第17話


 石組の壁にはタペストリーが掛けられ、石床には柔らかな絨毯が敷かれている。どちらも精緻な刺繍が施されていた。部屋の至る所に置かれた調度品は、簡素なデザインではあるが決して安物ではない。むしろ目の飛び出るような高価なものばかりだ。部屋の右端に置かれたソファに二人の青年が座っている。一人は黄金色の髪の毛を首筋で一つに結び、甘く華やかな美貌におかしげな笑みを浮かべている。白く細い指には紅茶のカップが握られていた。

「それで、結局そのまま帰ってしまったわけかい、ジゼル」

 キリエラ・フォン・ベルクール伯爵は優雅な仕草でカップをソーサーの上に戻した。向かいで不機嫌な表情を隠しもせずに座っているのは、彼の親友ジゼル・ウル・ツエルズ。アシュヘルクの正当なるツエルズ王家の次期王位継承者にして、第一王子だ。

 ここは王子の私室だった。

「他にどうしろというんだ。彼女には夫がいた」

「夫がいるからなんだというんだ。彼女の夫は、まだ若く美しい花盛りの妻を一人残して旅に出てしまっているんだろう? 花の命は短いんだ。夫の愛情を欠片も与えられなければ、彼女はどうやって美しく輝けるというんだ? その花を夫以外の男が摘み取ったとしても、僕は夫の方が悪いと断固断言するね」

「おまえの発想はおかしい」

 ジゼルは断言した。

「普通に考えろ。夫のいる女性に手を出すのは常識にも道徳的にも反する。そもそも、彼女は摘み取られたがってはいなかった。俺は彼女の意思に背くことはしたくない。何よりも、たった一日だけの出会いだ。俺には、これだけで十分だ」

 キリエラはその美貌で上流階級では存分に浮名を流しまくっている。女性は愛でるもの、楽しむものというのがモットーのキリエラに対して、ジゼルは外見は彼に負けず劣らずではあっても、生真面目で感情表現の乏しい性格からか、女性から遠巻きにされがちだった。

 そんな奥手なジゼルがまともな恋一つすることなく、ついに国のために結婚することが決まってしまった。そのことを知ったキリエラや、他悪友数人が独身最後の悪遊びと称してジゼルを城の外に連れ出したのだった。

「たまには羽目を外して来い。生涯で一度も女遊びをしないなんて、損をしているとしか言いようがない。女の愛し方を知れば、花嫁を大事にするやり方もわかるってもんだ。これは後学のためでもある。さあ、楽しんで来い」

 そういって結構な額の金を渡されて、馬車から放り出されたのは下町付近だった。近くにはルーヴェ一の歓楽街がある。しかし、正直ジゼルはその手のことにはあまり興味がなかった。子どもの頃から武術一筋で育ってきた。彼の一番の趣味は体を動かすことだ。剣を振るったり馬を駆ったりするほうが、女を相手に洒落た駆け引きをするよりもずっと楽しい。もちろん、女が嫌いというわけではない。時には強く欲が動くこともある。しかし、それを娯楽として捉えるほどの興味はわかなかった。

 たまった熱は、それこそ体を動かすことで発散してしまった方が気持ちが良かったし、ジゼルはいまだ自分を虜にするほどの女に出会ったことがなかった。恋が楽しいと、友人たちは言う。しかし、その恋と言うものが、彼には良くわからない。

 ジゼルにとって婚姻は絶対的な義務でしかなく、それは自分の意思とは関係のない外側で執り行われる政治的な事実という認識でしかなかった。第一王子の結婚は、アシュヘルクと国民のためのものでしかない。そこには一滴たりともジゼルの意思が混入されることはないのだ。

 たとえ誰かを好きになったとしても、その恋は実ることはないだろう。無駄に終わる感情なら持たぬほうがいい。・・・・・・とジゼルの中でそんな図式が出来上がっているのかどうかは、正直彼自身もわかってはいなかったりするのだが、つまりは彼はいまだ恋というものにほとんど関心がなく、それと同じくらいに女にも関心がなかった。生来がひどく淡白な性質の持ち主なのだろう。

 あまりに淡白すぎて友人たちが、まっとうに花嫁と夜の営みが執り行えるのか心配するほどだった。そのための、今回の企画であった。

「後腐れなくて、第一王子の名誉を傷つけることもない相手とくれば、やっぱり娼館の女だろう」

 口が堅く貴族御用達の娼館を教えてくれたのも、悪友の一人だ。そこへの道順を書いた紙を胸元へ入れられ、馬車から降ろされたわけだが。

 ジゼルはがらがらと音を立てて馬車が来た道を引き返していくのを見送った時には、すでにその件の娼館へ行く気は失せていた。それよりも、突如与えられた自由にしばし考え込み、ぶらぶらと町の中を散策してみるのもいいだろうと思ったのだった。

 今までも城を抜け出したことは何度かあったが、下町まで足を運んだことはなかったのだ。途中いい匂いにつられ立ち寄った店で、財布を無くしたことに気付き、ジゼルはそこで一人の少女に助けられた。

 その少女はとても薄汚い格好をしていた。よれよれにくたびれた灰色の外套は泥と土埃に汚れている。その下に着ていた黒一色の服は、デザインも古臭い上にひどく野暮ったい。まるで二昔も前の老人が着ているような格好だ。いまどき若い娘が、黒一色の服など着たりしない。その上、かなり綻びや色褪せが目立っていた。

 着ているものからかなりの田舎から出てきた旅行者なのだろうことは、すぐにわかった。この時期は、薔薇祭りを目当てに観光客が多くやってくるので、珍しくはない。

 そんな野暮ったく小汚い娘に、しかしジゼルは一瞬で魅せられたのだった。

 年のころは十六、七ぐらいだろうか。化粧っ気のない顔は、なんの手入れもしていないのだろう。肌は貴婦人にも負けないほど白かったが、頬の辺りが荒れてかさついていた。自分で切りそろえているのか、切り口の不ぞろいな前髪の下に、目尻のつんと尖った猫のようにな瞳があった。鼻は形よく上向きで、唇は小さく厚みがある。

 一見すると愛らしく見えた。しかし、彼女の瞳は、外見とはまったくの真逆の性格を伝えていた。

 まるで太陽の光を搾り取って集めたような金色の瞳は、その虹彩が何故か赤い。珍しい瞳の色だった。彼女は、両目でまっすぐに、ジゼルを見つめてきた。その視線の強さが、彼女の勝気な性格を物語っている。

 それは、ジゼルを強く惹きつけた。と、同時に何故か既視感を抱かせた。遠い昔、この色をどこかで見たことがあるような気がしたのだ。それは強く強く胸に突き刺さって、残った。

 立ち去ろうとした彼女をとっさに引き止めてしまうほど、ジゼルは彼女のことが気になった。一緒にいればいるほど、何故か胸が熱くなった。彼女がジゼルに対して、なにか特別なことをしたわけではない。むしろ何もしていない。なのに、ジゼルは、彼女が自分に視線を向けただけで、声を掛けただけで、笑みを見せてくれただけで、胸が大きな音を立てて鳴り出し、喉が詰まったように息苦しくなった。手を伸ばして触れてみたくなり、その柔らかそうな黒髪に鼻先を突っ込んでみたくなった。ふとすれば、彼女の体を腕の内側に閉じこめ、無理やり唇の感触を確かめてしまいたくなった。

 ――――――しかし、当然そんなことが許されるはずも、出来るはずもない。

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