第18話

 彼女は娼婦ではなく、普通の娘なのだ。

 どれほど焦がれても、欲求のままに乱暴をすることは出来ない。彼女と過ごした時間は瞬く間に過ぎた。離れがたくて、無理やり待ち合わせ場所まで送っていった。どれほどジゼルが、別れを惜しんでいるのか彼女はまったく気付いていないようで、それが腹立たしくて仕方がなかった。

 ここで別れてしまえば、もう二度と二人が会うことはないだろう。身分が、住む場所が、向ける思いが、ジゼルと彼女とでは違いすぎた。

 しかし、最後の最後で、ジゼルの気持ちが破裂した。あっさりと背を向け別れを言葉にする少女が憎くて、思わず手を伸ばしていたのだ。あの時、ジゼルは彼女の唇に、自分の唇を寄せようとした。わかっている。それは罪深い行為だ。相手の意思を尊重せず行われる行為は、たとえこちらに好意があったとしても、決して許されることではない。しかし、あのときのジゼルには理性が働かなかった。ただ別れがつらかった。そして、愛しかった。

 これが恋かと、驚いているノアの顔を見て、やっとジゼルは自覚した。そうか、これが恋なのか。なんて甘く狂おしい感情なのだろう。愛おしい、抱きしめたい、触れたい。彼女を自分だけのものにしたい。ずっと側にいて欲しい。

 恋に初心者のジゼルは、欲望を抑える術をあっさりと見失った。

 ――――――あの鍵を見るまでは。

 彼女が動いた拍子に胸元から転がり落ちたのは、アシュヘルクでは一般的な婚姻の証のものだった。

 彼女の年齢で結婚していることは、決して珍しいことではない。特に田舎のほうでは、早くに結婚することで多くの子どもを生み、やがてその子どもが家の働き手としていくらばかりかの富を運んでくる。

 彼女もその例の一人なのだろう。

 夫は出稼ぎにでも出ているようだった。どう見ても豊かな生活をしているようには見えなかった。それとも、彼女は捨てられたのか。彼女の口ぶりから結婚生活の全容はわからないが、不誠実な夫に違いないとジゼルは思った。

 しかし、それでも彼女は夫を信じているようだった。

 そんな娘相手にとても告白などできようはずもなく。たとえ告白できたとして、いったいなんと言えばいい? 自分が第一王子だと言うのか? 数日後には別の女との結婚が決まっていることを?

 いえるはずがない。思いを伝えたところで、それは迷惑なものでしかない。

 彼女にとってみれば旅先で偶然知り合っただけの男だ。きっとすぐ忘れてしまうような相手に、思いを伝えられても困るだろう。

 実ることのない思いは、胸に秘めておいたほうが互いのためだ。傷つかなくてすむ。

 恋を知って、これほどまでに自分が臆病だということを知った。ほんの一瞬で人に心を奪われるという現実があることを知った。

 それがわかっただけで、良かったのだと思う。

 ――――――しかし、そんなジゼルを、友人たちは馬鹿だとののしるのである。

「人妻なんて、むしろ一度男を知ってるから、わりと簡単に落とせるものを。まったく、据え膳という言葉を知ってるかい、君は」

「彼女のどこが据え膳なんだ!」

 どこにも据えられてなどいなかった。

「しかも、お前の言っていることは世のご婦人方に失礼だ」

「そうかい? しかし、これは僕の経験則に基づいての持論なんだがね。――――――ジゼル、君は顔はもちろん、家柄身分においても、この国に並ぶものはナシといわれるほどのものだ。それをアピールしなくて、いったいどうするんだい? たった一夜、それがなんだというんだい。夫のいない妻なんて、横からさらってくださいと言っているようなものだよ。君は仮にも一国の王子なんだ。彼女を正妻にすることは出来なくとも、愛人にすることは出来る。しかも、飛び切りの贅沢で高貴な愛人だ。普通の娘なら、喜んで君の前に身を投げ出すと思うがね」

「愛人?」

 不愉快な言葉を耳にしたというように、ジゼルの顔が歪む。

「彼女をそんな不名誉な立場に陥らせるぐらいなら、手に入らなくても構わない」

「ジゼルは潔癖だなぁ」

「おまえが、不真面目なだけだ」

「人生は楽しまなきゃ損だよ」

 まるで博打打のような台詞を吐く友人を、ジゼルは一瞥した。キリエラは「いいのかい?」ともう一度言った。

「恋も愛も、綺麗なものばかりじゃない。綺麗事ばかり口にしても決して手に入らないのが、そういうものだ。初めて好きになった女を、君は忘れられるのかい?」

 濃い緑色の瞳が、心の中を覗き見ようとするかのようにジゼルに向けられる。忘れられる。どうだろう。そんなことは、ジゼル自身にもわからない。だが、忘れる努力はしなければならないだろう。彼女がジゼルのものにならないように、ジゼルも決して彼女のものにはなれないのだから。

 この命もこの身も、アシュヘルクのためだけにあるのだ。

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