第4話

「おっ母よ。あそこの家よ。何かおかしいわい。」

豊田は街のスーパーの配達の仕事をしている。元々は酒屋だったが、今はわざわざ酒を買いに来る客はいない。この辺りは限界集落と呼ばれる地域で、年寄りが殆んどだ。酒を卸していたスーパーの店長に、集落の地理に詳しいことを見込まれ頼まれたのだ。最近、引っ越してきたあの親子が気になって仕方ない。

「え!?どこよ。」     

「山の上の空家やったとこよ。」 

「お母さんが弱いけん、空気の良い所で過ごす為にこっち来たんじゃろ。家も誰も住まんかったら傷むし、ちょうど良かったって、役場の人も言よったし。」

「あの母親、そんな弱そうに見えんで。いっつも息子が出てきて、毎日、家におるんで。何の仕事しよるんぞ。」  

「役場の人は家で出来るパソコン使って何やら言よったもん。良いやないの。定期的に色々頼んでくれるんやけん。有難いやん。」 

「普通やったら、買い物に行くやろ。あんな高そうな車あるんやけん。」

「知らんわい。あんたが聞いてみんけんよ。でも、そういうんは、都会の人は嫌うけんな。やっぱり、聞かん方がええかもな。あんたが色々詮索して出て行かれたら、役場の人に叱られるわ。」

 役場の連中は、この限界集落に何とか若者を呼び込もうと必死だ。年に何回か田舎暮らしに憧れる若者や、早期リタイヤした初老夫婦が越してくるが、居付いた者はゼロだ。のんびりしたくて越してくるのに、祭の役員、消防団への勧誘、公民館の管理、ここに居付いたらエラいことになると去っていくのだ。と、言う訳でそういう役は、自分が担っている。この集落で1番若いのだから、仕方ない。一度は都会に出てみたこともあったが、水が合わず帰ってきた。結婚していたが、ここでは暮らせないと半年も待たず、嫁は出て行った。それからはずっと独身だ。母親は「だから地元の娘と結婚しろと言ったのに。」と、どこからかお見合いの話を貰ってきていたが、のらりくらりと、はぐらかしている内に何も言わなくなった。独りが気楽でいい。兎に角、自分がしっかりと見極めなければ。変な使命感に豊田は燃えていた。

 

 ストックホルム症候群なのだろうか。一緒に暮せば暮らす程、『ケイスケ』に馴染んでいった。もしも、息子がいたらこんな感じなのだろうか。逃げ出すチャンスは山ほどあるのに。夫と桜との暮らしがまるで、前世の出来事の様に思えてしまう。私がいなくなったことで、不便を感じているだろう。ただ、それは物理的なことで、精神的な面ではない気がする。『ケイスケ』は私を必要としている。一緒に暮らしてみて、それをヒシヒシと感じる。1ヶ月を過ぎた頃から、拘束されることは全く無くなった。『ケイスケ』が解放してくれるその日を待ってみたい。何故、私を選んだのか、その理由が分かるその日まで。

 

 誰を選ぶか。人生を棒に振るかもしれない。でも、やらなければ、前に進めない。ずっと引っ掛かって、同じ場所をグルグル回るくらいなら、やってやる。

 母親はいた。綺麗な人だった。いつも酒浸りで、酒を飲んでない時は、男だ。泣くか甘えるか。暴力は振るわれなかったが、世話をして貰ったこともなかった。目の端に存在を確認するくらい。朝、起きると大体母親はいなかった。千円札や500円玉がテーブルの上に置いてあり、帰ってくる日もあれば、帰らない日もある。母親が階段を上がるカツカツカツと乾いた音が響くと、心が踊り、玄関まで走った。笑いかけてくれることは一度もなかった。

 幼児が一人で、時間も問わずうろついていると通報が入ったのだろう。暫くして施設で暮らすことになった。施設での生活は窮屈極まりなかった。好きな時に起き、好きな物を食べていたのに、朝起きる時間から寝るまですることが時間単位で決まっていて、歯を磨く、お風呂に入る、着替えることは施設で学んだ。施設で暮らしたのはほんの数ヶ月で、その後、父方の祖母が引き取りに来てくれた。祖父は既に他界していた為、祖母と二人で暮らすことになった。祖母は穏やかで、静かに話す人だった。母親のことを悪く言ったことは、ただの一度もなかった。

 「お母さんは気の毒な娘なのよ。幸せになりたかっただけなのに。恨んだら駄目。あの娘も精一杯なんだから。」

 小さい頃は、母親を恨んだことはなかったが、小学校の高学年辺りから、母親への感情に負の色が混じる様になった。祖母から聞いた話だと、母親の両親は離婚しており、母親は父親に引き取られたが、父親の再婚相手と折り合いが悪く、高校卒業と同時に家を出て働き始めたらしい。介護の資格を取る為に働いていた職場で、出入り業者の父親と付き合い始め、妊娠したのをキッカケに結婚し、祖父母達と敷地内同居が始まった。祖母はその話をする時、とても幸せそうな顔をしていた。

「こんな若くて綺麗なお嫁さんが来てくれるなんて。しかも、おめでただったしね。」

祖母は母のことを『あの娘』とか『圭ちゃん』と呼んだ。

「周りには出来ちゃった婚なんてって言う人達もいたけど、私は凄く嬉しかった。順番なんてどうでもいいもの。『圭ちゃん』がいた頃は本当に楽しかった。息子より一回りも下でね。まだ、女の子って感じで。家事にも馴れてないし、身重だったから、一緒にご飯作ったり、あなたの服を買いに行ったり。私は娘がいなかったから、毎日楽しくて。女の子がいると、家が華やぐのよ。息子と『圭ちゃん』は仲が良くて、二人を見てるだけで幸せな気持ちになったわ。」

 僕が1歳を過ぎた頃、父は接触事故が元で亡くなった。その事故の時に頭を打っていたらしく、数日後倒れ、そのまま意識も戻らず死んでしまったそうだ。

「私達もたった一人の息子が亡くなったんだから、悲しくて悲しくて遣りきれなかったけど。『圭ちゃん』の落ち込み様が酷くて、ご飯も喉を通らなくてガリガリになっちゃって。実家も頼れないし、私達もどう声を掛けてあげていいか分からなくて。暫くは私達と暮らしてたんだけど、ある日あなたを私達の元に置いて、フッと居なくなって。1か月くらいしたら、また戻って来て、今度はあなたを連れてまた居なくなって。ちょうどその頃、お祖父ちゃんも倒れて、介護が必要な状態になってしまったから。気にはなってたんだけど、私も一杯一杯で。ごめんなさいね。その内に、きっと『圭ちゃん』から連絡が来るだろうくらいに思ってたから。連絡は『圭ちゃん』からじゃなくて、施設からだったわ。お祖父ちゃんを看取って、半年くらい経った頃かな。あなたがいた施設から連絡がきて。施設の人から聞いた『圭ちゃん』と家に居た頃の『圭ちゃん』が結びつかなくて。児童相談所の人が記録していた、あなたが住んでいた部屋を見た時は、流石に怒りが湧いたけど、でも、同じ位悲しかった。あの荒んだ部屋は『圭ちゃん』そのものなんだって。」

 母親は蒸発したまま行方不明だ。母親が住んでいたアパートの大家さんが、部屋に置いてあった僕に関する物を、わざわざ施設に持って来てくれたのだ。その中にボロボロになった母子手帳があった。そこに書かれてあった連絡先から祖母に結び付き、引き取って貰えたのだ。滞納していた家賃を祖母が払うと言った時、大家さんはもう取り壊す物件だからと受け取らなかったそうだ。大家さんといい、祖母といい、母親の周りには助けてくれる人がいたのに。

 小学校に入ると周りと、自分との環境の違いに戸惑った。大体の家庭に父親と母親がいて、兄弟や姉妹がいた。母親だけ、父親だけの家庭もあったが、両方いない家庭は珍しかった。低学年の頃は「どうしてパパやママがいないの?」と聞かれることもあったが、そういう家庭なんだと認知されると、誰も口にしなくなった。

 小学6年の時に卓也と言う親友が出来た。卓也の家は母子家庭で、母親は朝早くから夜遅くまで働いていたが、卓也のサッカーの試合に休みを合わせて応援に来ていた。明るくて元気で貧しいことを隠さなかった。給料前は、もやしと竹輪でかさ増ししたお好み焼きや、ウインナーだらけの焼肉をご馳走してくれた。卓也の母親は、僕の理想の母親像に強い影響を与えた。

 母親とは、家の太陽であり、子供の為に働くことを厭わない女性のこと。自分の身なりに拘り、女の部分を感じさせる美魔女的な女性も好きにはなれなかった。僕の女性の基準は、理想の母親になれそうか、そうではないかであり、それ以外の基準は分からなかった。卓也の母親と接する時、自分の母親の不甲斐なさに怒りが湧いた。何故、僕の為に生きてくれなかったのだろう?

 初めて母親の悪口を言った時、祖母は悲しそうな顔でこう言った。

「圭ちゃんには愛が足りなかったのかもしれないね。愛を沢山持ってる人は強いから。」

 プロのサッカー選手になると言ってた卓也は、高校卒業後、消防士になった。

 高校3年の秋、祖母は死んだ。学校から帰ると台所で倒れていて、病院に運んだが手遅れだった。祖母には親戚らしい親戚も居なかった為、家、土地、預貯金は全て僕が相続した。家と土地を処分し、僕は小さなアパートで一人暮らしを始めた。一人暮らしを始めて、改めて祖母の有難みを感じた。僕が、空腹でなかったことも、清潔でいられたことも、全て祖母のお陰だったのだ。祖母はもういない。僕が何かをしたとしても、迷惑を掛ける家族はもういない。限りなく自由で、孤独なのだ。

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