第7話

「ノア、もうすぐ王都に尽きますよ」

 向かいに座るラビットが、本に目を落としたままのノアに声をかける。ちょうど区切りの良いところまで読み終わった少女は、顔を上げて窓の外を見た。乗合馬車の小窓からはのどかな田園風景が広がっている。その向こう側に、石組の堅牢な城壁が見える。さらに城壁の向こう側からは、尖塔がいくつか突き出しているのが見えた。

「熱心に本を読んでいたようですけど、そんなに面白かったですか?」

 外国旅行者向けに書かれた、『ルーヴェ観光の手引き』という本を読んでいたノアは「まあまあね」とそっけなく答えた。馬車の長旅に暇をもてあました彼女は、途中の町でこの本を買った。大雑把な流し書き程度ではあったが、退屈しのぎにはなった。

 西端のセザ村から、王都ルーヴェまでは馬車を使っても五日かかる。外出といえば徒歩半日ほどの距離にあるキシルの町にしか出たことのないノアにとっては、大旅行に等しかった。

「王都は初めてですか?」

「いいえ。ずっと昔に、一時暮らしていたことがあるわ。でも、もうずいぶんと昔の話だから、いろいろと様変わりしてるでしょうね」

 街道を見ていても、ノアが知っていたころとはずいぶんと変わってしまっている。するとラビットは不思議そうな顔をした。

「あなたはずっ昔とよく口にしますが、まだそんなに若いのに、ずっと昔というのはどれほど幼い頃の話なんですか?」

「昔は昔よ。あたしは見た目ほど若くないの。だけど、あんたにも驚いたわ。その顔で、二十二歳だなんてね」

 外見だけを見れば彼は十六、七にしか見えない。ずいぶんな童顔だ。ラビットは困ったように笑った。

「よく間違えられるんですよね」

 巨大な城門をくぐれば、そこはアシュヘルク一、華やかで賑やかな都だ。きちんと舗装された石畳の道がはるか遠くまで続き、その道幅は驚くほど広い。馬車が何台も行きかい、洗礼された衣服を身にまとった人々が楽しげな声を上げて歩いている。通りに並ぶ店はどれも洒落た感じで、陳列窓からのぞく商品は都会的な匂いがした。

 乗合馬車は、城門の脇で停まる。そこが終点なのだ。そこからさらに町の中を走る乗合馬車に乗り換える。隣り合わせたのは、下町風の婦人達や労働者風の男たちだったが、どれもノアよりずっと身奇麗な格好をしていた。

 すっかりくたびれところどころ色落ちした灰色の外套は長旅のせいでほこりを被って汚れ、その下に来ている服は、ずいぶん昔に買った黒の一張羅だが、何度も洗って着直しているせいで全体的によれよれだ。デザインも古臭い。

 町の人間はみな華やかで、黒単一の衣服をまとっている娘はほとんどいない。どれも色鮮やかなドレスを着て、髪や胸元に薔薇などの花飾りをつけている。ノアは、自分がひどく場違いなところに来てしまったような気がした。

 実際、場違いには違いないだろうとも、思った。

 馬車は何度か停留所に停まって、人を降ろしたり乗せたりした。

 聖マティシア教会は、数えて八つ目の停留所だった。ラビットに促されて降りたノアは、そこに聳える絢爛とした建物に息を呑んだ。まるで天上を突き刺すような鋭く尖った尖塔が、いくつも高く聳えている。その一番高い尖塔の天辺には、ルダ教の主神、背に翼を持ったガールレーダ神の石造が奉られていた。

 首が痛くなるほど、尖塔を見上げているノアに、ラビットが笑い声を上げた。

「すごいわね」

 それ以外に言葉が出て来ない。こんなすごい建物は始めて見た。キシルの町にも、教会はあった。それは町で一番高い塔を持った建物だったが、今目の前にあるものに比べたら、まるで月とスッポンだ。

「さあ、こっちですよ」

 ラビットが案内したのは、教会の正面入り口とは別の入り口だった。どうやら表は信者などの参拝者用の出入り口になっているらしい。同じ乗合馬車で降りてきた他の者は、みなそちらへと吸い込まれていった。

 ラビットがノアを案内したのは、教会よりも離れた場所にある背の高い石塀に取り付けられた扉だった。その中へ入って、ノアはさらに驚く。

 石塀の向こう側には青々とした芝生を称えた広場が広がっている。木々が植えられ薔薇を植えた大きな花壇まであった。その広場を囲むように、石組の回廊が巡っている。その回廊の奥にはいくつもの建物が並んでいた。

「聖マティシア教会は、この石塀に囲まれたすべての事を指します。表の聖堂は、ほんの一部にしか過ぎないんですよ」

 それは、まるで山城のようだ。それぞれ背の違う建物がいくつも積み木のように繋がりあい、巨大な城という名の教会を作り上げているのだ。

「さあ、こちらへ」

 ラビットは広場を突っ切り、奥の建物へとノアを促す。広場には、彼と同じように聖衣をまとった聖職者達が行きかっている。ラビットは一つの建物の前で立ち止まると、ノアにそこで待っているように言って、一人で扉をくぐった。

 一人残されたノアは、目の前の建物の壁を眺めた。ただの石組のように見えて、その石の一つ一つに精巧な絵図が彫られているのだ。それはすべての建物の壁にも彫り込まれている。何を描いているのかはノアにはわからなかったが、途方もない労力と時間をかけたのだろうことだけはわかった。

「すごい」

 彼女は恐る恐る壁の一部に触れてみた。よほど古い物なのか、指先が伝えてくるのは円やかな凹凸の感触だ。そっとそれをなぞっていると、ラビットが戻ってきた。壁を撫でているノアを不思議そうに見た後、彼は困ったように頭を掻いた。

「ノア、申し訳ありません。どうやらアウレリオ様は、所用で外出しているみたいで、夕方にならなければ戻らないようなんです」

 ということは、昼前の今の時刻から数えて、あと五、六時間近くは待たねばならないということだ。

「アウレリオ様がお戻りになるまで、ノアには待っていただくことになります。休憩用の部屋を用意するので、そこで休んでいてください」

「ねぇ、町へ出ちゃだめなの?」

 ノアは、塀の外へ顔を向けた。

「少し見て回りたいわ」

「ですが・・・・・・」

 渋るように、ラビットが眉根を寄せる。

「僕はこれから旅の報告をしなくてはならないので、着いていってあげられません」

「一人で行くわよ」

「一人で、ですか?」

 彼がためらう理由がわかっているノアは、肩をすくめた。

「別に逃げやしないわ。話をきちんと聞くって約束したでしょ。ちゃんと戻ってくるわよ」

「・・・・・・わかりました。教会の鐘が五つ鳴ったら戻ってきてください」

「五つね。わかったわ」

「迷子には気をつけてください。ここは広いですから」

「町のどこへ行っても、この高い尖塔が見えなくなることなんてないでしょ。迷ったらこの尖塔を目印にするわ。子どもじゃないんだから、心配しないでよね」

「わかりました。気をつけてくださいね」

 先ほど通った塀門の傍まで見送りに来たラビットは、最後まで心配そうな顔をしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る