第5話
この所、自転車で走りまくって、ふくらはぎがパンパンだ。お風呂でマッサージするのが日課になっている。誰にするかは、結構早い段階で決まった。美紅さんは、明るくて、口うるさくて、家族を愛している。美紅さんに決めてから、色々な時間帯の彼女を見に行った。彼女の朝は他の母親と同じ様に早かった。5時半には台所に電気が付き、6時半から7時の間にゴミを捨てに出てくる。暫くして2階のベランダで洗濯物を干しながらご主人を見送り、今度は玄関で娘を見送る。月曜、水曜、金曜はパートに出掛け、夕方仕事が終わるとスーパーで買い物をして帰宅し、夕飯を作りながら、洗濯物を取り込む。そうしている内に、ご主人が帰宅し、娘が帰って来たら、夕飯。順番はバラバラだが、風呂に入り、リビングの明かりが消えるのが大体23時頃。土日の過ごし方はバラバラだ。家は建売りで周りとかなり密集していて、家から連れ去るのは難しい。パートの行き帰りの道は商店街を抜ける為、かなりの人通りがある。やるとしたら、ごみ捨ての時しかない。ごみ捨てに車を使う人も多く、横付けするとごみ捨て場の壁と、車に挟まれ死角になる。何回か美紅さんのごみ捨ての時間に、車を横付けしてみたが、美紅さんは音楽を聴いているからか、おばさんだからか、全く警戒する様子もなかった。
あの時、自分が見た光景は何だったんだろう?何故、ニュースにならないのか。高田はあの朝からそのことばかり考えていた。あれは間違いなく誘拐だ。朝、夕のニュース、ネットニュース、あらゆるニュースを毎日チェックしているが、全く事件として扱われていない。
高田は教員をしており、去年から県独自で立ち上げた、サポートが必要な家庭の委員会の責任者に抜擢されていた。高田の年齢から考えると、出世コースに乗っていると言って良いだろう。全ての子供達が家庭環境に関わらず、同じ教育、同じ機会を与えられるべきという熱い信念があり、貧しい家庭には受けられる奨学金、市や県からの補助があることを、個別訪問してまで知らしめる活動していた。貧しい家庭は日々の生活をやりくりすることで必死な為、なかなか積極的に情報を収集出来ないでいる。貧しい家庭や、育児放棄気味の家庭の中にも、向上心があり才能溢れた子供達がたくさんいる。にも関わらず、環境のせいで潰れてしまうのを見るのに耐えられなかった。高田の父親も教育者であり、母親は父親を尊敬していた。そんな家庭で育ち、高田自身も自然と教育者を目指す様になった。
こういった活動をしていると、賛否両論出てくる。特に富裕層の家庭からは「依怙贔屓」であり、私生活に介入し過ぎで、本来の教員活動に支障を来たしているのではないかなど。そういう声が上がるのは想定内の為、学校側への提出書類の期限を守ることと、子供達への教材作りにも余念はなかった。教員は自分の天職であり、やり甲斐のある仕事だ。仕事にのめりこめばこむ程、家庭は冷え込んだ。妻も教員だった。結婚した当時は子供が生まれても、二人で協力しながらやって行こうと話していたが、実際、育児に時間を割かれたのは妻だけだった。妻は疲弊し、仕事を続けられなくなり退職した。妻が退職し、家庭に入ったことを良いことに、自分のやりたいことに没頭していった。初めのうちは妻も、要望や不満をぶつけてきたが、やがて何も言わなくなった。何も言われなくなった=自分の活動を理解してくれたのだと解釈した。
ある年、高田の活動がメディアに取り上げられた。高田が訪問活動を始めた年の生徒が議員になり、教育の大切さを訴える手記を新聞に寄せた。その手記の中に、恩人として高田の名前を載せたことが切っ掛けだった。途端に高田の活動に賛同する者が増え、教員活動の傍ら、講演会の依頼がきたり、特別なポジションが与えられることとなったのだ。足を棒にして動き回っていたその活動も、学校に一人、担当職員が配置され、その成果が高田の活動となり評価される。
慢心。長年の活動が認められ、自分の意見が通り、具現化される。時間と心とお金のゆとりから隙が生まれてしまったのかもしれない。活動の中で知り合った母親の一人と関係を持ってしまった。いつもは誤解されない様に、第三者の目がある公的な場所や玄関先、二人だけにならない様に、家に上がる場合には同行者を共だっていたのに。
黒田友恵は高校卒業時に身籠り、就職も進学もせずに息子を生んだ。相手の男は就職し、きちんと籍も入れた。初めは張り切って二人とも育児に頑張っていたが、何せ若く周りは遊んでいる。二人とも、自分ばっかりと不満を募らせ、喧嘩が絶えず、2年も持たず離婚してしまった。友恵は息子を連れて実家に戻ったが、実家にはまだ妹と弟もいて、居づらくなり子供と二人で団地で暮らしていた。この団地は市が運営しており、所得が低い者、片親家庭を優先させてくれた為、労せず入居出来た。元夫も毎月少ないながらも、養育費を入れ、泊まりで預けたり交流も続いていた。昼間は子供は保育園、自身はコールセンターで働き、それなりに親子二人楽しく暮らしていた。
息子が小学3年の頃から、他の子供との学力の差が顕著になり、学習相談に学校に呼ばれる様になった。初めは面倒臭いと思っていたが、高田先生が学習面から経済面まで熱心にサポートしてくれ、いつしか面談する日を心待ちする様になった。
あの日は少し風邪気味で、面談をキャンセルした。熱が上がりそうな感じもあり、次の日が土曜日で学校も休みだった為、息子は元夫の家に泊まりに行かせていた。夜8時半頃、高田先生が訪ねてきた。
「夜分遅く申し訳ありません。提出期限が迫っている書類がありましたのでお持ちしました。ドアノブに掛けておきます。」
インターフォン越しの優しい声に、眠っていた雌の本能が体の中を駆け巡った。
「高田先生、申し訳ありませんが、期限までに持参することが出来ないと思います。今、書いてお渡しします。」
そう言って扉を開けた。
家庭サポート委員。長い間、個人で活動していたが、きちんと予算と人員が配置される様になった。今年から担任を外れ、サポートが必要な家庭への活動に専念出来るポジションを与えられた。
「先生、どうしましょうか。黒田君ち。今日、書いて貰うつもりだったんですよ。期限も近いし、今日持って行きますか?」
「黒田君ちは、帰り道だし、俺がドアノブにでも掛けて置くよ。もうすぐ、奥さん出産だろ?早く帰ってやれよ。」
「じゃあ、すいません。お言葉に甘えて。」
今年度から一緒に活動している小林君は、もうすぐ父親になるらしく、とても張り切っている。素直で元気な若者だが、子供の味方になるあまり、子育てに熱心ではない親に食って掛かる所が玉に瑕だ。
個別訪問をする時には、極力二人で活動することにしていた。自分達を守る為だ。親の中には、暴言や暴力に訴える人達もいる。被害に合うと、この活動をしたくないと言う先生も出てくるだろう。折角、予算も付き、認められ始めた活動を頓挫させたくはなかった。
本当に書類をドアノブに掛けて帰るだけのつもりだった。
「先生、上がって下さい。玄関の外で待っとられたら落ち着かんから。」
狭い玄関で突っ立っていると、
「先生。座って、お茶でも。」と、小さな丸いダイニングテーブルにお茶が出された。上がり込んで座ったものの落ち着かす、子供の所在を目で探した。
「あっ、今夜はパパん家にお泊りなんですよ。」
「そうですか。」
母親は横になっていたのだろう、台所の隣の和室には布団が引きっぱなしだった。部屋着はVネックで、書類を書いている間中、白い谷間が見え、目のやり場に困った。目線を谷間と布団から外そうと空を泳がせた。
高田は妻と娘の3人暮らしだ。もう一人くらい、男の子が欲しかったが、妻が娘を産んだ後から、全く性交渉が無くなってしまった。だから、二人目が出来る訳がない。元々、性欲が強い訳ではなかったし、子供が小さい頃は夜泣きが煩わしく、別の部屋に寝るようにしていた為、そんな気にもならなかった。娘が自分の部屋で寝る様になってから、何回か妻を誘ってみたが、拒絶された。甘い拒絶ではなく、汚らわしい物に触られたと言う様な激しい拒絶だった。その時、初めて、家庭の中で2対1になっていることに気が付いた。給料もボーナスも全額渡し、大きな声で怒鳴ったことも、勿論、暴力を振るったこともない。浮気もしていない。ただ、仕事を全力で頑張っているだけなのに。何がそんなに不満なのか全く分からなかった。仕事は頑張っただけ成果が出ているし、何より感謝され、自分の存在意義を見出すことが出来た。今の支えは仕事だけだ。
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