第10話
町中から響く鐘が五つ目を鳴らす音が聞こえたのは、聖マティシア教会前の停留所を降りた直後だった。王城からまっすぐにここまで戻ってきた。ジゼルも一緒だ。彼はわざわざノアを送るといって聞かず、王城前の停留所から、一緒に乗り込んできたのだ。
彼は先に馬車を降りると、手を差し出してノアが降りるのを手伝ってくれる。その慣れた仕草が、やはり育ちのよさを窺わせた。わざわざ尋ねなかったが、腰に指している剣といい、上級軍人なのかもしれない。
「今日はありがとう。ジゼルのおかげで、いろいろと見て回れて助かったわ」
「そうか・・・」
彼は無表情にこくりと頷いた。
「こちらこそ、礼を言う」
「昼を奢ったぐらいよ。そこまで感謝されるほどのことはしてないわ。ま、その後の観光のときの馬車の運賃だって、あたしが出したんだけどね。あんたは代価に見合うだけの働きをしてくれたんだから、お互い様よ」
「ノア」
「ん?」
「今日は、あんたに会えてよかった」
「昼を奢ってもらったぐらいで、大袈裟な言い方するのね」
あまりに神妙な声と表情だったので、ノアは思わず笑ってしまった。向かいに立つ男は、ひどく真剣な目をしている。黒い瞳はまるで鏡のように、不思議そうにしている自分の顔を、映し込んでいた。
「ジゼル?」
「あんたにはわからないだろう。だが俺にとっては、今日あんたに会えたことは、神に感謝したいほどの幸運だった」
ささやくような声音は熱を含み、ノアの鼓膜を振るわせる。その奇妙な温度を持った響きに、彼女はぽかんとしてジゼルを見つめた。と、そのとき、道の反対側に立っている若い娘たちが、ちらちらとこちらへ視線を向けていることに気づいた。頬を寄せ合いながら、何事かを笑いながら囁きあっている。その視線が、ジゼルに向けられていることに、気づいた。
とたん、ノアはそれまで見えていなかった、周りの人々のことにも意識が向いた。
ルーヴェは王城を戴くだけあってアシュヘルク一の大都市であり、流行の発信の地だ。若い娘やいいところの奥様はもちろん、下町の労働者たちでさえ洒落た、小奇麗な格好をしている。王政がしっかりしているおかげで、経済が安定しているのだ。だからアシュヘルクでは最下層の労働階級者でさえ、食うに困るということは滅多にない。真面目に働いていれば、それに見合うだけの代価が十分支払われる。
人々の心に余裕があれば、町はいっそう華やぐ。娯楽も盛んで、外国からの旅行者も多い。
そんな中にいて、ノアは自分がひどくみすぼらしい格好をしていることに気づく。町へ一番最初に入ったときも同じことを思ったが、そのときは自分と似たり寄ったりの格好をしたラビットがいた。いま目の前にいるのは、地味ではあるが清潔そうな衣服を身にまとった美丈夫だ。彼の場合、服装以上に容姿が華やかだ。そんな男の前にいる自分が、あまりに場違いすぎて、ノアは急に居たたまれない気持ちになってしまった。
目の前のこの男は、若い娘の視線を集めるような男なのだ。
「えっと・・・あたし、そろそろ行くわ。送ってくれてありがと・・・・・・帰りのお金は足りてるよね」
「待て」
後退しかけた体をがしりと掴まれた。両肩にかぶさる大きな手のひらに驚いている間に、ジゼルの顔がぐっと近づいた。
「な、なに?」
反射的に身をそらした拍子に、襟から皮ひもが転がり出てきた。それをすぐ近くで目にしたジゼルの顔が、さっと強張った。
「ジゼル?」
「これは、婚姻の鍵か? ・・・・・・結婚していたのか?」
大きく見開かれた黒い瞳が、食い入るように古い鍵を見ている。
アシュヘルクでは、婚姻の証として寝室の鍵を贈りあう習慣がある。 それは愛が褪せることがないことを意味する黄金で作られ、表面には剣と蔓薔薇が絡みつく精緻な彫刻が彫られていた。婚姻で贈りあう鍵は、実用のものではない。この鍵も、本当に夫の寝室の扉を開けられるわけではなかったが、互いの鍵を渡しあうことで夫婦の間を隔てるものが何一つないのだということを意味しているのだ。
思わずそれに手をやって握り締めたノアは、我に帰って頷いた。
「ええ、そうよ」
ジゼルはなぜか言葉を失ったようだった。彼の手が、ゆっくりとノアの肩から離れる。大きく見開かれた瞳に浮かぶのは、失望だ。しかし、なぜ彼がそんな感情を抱くのか、ノアにはわからない。
彼はなにかを振り払うように硬く目を瞑って、頭を振った。黒い髪がさらりと流れるのが見えて、ふと触れてみたいと感じた。そんな自分に小さく驚いた彼女は、押し隠すように別のことを意識した。目の前の男のことである。
「あたしが結婚していることが、なにか問題でもあるの?」
のろりと上げられた黒い瞳が、揺れている。
「どうかしたの?」
どうして、そんな哀しそうな顔をしているのだろうか。
「いや・・・問題なんて・・・あるはずがない。少し驚いただけだ。ずいぶんと若いときに結婚したんだな」
「若い? そうかしら? あたし見た目ほど若くはないのよ」
「・・・・・・良い、夫か?」
ノアはきょとりとした。少し考えるように頭をひねり、もう長いこと会っていない夫のことを思い起こした。
「いい夫だと思うわ。好きになって結婚したの。彼もあたしを愛してくれた。でも・・・・・・いまはわからないわ」
「わからない? なぜだ?」
「一緒に暮らしていないからよ。もうずっと彼は遠くにいるの」
ノアを一人残して旅に出てしまった。彼女がそういうと、何故かジゼルは眉根を寄せた。
「それはいい夫とは言えないのではないか?」
「でも、別れのときに彼は言ったの。愛しているから、待っていて欲しいって。必ず迎えに来るって」
「なら、ノアはその約束をいつまでも守っているのか?」
「そうよ。ううん、そうだった。でも、やめたの。待っているだけよりも、迎えに行ったほうがずっと早いし確実でしょ」
ノアは、微笑んだ。ずっと同じ場所に立ち止まって足踏みしているよりも、駆け出して前へ少しでも進んだほうがいい。そう気づかせてくれたラビットに、彼女はとても感謝している。しかし、何故かジゼルは、不愉快そうに鼻を鳴らしたのだった。
「その男は、おまえを忘れているかもしれないのにか? いつまでも迎えに来ないということは、つまりはそういうことだろう。違うか? 遠くの花より近くの花を愛でるほうを好む。それが男だ。よその地で、別の女と新しく結婚しているかもしれない。ノアのことなど忘れて。そういう結果が待っているかもしれないのに、それでも会いに行くのか?」
彼女は絶句した。しかし、その表情がノアが一度として、それを考えたことがなかったことを物語っている。
彼女は呆然としたように、夫のことを考えた。彼女の夫は美しい外見をしていた。背が高く、繊細で柔らかな甘い顔立ちは、多くの娘たちを惹きつけた。どうして彼が自分を選んでくれたのか、ノアには正直わからなかった。それでも、夫は多くの娘たちの中からノアを選び、愛し、大事にしてくれた。
ノアの知る夫は温和で誠実な性格だ。浮気なんてするような人ではない。しかし、ジゼルは言う。人の心は変わるものだと。男の心は移ろうものだと。
夫に限って、そう自信を持っていえなかった。ノアは夫と離れている時間が長すぎたのだ。
俯いて不安そうに考え始めたノアを、黒い瞳が見下ろしている。その瞳はかすかな苛立ちと、後悔がない交ぜになって揺れていたが、彼女は気付かない。そのとき、遠くで彼女を呼ぶ声がした。はっと振り返ると、教会の入り口の前にラビットが立って、こちらへ手を振っている。
ノアは、約束のことを思い出した。
「あたし、行かなきゃ」
ついさっきまで俯けていた顔を上げて、ジゼルを見つめた。少しためらった後、自分自身に言い聞かせるつもりで、言った。
「あんたの言うことは本当かもしれない。でも、自分の目で確かめなきゃ、わからないわ。そうでしょう? あんたは夫――――――ルカのことなんて、なにも知らないじゃない」
「・・・・・・そうだな」
ジゼルはまっすぐに見つめてくるノアの視線から避けるように目を伏せて、頷いた。
「俺の言っていることは、ただの憶測だ。・・・・・・ノアが夫に出会えることを祈っている」
彼はそれだけを残すと、さっと身を翻して雑踏の中へと消えていった。
ノアは、すらりとした姿勢のいい背中を見送りながら、何故かひどく心細いような哀しいような気持ちになった。そんな自分に戸惑った。
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