」

ボソボソと夫が呟いた。

「あなたが仕事を選んでいるからでしょう?外に出るのが怖いだけでしょう?先生、先生って思ってるからでしょう?そう言うの捨てなさいよ。あなたがした汚いことは消えないのよ。これからどうするかでしょ。もっと強くなってよ。私も働くわ。私達は家族でしょう?」

「世間はそんな甘いもんじゃない。別れた方がいい。」

父と母は慌てた様に畳み掛けてきた。

「お父さん、お母さん、私は離婚する気はないわ。あのまま何もなかったら、離婚していたと思う。でも、今はやり直したい。もう少し落ち着いたら、私達で片付けて、あの家に戻ろうと思ってる。」

両親の目は冷ややかだった。

「有難う。有難う。」

義父母は私の手を取って泣いていた。強くならなければ。

 次の日から、渋る夫を車に乗せ、家の掃除に取り掛かった。私達が片付けをしていると、近所の人の中には手伝ってくれる方もいた。夫は「有難うございます。」を連呼しながら、頭を下げた。

 夫と私はまたこの家に戻り、二人で暮らし始めた。この家を建てた時に、3人で撮った写真を靴箱の上に飾った。赤ん坊の桃子も満面の笑みだ。桃子はこの家には戻って来る気はないらしい。通っていた高校をスッパリと辞め、夜間に通っている。大学は東京に出るらしい。いつか、3人でこの家で食事が出来る日がくるといい。この家があの娘の実家なのだから。

 夫は知り合いから声を掛けて貰い、不登校の子供達が通うフリースクールで勉強を教えている。私は個別塾で講師の職を見付けた。教えている生徒の成績が上がると、心の底から嬉しい。家事も分担し、忙しいながらも充実している。

「田辺さん家に謝罪に行こうと思う。」

 

 インターフォンから女性の声がした。

「どうぞー。」

夫と私は緊張しながら、用意されたスリッパに履き替えリビングに入ると、ソファに座っている田辺さんと目が合った。

「この度は本当に申し訳ありませんでした。」

これ以上ないくらい深く頭を下げた。

「もういいですから。私はもう気にしてないですから。」 

もっと責められると思ったが、柔らかい対応だった。

「初めはあなたのこと、腹が立ちましたよ。それでも、教育者かって。あなたがもっと早く通報してくれてたらって。でも、今はもう何とも思ってません。仕事も辞められたって聞いたし。暫くはマスコミが凄くて落ち着かんかったけど、今はもう普通の生活に戻れたし、妻の有り難みも良く分かりました。」

「私も今回のことで、自分の不甲斐なさを痛感しました。妻には感謝しかありません。」

終始、和やかな雰囲気だった。

 一階から聞こえてくる和やかな話し声に、猛烈にムカついていた。父も母も何を笑っているんだか、仕事を辞めたって自業自得だっつーの。あの時、どんなに惨めだったか、家事も大変だし、友達には腫れ物扱いだし、陰口も叩かれたし。一言言ってやりたかったが、部屋から出ない様にきつく言われていた。大人の話だからって。子供は巻き込まれるだけ、巻き込まれて、一言言う権利くらいあるだろうっつーの。余りに腹が立ったので、床をドンと踏んでやった。

「お子さん二階ですか?」

私達は突然の音に上を見上げた。

「2階に娘がいます。」

「謝りに行ってもいいですか?」

田辺夫妻は首を横に振った。

「娘はあなたのことを凄く怒ってます。」 

当然のことだろう。

「私達は何を言われても仕方ないと思ってます。」

「娘はまだ子供で、純粋です。怒りに任せてあなた達を罵倒すると思います。娘のそんな姿は親として見たくないんです。娘もきっと後で、言い過ぎたことを悔やむと思います。その姿も見たくないんです。お気持ちは充分伝わりましたから、もうお帰り下さい。そして、電話も訪問も今後は一切せんとって貰えますか。」  

私達はまた深く頭を下げて、田辺家を後にした。

 帰りの道で妻が話し始めた。

「黒田友恵さん、前のご主人と寄りを戻してまた3人で、あの団地で暮らしているんだって。」

内心、彼女のことは気になっていた。しかし、とても自分から言える話ではなかったので、ホッとした。

「ほっとしたでしょ?」 

「うん。」 

「ズルいわね。」 

「すまない。」 

妻は笑っていた。

「私ね、黒田さんに電話したのよ。本当だったら、話したくもない憎い人よ。でも、あなたのせいで、騒動に巻き込まれちゃったでしょ?何だか同志の様な気持ちがして。彼女は強かったわ。悪いことはきちんと謝罪して、それ以外のことは悪くないってハッキリ言ってた。あなたがしたことは、決して褒められることじゃないけど、あなたが自分と家族の時間を犠牲にして、やってきたことまで否定されるのは可笑しいと思うの。私達が逃げ隠れしていた時、彼女はあの団地から逃げなかった。私達も今の場所で頑張らないと。」 

妻はこんなに凛としていただろうか。それとも、自分が見えていなかっただけなのか。高田はそっと妻の手を握った。妻は高田を見たが振り解きはしなかった。

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