第8話

 『ルーヴェ観光の手引き』には町の地図も載ってある。それを頼りに、ノアは歩き出した。

 教会は町の西側にある。王城はその反対側にあるようだった。彼女は、一度王城を近くで見てみたいと思った。乗合馬車に乗るのが一番早いのだが、途中でお昼をとろうと思ったノアは、そこまでは歩いていくことにした。

 地図によると王城の周りは貴族たちの邸宅や市庁舎がある区画のようだが、反対に教会の側は中流階級の人間が多く住む区画らしい。下町にも近く、安くて美味しい屋台があるのも下町の辺りだとあった。

 いくつかの道を曲がり、下町の区画へ来るとぐっと行きかう人間の数が増えた。狭い路地に軒を連ねるようにして屋台や露天が並び、買い物をする人々が忙しく行きかっている。客を呼ぶ店の主人の声や、値切る客の声で辺りは騒がしい。キシルの町にも、露天や屋台は出ていたが、それの比ではない。規模が何倍も違うのだ。

 あまりの人の多さに、どこの店へ入ればいいのか困る。お昼時のせいで、どの店の前にも行列が出来ていた。

「ちょっと、早くしてくれない?」

 甲高い声が、ノアの注意を引いた。すぐ側の肉の串焼きを売っている屋台の前で、男が一人慌てた様子で懐を探っている。その後ろに出来た列の客はみな迷惑そうな顔をしていた。

「お客さん、お金持ってないの?」

「あ、いや、確かにここにあったはずなんだが・・・・・・」

 困り果てた様子で何度も同じところを探っている。

「おい、まだか?」

「早くしろよ、昼休みが終わっちまう!」

 苛立った声に、男の金を探す手が早くなるが、どうやらどこにも見当たらないらしい。食い逃げでなければ、落としたのかスられたのか。

「ねぇ、お客さんいい加減にしてもらえないかい。他の客が待ってるんだ」

「あ、ああ、悪い」

 男は、突き出された肉の串焼きにちらりと視線を向けた後、申し訳なさそうに店員に言った。

「それは後ろの客に回してくれ」

「あのさぁ、うちの商品は味付け注文で売ってるから、それされると困るんだよねぇ」

 ひどく迷惑そうな店員の声に、男の背中が小さくなる。ノアは、カチンと来た。

「あたしが払う」

 気がついたら、男の隣に立って言っていた。

「いくら?」

 店員も男も目を丸くして、ノアを見た。

「八ミシだよ」

 お金を払ってくれるなら誰でもいいらしい店員が、ノアに向かって言った。彼女は店員にお金を渡すと、商品を受け取り、もう一方の手でぽかんとしている男の手を引いた。

「あ、おい!」

「ここにいたら他の客の邪魔でしょ」

 掴んだ手は大きく、ごつごつと節くれだっていた。その手をぐいぐいと引っ張って、人の少ない場所へ連れて行く。路地の奥に場所を見つけて、ようやっとノアは男の手を離した。

「はい。これ」

 振り返り、串肉を渡す。男は戸惑ったようにそれを見下ろした後、ノアに視線を向けた。

 その男の瞳が、僅かに瞠られた気がした。

 背の高い男だった。二十代半ばほどだろうか。すらりとした体躯に飾り気のない下町風の衣服を身にまとっている。やや癖のある黒髪を襟元で切りそろえ、肌は日に焼けてはいるが、すべらかだ。顔立ちの彫りは深く、鼻が高く目尻がくっきりとしている。ノアを見つめる瞳は、影のように黒い。

 ノアの目から見ても十分、美形の部類に入る男だった。精悍で、だが、どこか無骨そうな印象も与える。武人か、職業軍人かもしれないと、彼の腰に指してある剣を見て、彼女は考えた。

「どこかで、会ったことがないだろうか?」

 ノアを見つめたまま、男が言った。窺うような探るような、真剣な目をしていた。眉間に寄せられた皺を見つめて、彼女は首を振る。ノアには覚えがない。

「あなたセザ村か、キシルの町へ来たことがある?」

「・・・・・・それはどこの町だ?」

「西端にある小さな町よ。ダリテの森の近くにあるわ」

「ダリテの森なら知っている。マラネアの国境の森だな。・・・そうか、では俺の気のせいか」

 最後は独り言のようだった。ノアは肩を竦め、串肉を無理やり男の手に押し付ける。

「ねぇ、これ食べたかったんじゃないの?」

 とっさにそれを受け取った男は、少し眉を上げた。

「いや、しかし・・・・・」

「困ったときはお互い様って言うでしょ。あんた、お財布忘れたの? 落としたの? すられたの? そっちのほうを心配したほうがいいんじゃない?」

「たぶん・・・落としたんだろう」

「そう。いいの? 探しに行かなくて?」

「どうせもう誰かに拾われている。たいした金額が入っていたわけじゃない。あきらめるさ」

「財布を落としたのは不運だけど、あたしに助けてもらえたんだから、その不運も帳消しね」

 ノアが少しばかり偉そうな調子で言うと、男は素直なほどあっさりと頷いた。

「そうだな」

 冗談のつもりで言ったのだが、男は唇にうっすらと笑みさえ浮かべたので、ノアは不発に終わった冗談に少しだけ居心地悪くなる。

「あたし、もう行くわ。自分のお昼も探しに行かなきゃ」

 彼の横を通り過ぎようとしたら、腕をがしりと掴まれた。

「待て。お礼をする」

 引っ張られて再び男の前に引き戻される。いや、それ以上に先ほどよりも彼との距離が近くなった。

「お礼?」

「ああ、串肉の礼だ」

 ノアの腕を掴んでいるのとは反対の手に持った串肉を掲げ、男が真面目腐った様子で言った。ずいぶんと義理堅い男だ。

「お礼ってなにを? あんたお金持ってないじゃない」

「・・・・・・体で払う」

「若い娘相手に、何てこと言うのよ」

 思わず睨み付けると、男の眉がまた寄った。

「そういう意味じゃない。肉体労働をするという意味だ」

「別にあんたに肉体労働してもらうような用事なんてないわ。しかも、たった八ミシよ」

「金額の問題じゃない。善意への返礼をしたいと言っている」

「どんだけ義理堅いのよ」

 思わず呆れて突っ込んでしまった。

「・・・・・・その格好旅行者か?」

「そうよ。今日ここへ着いたばかり」

「泊まるところは決まっているのか?」

「ええ。連れがいるの。でも、今はちょっと時間が空いたから、町を観光しようと思ってね。その前に昼ごしらえしようとしたら、あんたを助ける羽目になったわけ」

「案内する。どこへ行きたい?」

「は?」

「俺は町に詳しい」

 それから何度か必要ない、いや俺が案内するという男とのやり取りを繰り返し、結局ノアが折れた。男はいかにも頑固そうだったし、男に掴まれた腕がいい加減痺れてきたからだった。彼はノアが頷くまで、放しそうにない雰囲気だったのだ。

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