第4話

「現在、このアシュヘルクが侵略の危機に直面していることは、ご存知ですか?」

「・・・・・・いいえ。いきなり、ずいぶんと大きな話になるのね」

「ではアシュヘルクの東側にあるイグナートの国のことはご存知ですか?」

「少しだけなら。確か二十年程前に起こった政変で軍事政権に変わった国でしょう?」

「そうです。イグナートの現君主は元国軍大佐を務めていた男で、軍部に絶大な影響力を持っていました。彼が軍本部を動かし、当時の国王を暗殺し政権の転覆を計ったんです。それは見事に成功し、これにより急速にイグナートは強力な軍事国家へと変貌を遂げることになりました。現在イグナートは近隣諸国への軍事的侵略を目論んでいます。その第一段階が、このアシュヘルクなんです」

 彼はそこで一度息をつくと、再び言葉を続けた。

「イグナートはナーダ大陸の東端にある大国。大陸中央への侵攻を考えるなら、どうしてもアシュヘルクが壁になる。なによりもアシュヘルクは、大きな貿易港を複数持ち、近隣諸国へと繋がる大陸横断路もあります。ナーダ大陸において、アシュヘルクは中心的な存在といってもいいでしょう。イグナートは、このアシュヘルクを軍事戦略の足がかりとして、大陸への侵攻を考えているようなのです」

「・・・・・・イグナートは、つまりこの国へ戦争を仕掛けるつもりなのね」

「そうです」

 ラビットは、頷いた。

「・・・・・・でも、あたしはそんな話は一度も耳にしたことがないわ。ここはアシュヘルクの西端でイグナートとは正反対の場所だけれど、仮にも戦争が始まるかもしれないってときにその気配も噂話も一つも流れてこないなんておかしい。東の国境が緊張状態にあるなら、新聞でそれらしいことが載るはずだし、交易路を通る商人が噂を流しているはずだわ」

「国王の命令で、戒厳令が敷かれているんです」

「戒厳令?」

「イグナートは、大々的な戦争を仕掛けるのではなく隠密裏にアシュヘルクの中枢を乗っ取り、近隣諸国の裏をかくつもりなんです」

 それはすなわち、諸外国に気づかれぬようにアシュヘルクの国王や側近達の首を挿げ替えることで、他国へ奇襲的に戦争を仕掛けるつもりでいるということだ。アシュヘルクは、建国以来君主政治を貫いている。代々世襲制で王位が受け継がれ、国王一族は民衆から絶大な信頼と人気を誇っていた。その国王とその周りの側近を狙うことは、普通に戦争をするよりも、確かに早く確実にアシュヘルクを制圧できるだろう。

「でも、アシュヘルクには薔薇の檻があるでしょう?」

 薔薇の檻。アシュヘルクに手を出すものには、薔薇の棘で鞭打たれることになるだろうという、伝説がある。事実国境沿いには無数の薔薇が植えられており、それはまるで侵略者を阻んでいるかのようだった。

「ええ、そうですね。しかし、それを信じるのはもはやアシュヘルクの国民のみなのです」

 その言葉に、ノアははっと目を見開き、思わず唇を噛んだ。

「我が国に無数に散らばる薔薇の檻は、確かにアシュヘルクの民にとっては何よりも強い支えです。ですが、近隣の国々にとっては、もはや過去の遺物でしかありません。もはや薔薇は象徴的な意味を持つにしか過ぎません。本物の戦闘において、役に立つのは戦略と戦術、そして武力しかないんです」

 断言するようなラビットの言葉に、ノアは突き刺すような胸の痛みを覚えた。ここが夜の闇の落ちる庭でよかったと、彼女は思った。焚き火の明かりでは、ゆがむ顔に彼は気づかないだろう。

 掠れそうになる声を抑え、あえて茶化すような言葉を口にする。

「・・・・・・聖職者のくせに、ずいぶんと物騒な言葉を口にするのね」

 ははっと、ラビットは苦く笑った。

「仕方ありませんよ。アシュヘルクあってのルダ教です。たとえ万が一にこの国が滅びる運命であったとしても、目の前で殺される民をみすみす見放すことは出来ません。それに、僕らルダ教がとる手段は戦術でも武力でもありません。戦略です」

「・・・・・・それで、そこにいったいあたしがどう関わってくるのかしら?」

 これからが、本題だ。ノアはぐっと体に力を込めた。

「イグナートは、隠密裏に暗殺部隊をルーヴェに送り込んでいることが最近わかりました。国王一家の暗殺を図るつもりなのです。あなたには、それを阻止するために力を貸して頂きたい」

「ねぇ、ちょっと待って。国王暗殺なんて、とんでもない話だわ。そんな情報を掴んでいるなら、今頃上層部は大騒ぎでしょうし、それを阻止するためにちゃんと動き出しているはずでしょう? なぜそこに、こんな国の端っこに住んでいるなんの力もない魔女のあたしが、協力を申し込まれたりするのよ? まず、そこが意味がわからないわ」

「ええ、もちろんそうでしょうね」

 ノアの混乱もわかるというように、ラビットは何度も深く頷いた。

「ほんの十日ほど前のことでした。アウレリオ枢機卿が星の神アウグスタから啓示を受けたのです。西に住まう魔女の力を借りて、国を守護せよと。その者はこの国を新たな薔薇で包み込むだろう。そう、仰ったそうです。そして、この僕が派遣されました」

「魔女なら、あたし以外にも他にいるでしょう。なぜ、あたしなの?」

 能力者の数は普通の人間に対して圧倒的少数だ。しかし、アシュヘルクは魔女や魔術師に対して寛容な国であるために、近隣諸国に比べればその数はかなり多くなる。小さな町でさえ一人か二人は、魔術を商売にしているものを見かけるほどだ。

「アウレリオ様は、僕の力を信頼してくださったのです。星の神アウグスタは魔女の特定をしませんでした。それは、我々に己の力で見つけ出し、国を守れというご指示なのでしょう。当然といえば当然のこと。自分の国を守るのは、自分の手でなければなりません。僕は、幼い頃より目が良かったんです。神が特別に僕の二つの目に祝福を下さったからでしょう。アウレリオ様は、僕の目でその魔女を探し出すようにと仰いました。正直、僕としても不安じゃなかったといえば嘘になります。アウグスタは西にいる魔女としか啓示を下さらなかった。その数がどれほどのものかはわかりませんが、アウグスタが啓示する魔女は、たった一人のはずです。僕はそれを果たして見分けだせるのかが、わかりませんでした。――――――でも、あなたを見つけ出せた」

 淡い炎の光の中で、ラビットは満ち足りたような笑みを、ノアに向けた。

「アウグスタが啓示した魔女は、あなただ」

 そのゆっくりとした声の響きは、彼が心の中からそう信じていることがわかった。逆に戸惑うのは、ノアのほうだ。彼の確信の根拠がわからないからだった。

「ちょ、ちょっと待ってよ! 意味がわからないわ。一人で満足そうな顔して笑わないで! あたしはちっとも納得しちゃいないわ。あんたは無力でか弱い魔女に、いったい何をさせる気なのよ。国の存亡を勝手にあたしに背負わせてもらっちゃ困るわ!」

 慌てて叫んだ彼女に、ラビットはきょとりとした顔をした。

「でも、僕には見えるんです。あなたのその巨大な力が。あなたは、誰よりも多くの祝福を神から頂いている方です。ご自分で気づいていないのですか? 僕も正直驚きました。あなたほどの祝福を持つ人がいるなんて、あの教皇様さえ凌ぐかもしれない」

「そんなこと言われても困る。あたしに力がないことは、あたしが一番良くわかってるのよ!」

 ノアは、地団太を踏んで言った。自分は無力で非力で、それ以外に何も持たない存在だ。彼女にとって大切なものは一つだけ。そのたった一つさえ、もうずっと失われたまま、一人きりで生きている。そんな自分に、いったい何をさせようというのか。なにを、させるつもりなのか。――――――何が出来るというのか。

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