第5話
ノアは混乱した頭で、首を振った。
いつだって、影のように付いて回るアシュヘルクの存在。何度この国から出て行こうとしたことか。ナーダ大陸のはるか北端、豪雪の国にノアの故郷がある。そこから離れてどれほどの時間が過ぎたことだろう。ただ一つ、ある人との約束だけを頼りに、この森の奥で一人きりで暮らしてきた。彼は、別れ際にこう言った。必ず還ってくるからと。だから、この国で待っていて欲しいと。なのに、幾年月もの昼と夜がめぐっても、彼は帰ってこない。
彼はノアを忘れてしまったのだろうか。ノアを捨ててしまったのだろうか。
彼を待つことだけで、彼を信じることだけで、ノアは精一杯だ。そのことだけを考えていることしか出来ない。なのに、目の前の男はノアに、国を守れと言っている。このアシュヘルクを。
「出来ない。無理よ」
彼女は弱々しく首を振った。
「あたしは、ここから離れられない。ここにいなくちゃいけないんだもの」
「どうしてですか? なにか理由があるんですか?」
小さな子供のように出来ない出来ないと繰り返すノアを、優しい声でラビットが問いかけてくる。
「約束を、しているの。ここで帰りを待つって」
「あなたには待ち人がいるのですか? でも・・・・・・こんなところに? あなたをたった一人残してその人はどこに行ってしまったんですか?」
ラビットは不思議そうに呟き、ぐるりと辺りを見回した。最後にノアに視線を戻すと、こくんと首を傾げ哀しげな笑みを浮かべる。
「寂しくないんですか、一人で」
ノアは、なぜかはっとした。瞠目し、押し固まる。のろのろと頭を上げて、目の前の聖職者を見た。
「こんな森の奥で、あなたは一人で暮らしている。いつからそうしているんですか? いつその人は帰ってくるんですか?」
いつから? そんなのもうずっとだ。ずっとずっと、昔からだ。
「わからないわ。いつ還ってくるかなんて。いつか還ってくる、そう言っただけ。あたしはただその約束を信じて待っているだけなの。それしか出来ないから」
震える声で、呟く。
と、そのときふんわりとした綿毛のような柔らかな声がノアの鼓膜を震わせた。
「なら、迎えに行ってはどうですか? ただ待つだけよりも、その方がきっと良いですよ」
愕然とした。息が止まるほど驚いた。そして、胸が苦しくなった。喉の奥から熱い塊が競りあがってきた。それを寸前で、胸の奥に押し込めて、ノアは若い司教を改めて見つめなおした。
彼は特に深い考えがあって言ったわけではないようだった。子どものような笑みをにこにこと浮かべている。その薄茶色のふわふわとした綿毛のような前髪の間から、透き通るように綺麗な水色の瞳は、純粋に神を信じているものの目だった。
急に彼女はおかしくなった。
「あたし、確かにそれを考えたこと一度もなかったわ。待っていろといわれたから、馬鹿みたいに信じて待ってたけど、そうね、よくよく考えればこっちから迎えに行ったほうが早いのよね。こんな森の奥で、なにしてたんだろう、あたし。ほんと、馬鹿みたい。どうして、思いつかなかったのかしら。あんたの言うとおりだわ、司教さん」
ノアはすうと吸い込んだ息をゆっくりと吐き出した。
「ありがとう、ラビット・グリア司教さん。目が覚めたわ」
彼は照れたように頬を掻いた。
「いえ、そんな、僕はただ思い付きを口にしただけで。お礼を言われるほどのことをしたわけではありません。むしろ、僕のほうこそたくさんたくさんあなたに感謝しなくては」
「いいえ、そんなことないわ。あなたは、あたしを救ってくれたのよ。――――――本当にありがとう」
皮肉のない純粋な感謝を笑みとともに唇に乗せたノアの顔を、一瞬驚いたように見つめていたラビットは、瞬く間に首筋まで赤くした。目線を足元に落とし「いえ。本当に、こちらこそ」としどろもどろの様子だ。
それに一瞬、小首を傾げたノアだったが、思考はすぐに別のことに移る。
あの人を迎えに行く前に、彼女はずいぶんと昔、人に預けてしまった大切なものを取り返しに行かなければならないことに、気づいたからだ。それがなければ、彼に会いに行くことは出来ない。
「ねぇ、あたしに王都に来て欲しいといったわね?」
「ええ、そうです。王都に行ってアウレリオ枢機卿に会って欲しいのです。そこで、今以上に詳しく話しをしてくださるはずです。・・・・・・来てくださるのですか?」
さっきまで嫌だ嫌だと否定ばかりしていたノアが、急に積極的な様子で訊ねてきたので、怪訝に感じたのだろう。ノアは頷いた。
「いいわ、行ってあげる。あたしも、ちょっと王都に用が出来たの。でも協力するかどうかはまた別の話。まずはその枢機卿の話を聞いてからじゃないとね」
「いいえ、いいえ、それだけで十分です。アウレリオ様のお話を聞けば、必ずあなたもお心を動かされるはずですからっ! ああ、神よ、僕はついに使命をやり遂げました!」
ノアが王都に行くと言ったことがよほど嬉しかったのか、目の端に涙を浮かべながら、ラビットはその場で空を見上げて祈りを捧げだした。
しかしながら、彼の言っていることは、後のことはすべてそのアウレリオ枢機卿に丸投げするからよろしくと、言っているようなものだ。もっとも、本人は無自覚のようだが。西の魔女を探し出せと、ひどく大雑把な啓示をくれた神様に、感謝を述べているラビットに、ノアは呆れた。
それは砂漠で小さな石粒を見つけるようなものだったに違いない。ひどい苦労をしたはずだ。彼の姿がそれを物語っている。なのにその啓示を下した神に感謝するこの男は、ずいぶんとお目出度い。
だが、悪い気はしないと、ノアは思った。
聖職者特有の純粋で綺麗な心は、傍にいるだけで癒される。
と、急に「あ!」とラビットが大きな声を出した。薄水色の瞳を見開き、ぐるりと首をノアへ向けて動かした。
「そういえば、僕まだあなたの名前を窺っていませんでした!」
「・・・・・・ノアよ。ノア・リデル」
「おお、素敵でかわいらしいお名前ですね。あなたにぴったりです」
にこっと、小さな子供のように微笑んだ男に、ノアは複雑なため息を付いたのだった。
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