第6話

「先生これでいいですか?印鑑はシャチハタでもいいですか?それとも、認め?」

黒田友恵が上目使いで聞いてきた。 

「認印でお願いします。」

一刻も早くこの家から立ち去らねば。帰ろうと立ち上がった時、彼女が腰に手を回して来た。

「先生、帰らんとって。」 

背中に彼女の胸が当たる。政治家や芸能人が女で躓く度に不思議に思っていたが、今なら分かる。抗えない時もある。

「離して下さい。」

振り返らず、腕を解いて玄関から飛び出せば良かったのに。振り返ってしまった。今度は首元に彼女の柔らかな頬が当たり、胸元から女の匂いがした。思わず抱きしめ返してしまった。柔らかい。もう駄目だ。抱き締めたまま、隣の和室に引いてある布団に倒れ込んだ。今まで溜まっていたものを吐き出す様に、彼女を抱き、そして眠ってしまった。

 あの光景を見たのは、次の日の朝だった。目が覚めると、隣には黒田友恵が肩を露わに寝息を立てていた。何てことをしてしまったのだろう。もう終わりだ。ベランダに出て、煙草を深く吸い込んだ。見られてはいけない。深くしゃがんで煙を吐き出した。ベランダには、息子が持って帰ったのだろう、朝顔やサルビアの鉢が並べてあり、ミニトマトや茄子や胡瓜の鉢もあった。早く帰らないと、立ち上がった時、ごみ捨てに来た女性を、横付けにした車が連れ去った。警察に届けないと!枕の横に転がっているスマホを手にしたが、その時スマホのアラームが鳴った。思わず、スマホが手から落ち、寝ている彼女の近くに転がった。黒田友恵は眠そうに目を擦り、ゆっくりと下着を付け、部屋着を身に着けて

「昨日のことはなかったことにしようね、先生。悪いけど、早う帰って。」

と、微笑んだ。心底ホッとした。急いで服を着て、飛ぶように自宅に帰り、静かに玄関の鍵を開けた。玄関横の書斎に入ろうとしたその時、後ろから妻が声を掛けてきた。

「あら、今、帰り?」

「仕事が終わらなかったから、準備室のソファで寝てしまって。少し疲れた。」

そう言って後ろ手にドアを閉めたが、声が裏返ってしまった。小さい男だ。自分が情けなかった。まだ、手が震えている。一度に色々なことが起き過ぎて、頭の中がパニックだ。団地から朝帰りする時、誰にも見られなかっただろうか、黒田友恵は本当に一回きりのことにしてくれるのだろうか、あの女性は本当に連れ去られたのだろうか、妻は怪しまなかっただろうか、こんなに真面目に生きてきたのに、何てことをしてしまったのだろう。もしも、今朝の出来事を警察に通報したら、何故あの時間にあそこにいたか説明しないといけなくなる。ごみ捨て場はベランダ側からしか見えない。上がり込んでいたことを話すことになり、それは自分のキャリアを終わらせることになる。そこまでの犠牲を他人の為に払わないといけないのか。他に見ていた人がいたかもしれない。手の震えがまだ止まらない。

 

 高田が帰った後、猛烈な後悔が襲ってきた。

するんじゃなかった。後悔先に立たず。高田がベランダで一服している様子を本当は見ていた。背中と溜息で後悔していることは伝わってきたし、何より煙草を持つ指が震えていることにがっかりした。熱心で良い先生で終わらせておくべきだった。自分のだらしなさにも嫌気が差した。子供もいるのに、何やってるんだろう。窓を開け、布団を干した。息子が帰って来る前には、爽やかな朝の顔をしていたい。息子の前で、女の顔は必要ないもの。

 

 浮気したな。高田の妻はすぐに分かった。朝帰ることは今迄にもあったが、あんなに慌てていることはなかった。分かり易い人だ。妬くと言う感情はもう消えていた。長い間、夫婦の営みを拒否している責任もあると思うが、1番助けて欲しかった時に背を向けた夫に、体を許す気にはなれなかった。

 娘が出来た時に、協力しながら育てようと話し合った。しかし、実際は授乳が出来ないからと、夜は一度も起きない。それどころか、夜泣きが煩いと別の部屋で寝起きし、朝はご飯くらい作れと起こされ、休みの日くらいお風呂に入れて欲しいと頼むと、休みの日くらいゆっくり入りたいと言い返された。そのうち、何も頼む気がしなくなり、会話は減った。夫にとっては都合が良かったのだろう。教師という仕事に夢と誇りを持っていたが、体に変調をきたし、辞めざるおえなかった。どんなに悔しかったか、夫には分かるまい。最近、夫は有頂天だ。長年の活動が認められ、仕事が面白くて仕方ないようだ。たまに早く帰って来ると、誰も聞いていないのに、ベラベラとよく話す。その得意気な顔を、私と娘が冷めた目で見ていることに気付いているのだろうか。

 

 本気であいつがうっとおしい。地方で講演会とかで帰宅しない日は、私もママも安らかな気持ちでいられる。リビングでテレビを観て大声で笑ったり話したり凄く楽しい。ママはあいつがいないと、とてもお喋りになる。夜遅く迄、二人で映画を観たり、買い物したりすることもある。たまにあいつが早く帰って来ると、自分の話ばかりする。要は自慢だ。自分がどれくらい頑張って認められているか。私はお前を父親とは認めていないのに。本当にくだらない。お前はお金だけ持って帰ってくればいい。初めから嫌っていた訳じゃないけど、入学式も卒業式も父親参観日も運動会も学芸会も来てくれたことは一度もない。

「今日は何して遊んだ?何が楽しかった?」

と、聞いてくれたこともない。自分、自分、自分。うんざりだ。ママは私の前であいつのことを悪く言ったことはない。でも、多分、嫌いだと思う。もし、離婚することになったら、勿論ママに付いていく。

 この階段をまた上がることになろうとは。足取りが重い。重りがついている様だ。高田は黒田友恵の家のベルを押した。

「はあい。」

顔を出した彼女の表情で、自分は招かれざる客だと痛感した。

「話があって来ました。」 

「電話じゃ駄目なんですか?」 

「すいません。貴方にも迷惑が掛かることなんで。」 

奥さんにバレて、慰謝料を請求するとでも言ってるんだろうか?たった1回なのに、面倒なことになったと溜息をついた。 

「あの子、今、友達と塾の無料体験行ってるから。でも、後30分くらいで帰ってくるから。早くしてもらえますか。」

高田の話は彼女の予想を遥かに超えていた。

「ここに泊まった日の朝、ベランダで煙草を吸っていた時、あそこのごみ捨て場から女性が連れ去られるの見てしまったんです。」

「え!何?今更言ってんの?凄い前やん。何ですぐ言わんの?大事やん。近所の人達が蒸発したって話してた女の人やないん?」

「警察に何度も言おうと思ったけど、そしたらここに居た理由も話さないといけないし、君にも迷惑が掛かるし。」

何て、小さい男だ。言えなかった事を私のせいにしてる。馬鹿にするな。

「先生、早く警察言って。正直に言うしかないやろ。誘拐よ!犯罪やろ!」

「でも、君の所にも警察が。」

「そりゃ、来るやろ!当たり前やん。先生もこれ以上、黙ってられんから、苦しいから、ここ来たんやろ?」          

高田は黙って項垂れていた。

「奥さん知ってんの?」

「何度も言おうとしたけど、話せる雰囲気じゃなくて。」    

「先生、いかんわ。埒が明かんわ。」 

「私と先生と奥さんと3人で話そ。ちょっと待って。」

そう言うと、猛烈な勢いでハム、ネギ、ピーマン、人参を刻みチャーハンを作った。それにラップを被せた。

「もしもし、うん。ママ。用事できたから、焼き飯作ってるから。うん。食べといて。用事終わったら帰ってくるから。ちゃんと、鍵掛けときよ。ママは鍵持って行くから。」

彼女は息子に連絡を取りながら、パパッと準備した。

「先生ん家も娘さんおるやろ。こんな小さい街やと店も絶対知り合いおるし、私は先のコンビニにおるから、先生は奥さんだけ車に乗せて後で私、拾って。早うして。」

押し出される様に、黒田友恵の家を後にした。転がる様に階段を降り、下に置いていた自転車に乗って、家路を急いだ。いっその事、事故に合えばいい。そうしたら、この状況から逃げられる。もう死んでしまいたい。

 家に帰ると妻と娘が二人で夕飯を食べていた。

「あら、貴方も食べる?」

妻が立ち上がり、台所に向かった。

「いや、いい。それより、急いで一緒に来てくれ。早く!」

桃子が食って掛かった。

「何よ、いきなり帰って来て!勝手なんよ、いっつも。」  

高田も怯まなかった。

「煩い!!黙れ!早く!」 

そう言うと、妻の手を引き車に乗せた。桃子も付いてこようとしたが、

「桃子、大丈夫。すぐ帰ってくるから、食べて先に寝なさい。ちゃんと鍵掛けてね。」

と、妻が桃子を諭すと、桃子はこれ以上ないくらいの侮蔑の視線を高田にぶつけてきた。

『すまない桃子。』高田は心の中で侘びた。急いで黒田友恵の元に行かねば。急いで車を出した。

 ただ事ではない様子に、高田の妻も内心は狼狽していたが、出来るだけ落ち着いて話し掛けた。

「何?何処に行くの?」

高田は「うん。」を繰り返すだけで心ここに非ずだった。

 近くのコンビニの駐車場に若い女性が待っていた。

『女関係か。下らない。』と、がっかりした。その女性は運転席に回った。

「先生、運転替わって、私がするけん。」

言われるがまま、夫が自分の横に深く腰掛けた。息が荒い。

「ちょっと大丈夫なの?」

夫は全く聞こえてない様子で、頭を抱えた。

それから、15分程車を走らせ、この街で1番大きなスーパーの駐車場の端に車を停めた。

「私は黒田友恵と言います。一人で息子を育てていて、先生には息子の勉強や、経済面の相談に乗って貰っていました。」 

「そうですか。それで?」 

「あの日、私と先生は一線を超えてしまいました。そのことは凄く後悔しています。申し訳ありません。その1回こっきりで、今日まで一度も会ってません。担当の先生も他の先生になりましたし。でも、さっき先生がいきなり来られて。家に泊まった日の朝、ごみ捨て場で女性が連れ去られるのを見たって。しかも、警察にまだ通報してないって。もう私、びっくりして。その場で警察に電話しようかとも思ったんですけど、まずは奥さんに言ってからにしようとおもって。」  

正直、気絶しそうな程驚いた。よくある不倫話だと思ったら。夫は何てことをしでかしてしまったのだろう。

「すまない。今から警察に行こうと思う。」

「そうね。もっと早くそうすべきだったけどね。」

私は怒りに震えながら、吐き捨てた。黒田友恵が運転し、私達は警察署に向かった。そして、全てを打ち明けた。

 

 やっぱり、本当の親子かもしれない。初めのうちは、息子ばかりが応対していたが、母親も出て来て商品を受け取ったり、注文もする様になった。季節の挨拶くらいだが、言葉も交わす様になり、親子がここに住んでいることに違和感を感じなくなったある日、私服の刑事が二人、豊田の元を訪ねて来た。

「ちょっとお話構んですか?」  

「僕ら、ちょっと人捜しよんですよ。」 

「この人見たことありますか?」 

写真はあの母親だった。

「知っとるよ。こないだも商品届けたしな。息子と二人で暮らしとるよ。」 

二人は顔を見合わした。

「二人はどんな感じですかね?」

「どんな言うて普通の親子よ。話したり笑ったり。最初はお母さんが体が弱い言うて、あんまり表にも出なんだけど、今は普通に散歩したり、二人で出掛けたりしよるよ。」

「脅されとる様子はないですか?」

豊田は思わず吹いた。

「ないない。何かあったんかな?」

「実は、その母親の女性なんですけど、連れ去りの被害者かもしれんのですよ。」         

「それを見たって言う目撃者が今更出て来て。見たって言うんが4月の話で。調べたら捜索願いが出とる中年の女性に似とるらしくて。」

豊田は初めて見た時の、母親の表情を思い出した。怯えている様な、警戒している様な目で、窓から自分をジッと見ていたあの姿を。越して来た時期も重なる。やっぱり、自分が最初に感じていたあの違和感は、間違いではなかったのだ。 

 あの家に向かう道は一本しかない。上がって来る車も人も一目瞭然だ。山の中に逃げたら、下の公道に下りる獣道はたくさんある。あの親子からの注文はスーパーの御用聞きアプリに入る。注文が入ってるか、スーパーに確認してみた。

「刑事さん、明日、配達する物あるわ。」 

「バンに4人乗れるかのう?」

「ギリギリ乗れると思う。一人は配達の帽子被って助手席に乗ってもろうて、3人は後ろの荷物置く所に、深くしゃがんで貰えば見えんと思う。」  

「悪いけど、今夜、駐車場に寝泊まりさせて貰ってええかな。今から応援呼ぶから。」 

豊田も、豊田の母親も興奮していた。豊田の母親は炊き込みご飯をお握りにして差入れしたり、何くれと世話をやいていた。その夜はなかなか寝付けなかった。

 スーパーには事情を明かさず、商品を取りに行く様に言われていた。スーパーで商品を預かり、その荷物を豊田の家で一旦下ろし、刑事を乗せて、あの家に向かった。怪しまれたら不味い、普段通りに。いつもの所へ車を停め、スーパーの帽子を被った刑事に荷物を持たせ、挨拶しながら玄関を開けた。田舎はどこの家も玄関に鍵など掛けない。ガラガラガラと玄関が開く音がすると、母親が出て来た。

「あれ、今日は二人なん?」

「そうなんよ。配達の数も増えよるけん、もう一人増やそうか言うてなー。」

助演男優賞を貰えるくらいの、ナチュラルな嘘が口から出て来た。

「今日は兄ちゃんは?」

「ケイスケ?今、トイレよ。」 

隣の刑事がスーパーの帽子を外したその瞬間、バンから3人の刑事が飛び出し、土足で上がり込んだ。スーパーの帽子を被っていた刑事が、母親を保護し、他の3人はトイレから出て来た『ケイスケ』を確保した。そして、『ケイスケ』はそのまま連れていかれた。

 

 「田辺美紅さんですね。」

年配の刑事が静かに問いかけてきた。終わった。元の生活に戻る時が来たのだ。『ケイスケ』は確かに私の人生の一時(いっとき)を奪った。その奪われた一時の中で、『ケイスケ』と私は確かに暮らしていた。

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