第3話
ラビットの様子は極度の疲労と栄養不足だろう。無理な旅を続けてきたからに違いない。がたごとと揺れる荷馬車の後ろに乗りながら、彼は一度も目を開けない。眠る彼に膝を貸して座るノアは、ふと青く広がる頭上の空を見上げて、ため息をついた。
捨てていくことも出来たが、きっと追ってくるに違いない。啓示とやらが本当かどうかはわからないが、枢機卿に命じられてここに来たのなら、その命令は絶対だ。ルダ教に五人しかいないという枢機卿は神の代理人だ。その命に背くことは、信じる神に背くことになる。聖銅位にある司教が、そんなことをするわけがない。
どうせここで捨てていっても、結局見つけ出されて同じ話を繰り返されるぐらいなら、一度きちんと話をしたほうがいいだろうとノアは思った。それに倒れている人間を見捨てていくのもかわいそうだと、多少慈悲心が出た。
同じ方角へ帰る人の荷馬車の後ろに乗せてもらい、今こうして二人セザ村へ帰るところなのだった。
魔女と、そう呼ばれたのは久しぶりだと、ノアは気づく。人との接触のほとんどない生活をしているせいでもあったし、ノアが持つ魔力はとても小さくか細いせいもあった。
魔女・魔術師――――――神にも魔にも近しく、そのどちらの力も行使できる存在。精霊の声を聞き、魔物を使役し、人の身に余る不思議な術を使う。そう位置づけられている。もっとも同じ力を持つものが、聖職者の中にも多数存在する。ようは不可思議な力を使うものが聖職者になればそれが司教や巫女となり、在野にいれば魔女や魔術師と呼ばれるようになるのだ。聖職者によれば、それは神から授けられた奇跡となり、魔女や魔術師は己の秀でた才能によるものだとなる。
外国によっては聖職者以外の能力者を認めず、神仏に帰依しなければ処刑される国もあるという。同じ能力でも神から与えらものか、魔から与えられたものか判別によって、生死を分けるのだ。
その点、アシュヘルクはどちらにも優しい国だった。
ルダ教の枢機卿がノアを呼んでいるという。もしかして、自分を入信でもさせる気なのだろうか。
「・・・・・・こいつもしかして布教活動にでも来たの?」
本当にわけがわからない。
荷馬車をゼザ村の入り口で停めてもらうと、今度は村の入り口近くに住んでいる村人に荷車を貸してもらった。彼らに頼んでラビットを荷台の上に運んでもらい、ノアは一人車を押して家へ帰った。舗装の悪い道を時折右へ左へ上へ下へと跳ねながら、しかし一向に起きないラビットは、よほど疲れているのか、豪胆なのか。
ようやく家にたどり着いたときには、辺りに夕闇が漂い始めていた。
女手ではラビットを家の中の寝台まで運べない。仕方なしに庭に停めた荷車を簡易寝台へと作りかえることにする。枕とシーツを持ってきてラビットに被せてやった。焚き火を作り、炎を入れるとそこで夕飯作りに取り掛かった。
シチューが程よく煮込まれた頃、ようやくラビットは目を覚ました。彼は最初、ぼんやりと空を見上げていた。深い木々に覆われているダリテの森ではあるが、ノアが暮らすこの場所だけぽっかりと穴が開いたように空が見えるようになっていた。
「起きた?」
ノアが声をかけると、彼はびっくりしたように目を見開いた。数秒ほど彼女を見つめ、突然飛び起きた。
「ぼ、僕はっ!!」
「倒れたのよ。たぶん旅の疲れでしょ。悪いんだけど、あたしにはあんたを医者に見せてやれるだけのお金がなくてね、あんたも持ってなさそうだし、だからあたしの作った薬で我慢しなさい」
ノアはいつも自分が売っている薬草を煎じて作った薬を、ラビットに差し出した。木の椀の中には深緑色の液体が入っている。
「飲めば元気になるわ。医術の勉強は昔少しだけ齧ったことがあるの。あんたの病状は過労と栄養失調よ。どんだけ過酷な旅をしてきたんだかね――――――苦いから気をつけて」
差し出された椀を受け取り、ラビットは恐る恐る口をつけた。すぐに顔が顰められたが、彼は一気に飲み干した。ぷはと、息を吐き出して椀を口から離す姿が、小さな子供のようだ。
「あ、ありがどうございまじだ・・・・・・」
口の中に苦味を堪えようとした顔のまま、椀を差し出してくる。その手に角砂糖を乗せてやった。
「食べて。苦味が消えるから」
彼は急いでそれを口に放り込む。ごろごろと口の中で砂糖を転がしているらしく、頬がぷくりと膨らんだり引っ込んだりしていた。
「それを食べたら、次はこっちよ。よく煮込んだシチューは胃に優しいの。熱いから、ちょっとずつね」
先ほどの椀を水で漱ぎ洗うと、今度は出来たばかりのシチューを入れて渡す。彼は素直にそれを受け取った後、おずおずとノアを見た。
「何から何まで、その・・・・・・迷惑をかけてしまい申し訳ありません」
「まったくだわ」
そっけなく、そう返すと、ラビットは目に見えて小さくなった。ノアは自分の方の椀にシチューを注ぐ。
「・・・・・・あの、僕どうして、外にいるんでしょうか?」
「あたし一人じゃあんたを家の中に運べないからよ。今の季節は外で寝ても凍死する心配ないから、大丈夫でしょ」
「そ、そうだったんですか・・・・・・」
彼はきょろりと辺りを見回した。そして、ふと小首を傾げるように目の前にある半倒壊した家を見上げた。何度も瞬きを繰り返した後、不思議そうにノアを見る。
「あなたの家?」
とても人が住んでいるようには見えないと言いたいのだろう。ノアはふんと、鼻を鳴らす。
「早く食べたら?」
「あ、はい。いただきます。――――――お、美味しいです!」
スプーンを口に運ぶなり笑みを浮かべたラビットに、ノアは「そう」と短く返す。しばらくの間、二人は黙々とスプーンを動かした。焚き火の炎が真向かいに座るラビットの体を朱色に照らし出す。何とはなしにそれを目にしたノアは、自分が誰かと一緒に食事をとるのがずいぶんと久しぶりなのだということに気づいた。
セザ村に暮らしているとはいえど、ノアは森の中に籠りきりで、月に一、二度市場へ出かけるぐらいだ。村人も多くは老人で、ノアに用を持つものはほとんどいない。当然親しい友人がいるはずもない。
正直、なんとも奇妙な気分だった。相手が、わけのわからない司教のせいだからかもしれない。
「話をしても、いいですか?」
食事が終わり、ノアがお茶を差し出した後だった。突然の切り出しだったが、きっと話しかける機会をずっと窺っていたのだろう。もちろん、ノアも話を聞くために彼を家まで連れ帰ったのだ。
「どうぞ」
ノアが顎をしゃくってうながずと、彼は小さくこくりと頷いた。
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